桜色の迎春『常磐猫』
――day.4――
感情を取り戻した灰杜兄が涙も声も枯れるまで泣き終えた頃には、すでに街並みは電光の海に染まりつつあった。
陽たちは隣の家であるから、嗚咽の混じった声が聴こえていたのであろう。一度誰かが様子を見に来たものの、それ以降は誰も寄り付くことがなかった。
姿を見たのは姉上のみであるため、吾輩はその正体を知り得ぬ。しかし灰杜兄の友人であるならば、恐らくは先ほど会った人物であろうと考えた。
灰杜兄は灰のように真っ白に燃え尽き、抱えた膝に顔を埋めるようにしてドアの前に蹲っておる。
このアパートは灰杜兄の両親が管理しており、二階建てで部屋が各階3部屋ずつ。灰杜兄の住まう部屋は階段を登った二階の一番奥で、吾輩たちがいるのは二階の中央の部屋の前だが、現在二階の入居者は居らぬため邪魔にはならぬ。
「おーい、ごはん出来たみたいっすよ〜」
知らぬ間に一番手前の部屋のドアにもたれ掛かり、スマホを弄っている姿があったことに気付いた。これほど気配を完全に断てる人間がいるとは思わなんだ。
否、彼こそが姉上の謝辞を受けた人物であろう。その時からずっといたのかは謎である。
ところが灰杜兄は気付いていたようで、チラリと見やることなく「わかった。行くからもうちょっと待て」と返す。
涙でぐっしょりと濡れた制服をしばらく見つめ、一度自室へと姿を消す。暫しその場にて待つとTシャツ姿で現れた。
着替えを終えた事を確認し、吾輩の荷物を取りに一度灰杜兄の部屋に入り、さっさと要件を済ませて出る。
「それじゃ行くか」
そう言った灰杜兄は平常通りの無表情であったが、心なしか憑き物が落ちたように晴々として見えるのだった。
――day.5――
部屋が明るむ光に目を開くと、そこは見知らぬ天井であった。
眠気で鈍った頭を働かせ、昨夜の出来事を想起する。そう、ここは陽の住まう布瀬家の客室であった。
とはいえ元々は陽が使用していたものの、義兄上と同じ部屋へ移動した為に客室になったという。寝具以外にも家具が残っており、家出した吾輩としては好都合である。
『おはよう、猫』
ふと視線をさまよわせると、行儀悪くも勉強机の上に座る姉上の姿があった。
幽霊は睡眠を必要とせんようだが、姉上は吾輩という話し相手がいない時間は眠りについておるらしい。目を擦った後に大きく腕を伸ばし、縮こまった身体を解してみせる。
部屋のドアが閉まっていることを確認し、姉上に「おはよう」と声を掛ける。
「灰杜兄の部屋に泊まる予定ではなかったか?」
『見守っていたよ。けれど、彼はもう大丈夫。ボクがいなくとも、支えてくれる人たちがいるからね』
灰杜兄が感情を取り戻し、花楓殿が関西より舞い戻った。
あの日以来立ち止まったままであった二人が、新たな友人と共に未来への道を歩み始めた。前へ進むための道標となる光を掴んだのである。
斯くして、この地に縛り付けられ、不遇にも親友の壊れる姿を傍観することしかできなかった無力な姉上が、やっと報われた。
……そのはずであった。
『どうしてかわからないけれど、まだボクは消えることができないようだね……』
困惑の色を浮かべ、泣きそうな笑顔で姉上が呟いた。
吾輩にも理由がとんとわからぬ。
自分が消えた後も二人には笑って暮らしてほしいという願いは叶いそうであり、未練は断ち切られたはずなのだ。
つまり、姉上自身も気づいていない願いや呪いが心奥に秘められており、この世に留まり続けていると考えられぬだろうか。
吾輩としては友人と呼ぶべき存在がさっぱりおらぬので、姉上という話し相手が残ってくれることは歓迎なのだが……本人は成仏を望んでおるのだから口が裂けても言えぬな。
『この世界に留まるのならば、かわいい妹の恋路でも応援しようかな』
「にゃ、にゃにをっ!?」
全力で首を横に振る。あっ、アタイに好きな人にゃんて! いる、けど! 応援してもらう必要なんかないもんっ!
慈愛に満ちた表情で見つめてくるけど、今はお姉ちゃんよりアタイのほうが年上だしっ!
……そっか。お姉ちゃんは恋をしてたとしても、叶えることができなかったんだ。もしかして未練ってそういうこと、なのかな?
頭の中でグルグルと考え事をしていると、何度も名前を呼ばれた気がする。お姉ちゃん相手だから取り繕うこともなく肩を叩く手を無言で払った。……ん? ……手を払えた?
「ネコちゃん、何度呼んでも返事なかったんで部屋に入っちゃったんすけど」
背後を振り返ると、気まずそうに頬をポリポリと掻く陽の姿があった。休日とはいえ朝早く目が覚めておったのだろう。すでにダボっとした大きめなトレーナーへと着替えを終えている。
「ネコちゃん?」
再度名前を呼ばれ、声にならない声が溢れてしまう。真っ赤になった顔を布団に埋め、丸まった状態で隠れる。
「驚かせてごめん。急に部屋へ入ってほしくなかったっすよね」
陽はアタイの心を落ち着かせるように柔らかい声で話しかけ、そっと背中を撫でてくれた。たぶん、妹の雪ちゃんとおんなじ扱いで、それはそれで不服。
……不服なはずなのに、触れた手の体温が心地よくて、モヤモヤしていた気持ちが次第に晴れていく。
「先にリビングで待ってるんで、よかったらクローゼットの服着てくれると嬉しいっす」
人の気配が消え、パタンとドアの閉まる音が響いた。モゾモゾと布団から抜け出すが、もう陽の姿はない。
暫し虚空を眺めておると、顔の火照りは収まった。
『クローゼットの服を着ていいと言っていたよ。お言葉に甘えて着替えたらどうだい?』
「……うむ」
壁際のクローゼットを開くと、タグは外されているものの、未使用なままのワンピースやブラウスなんかがハンガーで掛けられておった。
陽が着るには首回りが小さくて丈が短い。かといって雪が着るには大きく、スカートはストンと落ちてしまいそうなほどである。
熟考の結果、丈が長めでシンプルなデザインのワンピースを着ると決心した。おそらく普段の吾輩では着ることなどなかろう。せっかくのご厚意に甘えるのだから、陽が見たことのない姿を見せたいと思ったのだ。
寝巻きに利用していたジャージから、ウエストをキュッと絞った小花柄のワンピースへと着替える。姿見の前で一回転。ヒラリと翻る裾にはレースが飾られておる。
普段の服装と系統が異なり、面映ゆい気持ちとなった。姉上がパチパチと拍手を贈ってくれる。
『とても似合っているよ。褒めてくれるといいね』
姉上の世辞を聞き流しておると、スマホの着信が鳴る。何者かからメッセージアプリに連絡が届いたのだ。
内容を目にした途端にスマホが手から滑り落ちそうになり、慌ててお手玉のように拾い上げる。
『灰杜∶予定がなければ桜の墓参りに付き合ってくれないか』
受信したメッセージをそのまま花楓殿へと転送する。
灰杜兄は事件の後、一度も姉上の墓参りをしたことがない。それ故に吾輩を道案内として頼りにしておると思っておったのだが――
「おはようネコちゃん。暦日から話は聞いてるよ」
「へ?」
「僕も一緒に行くんだ」
リビングの椅子に座っていた影の薄い青年――灰杜兄の友人である紫蘭殿にそう告げられ、開いた口が塞がらなかった。
てっきり姉上と一対一で話したいということだと思っておったが、まさか一人で赴く勇気がないとは思わなんだ。
――そもそも灰杜兄にとって吾輩は何者であろうか。
浮かんだ疑問は一旦お茶で流した。問うたところで答えを得られるとも思えぬ。
保護者である夏目殿が作ったご飯の配膳を、アルバイトにて培った俊敏さにて陽が行う。客人とはいえ一泊の恩があるため手伝おうと思ったのだが、隣に座っておった陽の妹君に服の袖を掴まれた。
「お客さんだから、ネコちゃんは座ってて! イノリちゃんが手伝ってくれるから!」
天真爛漫な笑顔で告げられ、紫蘭殿はバツが悪そうに向かいの席を立った。
とはいえほとんど終わっていたのか、汁物を運ぶだけで手伝いを終えたようである。
夏目殿の号令にて全員一斉にいただきますを言う。
食事時はテレビでニュースを流しつつ、陽や雪がそれについて話す。興味のない場面においては今日の予定について連絡しており、それには夏目殿と紫蘭殿も混ざっておった。
和やかな団らんは我が家では久しく見ておらぬ。懐かしい心地に胸が温まった。
食事を終えると、各々が自身の食器を流し台へと片付けた。
夏目殿と雪は買い物へ、陽はいつも通りファミレスのバイトへ、吾輩は紫蘭殿と共に灰杜兄の家へと向かうために家を出る。
「ユキ、夏目さんを困らせちゃダメっすよ!」
「うん! いいこにしてる!」
「それじゃあ行ってくるわね」
ふと、夏目殿と雪を見送っていた陽と目が合った。
ニカッと歯を見せた爽やかな笑みを向けられ、心臓が高鳴る。
「もしネコちゃんが気に入ってくれたなら、その服もらってほしいっす」
「よいのか?」
「もちろんっすよ。そんでバイトがない日に、それ着て一緒にどこか出かけてほしいっす」
「う、うむ」
「約束っすよ!」
自転車に跨り急ぎペダルを漕ぐ背を、吾輩は手を振りもせずにボーッと見つめておった。
めかしこんだ姿で共に出かけるということは、いわゆる逢引き――デートではなかろうか。
二人きりとは明言されておらぬが、間違いなく特別な誘いであろう。姉上も『デートに誘ってもらえてよかったじゃないか』とニヤケ面で告げてくる。
恥じらいよりもデートへの期待が上回り、頭には次々と行き先の候補が浮かんでくる。その肩をポンと叩かれた。
「ネコちゃん、1つ聞いてもいいっすか?」
「……構わぬが」
布瀬家にいた時と異なる口調に違和感を覚える。
昨日もこのように陽の真似をしていたやもしれぬが、灰杜兄のことでいっぱいいっぱいだったため覚えておらぬ。
……ヘラヘラしおって、吾輩を逆撫でする態度である。
「あ、やっぱり2つ聞きたいんすけど」
「早くしてくれぬか」
イライラを隠すことが出来ず、自然と当たりが強くなる。
目を離した間に、紫蘭殿は眉間にシワを寄せ、困ったような笑顔になっておった。
「もしかして、僕のこと嫌いっすか?」
「根拠なく言っておるわけではなかろうな」
「だってヒナのことが好きなんすよね」
「にゃ、にゃんでっ!?」
頭が真っ白になり、息をするのも忘れかけた。
何やら話が続いておるようだが全く頭に入らぬ。
相手に聞こえていそうなほどに、心臓がバクバクと脈打つ。
「図星みたいっすね。だからヒナの真似をしていて、一緒に暮らしている僕のことが気に入らないと……」
「かかかかかんけいにゃいっ! あるけど!」
たしかにアタイは陽のことが好きだけどっ! だから真似されてるとなんとなく嫌だけどっ!
噛んじゃうくらい動揺してるのは、その好意に気付かれたせいだもんっ!
うぅ……と、とりあえず落ち着いて平静をよそおわないと……
深呼吸で興奮を落ち着ける。
一部始終を見守っていた紫蘭殿は、カラカラと笑っていたかと思えば、しゅんと萎れるように哀しげな表情を浮かべた。
コロコロと表情が変わる様は人間味溢れておるはずだが、どことなく不気味である。そう、たとえば――
「それが素の姿なら、ずっと仮面を被るのは疲れない?」
「そのまま言葉を返させていただく。場面に合わせて感情の仮面を付け替えるのは骨が折れる作業ではないか?」
予想だにせん返答だったのであろう。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まってしまった。
核心を突いていたようである。困ったように頬を掻く。
「驚いたなぁ……まさか口調だけじゃなく表情まで偽ってることに気づくなんて、白詰さん以来っすよ」
「陽や雪には気取られておらぬと?」
「家の中では僕のままだからどうだろうね。二人とも優しい子だから口に出さないだけかもしれないし」
わざわざ仮面を着けている身だというのに、本当は知られていても構わぬのだろう。動揺が一切見られん。
「だからさ、僕はなんにも困ってないんだよ。なんならもう仮面はいらないと思うし」
「不必要ならば吾輩の前では仮面とやらを外していただこうか」
「わかった。それで、君はどうして仮面を着けてるのかな」
「他者にとっては異質であろうと、吾輩は吾輩である。自身の焦がれる姿を目指して何が悪いのであろうか」
「……悪くないよ」
吾輩の望む姿は無理して作られたものだと思ったのか、どこか歯切れの悪い返事である。だが、それはおそらく吾輩の言葉とある人物を重ねたのもあるのだろう。
吾輩はその人物からもらった言葉に共感したからこそ、そのまま伝えたにすぎぬ。
「全然悪くないよ。自分らしくいるためなら、心を守るためなら、仮面を着けても幻影を作り出してもいいと思う」
それはまるで自分自身に言い聞かせるようで……
「けれどいつかは、暦日みたいに現実と向き合わないといけないんだよね」
吾輩には知りえぬ、確固たる意志を固めたようだった。