茶色の猫娘『常磐猫』
――day.4――
吾輩は猫である。
名前が、猫なのである。
さて、現在吾輩は友に会うため、とある場所を訪れておる。
様々な人々の魂が眠りにつき、冷たい石の墓標が並ぶ地。
その一画にポツンと佇む人影を見つけた。
平日の昼間で人気が少ないのもあるが、遠目からでも目立つ風貌であった。
目に焼き付くほど鮮やかな赤髪、線は細いながらもガッシリとした筋肉、双眸にはメラメラと正義の炎を点し、見た目にそぐわぬ可憐な花束を携えておる。
「久しぶりやな」
聞き慣れぬ独特のなまり。実は先週まで関西に住んでおったが、ある目的のために遠路はるばる戻ってきたのだ。
文通にて互いに近況を報告しておったが、写真が添付されたのは一度きり……まさかこれほど変わっていようとは夢にも思わなんだ。
「吾輩からしてみれば……久方ぶりではなく、初めましてのほうが正しかろう」
「せやな。アンタがちっこい頃に引っ越してもうたから」
文通を始めたのは吾輩が小学校高学年になってから。
どうしても話してみたいと両親に駄々をこね、記憶に薄い相手へ一方的な文を送り付けたのが始まりである。
「ほな改めまして、ウチの名前は燐堂花楓。アンタの姉貴、常磐桜の親友や」
「吾輩は猫である。名前が猫なのである」
夏目漱石の『吾輩は猫である』を基にした自己紹介は、名乗るだけで名前を印象づけることができるので重宝しておる。
「……時に、何故帰られたのか答えていただけるか」
「聞くのは野暮やろ」
ボリボリと頭を掻く姿からは、面倒という文字が透けて見える。
「ウチのことより、灰杜はどないしとる?」
「相変わらずである」
「ちゅーことは、まだ桜の幻影が見えとるんか」
それは核心を突いた、答え難き質問であった。
沈黙を肯定と受け取られたのであろう。
「……さよか」
しんみりとした空気が流れる中、吾輩は手向けの花を花立に飾り付けた。
目を閉じて合掌した後、視線を上へ向ける。
墓石には、死んだはずの姉上が座っておった。
「桜はなんか言うとったか?」
『灰杜なら、今朝記憶の断片を思い出し、壊れかけていたよ』
今の吾輩より幼き姿のまま時間が止まった姉上は、愛しい親友の精神の綻びを悟っておった。
花楓殿が帰郷に至る理由は、吾輩が先月の手紙でそれについて書き記したからに他ならん。
亡霊である姉上の言葉を、花楓殿に一言一句違わず伝える。
「……けれど、その後自らの言葉で暗示をかけ、記憶をもう一度封じ込めたと申しておる」
「ほんなら、いつ灰杜の心が崩壊してもおかしないんやな」
事態は刻一刻と進行しており、手遅れとなる前に手を打たねばならぬ。
灰杜兄がもし町中で犯人と鉢合せしてしまえば、心が壊れるだけでは済まぬだろう。それほど状況は緊迫しておるのだ。
「まずは桜の死を受け入れさせるのが先決やけど、ウチが会ったらややこしゅうなるかもしれんな」
「吾輩に任せよ。荒事になるやもしれぬが、考えがある」
「さよか。ほんならウチはアイツのこと探るわ」
適材適所。単純ながら限られた時間内で効率よく動く為の最良の策なり。
「だが一人では限界があるのではなかろうか」
花楓殿は口の端を持ち上げ、不敵な笑みを浮かべる。さながら標的を見付けた盗人のようだ。
「ええ情報源知っとるんよ」
花楓殿が取り出したるは、黒地に白い文字が印字された名刺である。下地には紫の胡蝶蘭が描かれていた。
「この紋様、何処かで……」
「帰ってきた時に駅前で絡んできた兄ちゃんと拳で語り合ってな、困ったことあったら助けてくれるて言うたんよ」
名刺に描かれた胡蝶蘭。喧嘩早く武力に長けた男性。二つの情報から花楓殿の相手がどのような者だったか、その正体に帰結した。
「現川に根付きし侠客……胡蝶組の構成員ならば、地元の情報に詳しいだろうな」
「はー、そない有名なヤツやったんか」
「うむ。組に仇なす可能性を示唆すれば、容易に情報を明かしてくれるやもしれない」
危険を抱えし異分子ならば、自らの手ではなく他者に委ねる方が都合がよい。
なればこそ、火種を潰す為に情報を渡してくれる可能性は高かろう。
「さよか。まぁアイツについてはウチに任しとき。あんたを荒事に巻き込むわけにいかんし」
「信頼しておる」
「そらこっちのセリフやで」
握り拳を互いに突き出し、コツンと重ね合わせる。
年齢ゆえの身長差により、大きな背が頼もしく見えると同時に、自分が追い付けぬ事実を突き付けられているようでもどかしい。
「ほな、ウチは行くな」
「花楓殿!」
去り際の背中を咄嗟に呼び止める。
理由は一つ。
「親友といえども、何故そこまで固執するのだ?」
ただ過去から救済するだけならば、あの者について調べる必要など毛頭ないはずである。
花楓殿の答えは単純明快であった。
「ウチの正義を貫くため」
花楓殿にとって『正義』とは何か、吾輩はもう知っておる。子供の頃から何ら変わらず、口癖になったと姉上が申していた。
「二人を愛することが、ウチの正義や」
親友である二人を今でも心から愛しておる。
もし二人を脅かす存在がいれば、正義の鉄槌を犯人に下す。復讐すら厭わぬと聞いた。
だが――
「他にも動機があるのではないか?」
花楓殿は顔に影を落とし、去り際にポツリと呟いた。
「……あれは、どういう意味であろうか」
残されし言葉を反芻しつつ、吾輩は件の人物と待ち合わせの約束を取り付けた。
☆☆☆
適当な理由をこじつけ、吾輩は灰杜兄の住むアパートへ宿泊の為に訪れていた。
このアパートは元々灰杜兄のご両親が管理しており、一人暮らしを望む場合、ここならば許すと条件を出したらしい。
灰杜兄の部屋には必要最低限の家具しかなく、飾り気がないため殺風景だった。黒と白で構成されるモノクロな世界は、本人の心を顕現させたようだ。
チラリと様子を窺うが、相変わらず灰杜兄は考えが読めん。さきほどのお嬢様らしき人物の言葉が、響かなかったとは思えんが……
その場の誰もが驚いたことであろう。何せ彼女は、『亡霊』の正体が灰杜兄の幻覚であり虚言だという、公然の秘密について突き付けたのだ。
花楓殿の名前を出した時ほどの動揺は見せなかったとはいえ、何らかの心の変化はあるはずであろう。吾輩にはそれを見守る義務がある。
「お前が寝るのは隣だ」
「うにゃっ!?」
えっ、隣って……まさか灰杜にいの隣!?
子どもの時は添い寝というか、桜ねえも一緒に川の字で寝てたこともあったけど――
「にゃあああああ!?」
沸騰したかのように頭から熱気が放たれ、火照った頬を両手で冷やす。
「あ、アタイは別に、一人でも寝れるんだからにゃっ!」
火を吹きそうな勢いのアタイに対し、灰杜にいは氷河のように冷えきっていた。
「よくわからないが、ここは俺の部屋で猫に貸すのは隣の空き部屋だ」
アパートの廊下に飛び出し、隣の部屋の前に立つ。ドアの表札は空だった。
「ももも、もしかしてっ! 灰杜にいの言ってた隣って、この部屋のことにゃの?」
「ああ。お前が泊まりに来ることを伝えたら、この部屋を使っていいと言われた」
とんでもない勘違いをしていたと知り、感情を処理しきれない頭はショート寸前だった。
穴があったら入りたい。……穴はないから避難訓練みたいに灰杜にいの勉強机の下へと隠れる。
頭を冷やすためにとりあえず深呼吸。吸ってー、吐いてー……よし、これでよかろう。
冷静さを取り戻し、もぞもぞと机の下から抜け出る。
灰杜兄は開いたままの扉の前で、仁王立ちで待ち構えていた。
「どうして家出して来た」
「吾輩は反抗期というやつでな。父上や母上と進路のことで揉めたのだ」
本音はとっさに出た嘘で隠せただろうか。心配で来たなどとは口が裂けても言えん。
「あの~、女子中学生だけで長期滞在ってのはマズイんじゃないっすか?」
口を挟み、ましてや吾輩の作戦に待ったをかけたのは、吾輩も知っている人物であった。
「布瀬か」
「ども、回覧板のお届けに来ました」
バインダーを仰いでいる、一見軽薄な風貌の高校生は布瀬陽という。灰杜兄の住むアパートの隣の家に住んでおり、吾輩より一つ年上だ。
昔、迷子になっていた妹を姉上や灰杜兄が見つけたことをキッカケに、顔を会わせれば挨拶くらいするようになったと聞く。
「ダメっすよネコちゃん。中学生の女の子が一人部屋なんて」
「吾輩を子供扱いするな」
「いやいや、かわいい女の子だけって危ないじゃないっすか」
柔らかく吾輩の髪が混ぜられる。
吾輩のことをかわいいと言うのは陽くらいである。大体は見えぬ者を見る吾輩のことを気味悪がって近寄らないのだが、こいつは吾輩を見かける度に声をかけてくれるようだった。
……と、そんなことを考えているうちに、火が点いたように頬が熱くなってくる。
「い、いつまで触ってるつもりにゃのっ!?」
ペシンと手を払うと、不思議そうな目で尋ねられる。
「気持ち良さそうだったから、撫でられるのが好きだと思ったんすけど……」
『まるで飼い主に愛撫される飼い猫のようにとろけた顔をしていたよ』
うぅ……お姉ちゃんの言葉を否定したいけど、魔性のナデナデには逆らえにゃい。
妹がいるからか、陽の手つきは癖になるほど優しく、少しこそばい。その手がパッと離れた。
「とにかく一人はダメっす。この意味、嫌というほどわかってると思うんすけど」
陽の言い分は直接的な表現ではないが、理解できている。
もはや風化しつつある話だが、この町に潜む殺人鬼は小中学生を狙っていた。被害者の最たる例こそが姉上だ。
十中八九、灰杜兄の記憶を刺激しないための言葉選びであろう。
気遣いを重んじることは吝かではないのだが、今日に限っては灰杜兄を近くで見守ることこそ急務なのだ。
「わかっておる。だが――」
「んじゃウチに来たらいいっすよ。客間空いてるんで」
再び冷静さを失い、「ふぇっ!?」と妙な声が出てしまった。陽は吾輩の動揺に気付くことなく、「お客さんがいると妹が喜ぶと思うんすよね」と悪びれなく言われ、断るタイミングを失ってしまった。
――そう。これは吾輩の意志に反することだが、致し方ない状況であろう。
「そ、そこまで言うのなら、ご厚意に甘えさせていただく」
「了解っす。んじゃ兄貴と夏目さんに連絡っと……」
スマホを軽快なフリック操作で動かし、メッセージを送信する陽を横目に、灰杜兄が「そういえば」と溢した。
「隣の家なのに、今まで紫蘭のこと見たことないんだが」
「あぁ、兄貴は空気的な存在感なんすよね。それに灰杜さんは視野狭窄っていうか、外の世界に関心がないみたいなんで、オレもよく挨拶を無視されてるっすよ」
「え……?」
真顔のままフリーズされるとどう反応したものか……陽も困惑の色を拭えないようではないか。
いや、動揺するくらいには感情を取り戻せたのだから、好転はしているのであろう。
『猫が灰杜の傍にいられない間は、ボクが見守るよ』
何かあれば姉上が呼び出しに来てくれることだろう。隣家ならばすぐに駆け付けられるため問題ないはずだ。
なにより、陽の好意を無下にできぬからな。
「せっかくなんで灰杜さんも一緒にうちで夕飯どうっすか?」
「いいのか?」
「問題ないっす! 当番はオレなんで一人分多めに作るっすよ」
「……なら頼む」
「了解っす。それじゃ一度家に戻ってから、買い物の準備してユキを連れて来るんで」
陽が鉄製の階段を軽快な音を立てて下っていくと同時に、嵐が去ったような静けさが訪れた。
灰杜兄は流れる雲を眺めながら、物思いに耽っているようだった。その頬に、ポツリと雫が零れた。
「……なあ、あいつの言ってたことは本当なのか?」
「何のことかとんと検討もつかぬ」
惚けていることは伝わっていることだろう。しかしこれは灰杜兄が明言しなければ意味はない。
言葉には力が宿っておるという考えがあるが、言葉にすることでその内容を認めた、受け止めたこととなる。
なればこそ、灰杜兄の口からその言葉が紡がれれば、吾輩の望みは叶い、花楓殿の夢にも一歩近づく。
暫し沈黙のまま待っていると、重々しく閉ざされていた口が、ようやく真実を告げた。
「館花の言っていた通り、俺の見ている桜は幻覚で……桜の姿を借りて自問自答しているだけなのか?」
まるで魔法――あるいは呪いが解けたようだった。
真実の言葉を口に出した途端に、灰杜兄の瞳から壊れた蛇口のように涙が溢れ出した。否、ようやく感情が追いついてきたのだろう。悲哀の感情が全身を包み込んでいる。
アパートの階段を上がる音は灰杜兄の嗚咽の声に掻き消され、誰がその姿を目の当たりにしたのかはわからなかったが、姉上がその者に対して『彼と友人になってくれてありがとう』と呟いていた。