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水色の雨粒『館花閖』

 ―― day.3――


 詩恩が倒れたという連絡を受け、あたしは迎えに来てくださったお父様の車ですぐに帰った。

 祷のことは詩恩の知り合いだからとお父様を無理矢理説得して同行させたけれど、何度も「本当に彼氏じゃないんだな!?」と確認されたのは面倒だったわね。


 家に着くとすぐに祷を詩恩の部屋へと案内した。

 最低限の家具しか置いていない殺風景な部屋だから、やけにだだっ広く感じるのよね。

 生活感の無い部屋って面白味がないから、人間らしさに欠けてる気がするわ。


 部屋の隅に置かれたベッドで、この部屋の主が寝息を立てていた。

 詩恩は玉の汗を流し、高熱のせいで悪夢にうなされているようだった。

 けれど、祷が手を握ると、たったそれだけで表情は柔らかくなる。

 やっぱりあたしの判断は間違ってなかったみたい。


「館花先輩、しばらく二人きりにしてもらえるかな?」


 あたしが部屋を出てから、祷が「お邪魔しました。今日はもう帰るね」と言い出すまでに何が起こったのかは知らない。

 ただ、見送った後に詩恩の様子を見に行くと、詩恩はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。


「おはようございます、お嬢様」


 目元が赤く腫れていたけれど、数年ぶりに想い人に会えたんだもの。無理もないわね。


「あの、お嬢様……」

「話があるんでしょう? あたしに」

「ええと……」


 躊躇いのある歯切れの悪い返事にイラッとする。


「言いたいことは包み隠さず伝えること! あたしに仕える時に同意したはずよ!」


 鳩が豆鉄砲を食らったような呆けた顔を浮かべた後、詩恩は表情を緩めた。まだ辛いはずなのに身体を起こす。


「……お嬢様、自分は執事を辞職させていただきます」


 長年付き従ってくれたのが嘘のような、あまりにも呆気ない終わり。情があってもいいじゃない。

 そんなのはあたしのワガママだってことくらいわかってるけど。

 詩恩は祷と暮らすための貯金をもう貯めている。仕事を終えると好きな人が待っている家に帰るような仕事の方がいいわよね。

 でも、ずっと仕えていた人が急に辞めるなんて、裏切られたみたいで寂しいんだもの。


「――なんて、簡単に辞めるわけがないでしょう」

「へ?」


 呆れたような物言いに戸惑いを隠せない。

 それどころか開き直られた態度に腹が立つ。

 笑えない冗談を言ったのは詩恩の方なのに、どうして鼻につく態度なのかしら。


「自分が突然執事を辞めて、誰がお嬢様の面倒を見るっていうんですか?」

「メイドでも執事でも、すぐに雇うわよ!」

「お言葉ですが、お嬢様の生活習慣は自分しか知らないですし、後任を育成せずにほっぽり出すほど無責任ではありません」


 自分の私生活をさらけ出していたことに今さらながら気づき、頬が熱くなった。


「それに、ワガママなお嬢様に付き合える人間なんて、自分くらいだと思います。ですが……」


 本当に、本物の家族よりもあたしを知っていてくれてるのね。詩恩には心の底まで見透かされてるみたい。

 申し訳なさそうに詩恩が頭を下げる。


「もし執事を辞めるとしたらお嬢様が高校卒業後、秘書として雇っていただこうかと……」

「なによっ、それっ!?」


 ベッド脇のテーブルをひっくり返しそうな勢いで詩恩に詰め寄ると、詩恩はいつもの人当たりのよい笑顔を浮かべた。仮面のような、貼り付けた笑顔。


「心配をお掛けしました。ですが自分は今しばらく貴女の(しもべ)ですので」


 むず痒さに耐えられず、思わず詩恩の身体を倒し、布団で生き埋めにする。

 さすがに羽毛とはいえ息苦しかったのか、すぐにもぞりと顔を出した。


「風邪なんてさっさと治しなさい! それが今の貴方の仕事よっ!」

「承知いたしました。閖お嬢様」


 それだけ返すと詩恩は目を閉じた。

 布団の隙間から覗かせたのは、赤ん坊のように無防備で心安らかな表情だった。



 ――day.4――


「おはようございます。お嬢様」


 目を覚ますと、いつもの燕尾服をキッチリと着込み、すっかり元気な様子の詩恩が立っていた。

 部屋のカーテンを開き、朝日を招き入れる。

 光が目に染み、たまらず手で覆う。まだ寝惚けた頭と身体を起こすと、ベッドから離れた椅子へ腰掛けた。

 テーブルにセットされた紅茶から漂う爽やかな香りが、頭の中をすっきりと覚醒させる。


「体調はもういいのかしら」

「ええ。お気遣い感謝します」


 昨日体調が崩れたのは嘘のように、詩恩は慣れた手つきでテキパキと寝床を整える。

 そんな仕事振りを横目に紅茶へちまちまと口をつける。


「あのー、お嬢様」


 気まずそうに声を低めたかと思えば、ある本を抱えていた。

 表紙を見た瞬間に「あ」と声が漏れる。

 あれは昨晩読んでいた、買ったばかりの――


「さすがに裸体の絵を広げておくのは、淑女としていかがなものかと……」


 肌色部分の多い、女性同士の恋愛漫画。

 自分の部屋だからと主張したかったけれど、墓穴を掘るだけになりそうね。詩恩は趣味嗜好を否定するわけではなく、あくまで管理の悪さを指摘しているんだもの。

 社交界で恥をかかないためにも、普段から慎み深さを心掛けることは大切だと、口が酸っぱくなるほど説明されている。

 ……かといって、全く動じずに手に取るのは、それはそれでどうなのかしら。


「ご安心ください。自分は祷に幻滅されるようなことはしませんので」


 眩しいほどの笑顔は、今にも昇天しそうなほど清純で穏やかだった。

 さながら、一神教の信者といったところかしら。

 恋心の域を越えて心酔してるって感じなのよね。会えない時間で熟成されたのかしら……


「祷のことはいつから好きなの?」

「出会った瞬間に一目惚れ。しかも初恋なので一生涯連れ添うことを心から願っていました」

「初対面でそこまで考えるのは、いくらなんでも重すぎないかしら……」


 祷には黙っておいたほうがいいわね。知らぬが仏っていうもの。

 けれど、あたしは見つめるだけしかできない意気地無しだったから、身体一つで家を出た執念には尊敬するわ。


「お嬢様は今まで、家と才能に恵まれ、与えられるがままの人生でしたからね」

「そうよ。何か悪いって言うの?」

「望まなければ、伝えなければ、手に入るものも得られません。望み、願い続けて、やっと自分は現在(いま)を生きられるようになったのです」


 夢を追いかけていたと知っているからこそ、詩恩の言葉は心に重くのし掛かる。


「そうね。もしも望むことが許されるなら、あたしも真剣に向き合いたかったわ」


 好きな人と一生を添い遂げる。

 家柄のせいで将来の相手が決まっているあたしにとって、理想の人生はただの絵物語でしかない。


「お嬢様の許嫁……自分と同じ大学を出ている、音無(おとなし)透吾(とうご)先輩ですね」

「ええ。昨年まで東北に転勤していたけれど、今は現川町の四葉小学校で教師をしているの」


 許嫁は親同士が決めた約束事。子供の意思を無視して交わされた契約だけれど、拒否することは許されない。

 好きなものをなんでも買い与えてもらえる自由の代わりに、将来のレールを敷かれる不自由が伴っている。


「あたしは欲を出してはいけないの。ただ飾られるために存在する人形なんだもの」


 古くから地元に根強い力を持つ音無家と、代々政治家として活躍する館花家。

 両家の繋がりは支配者としての血筋を濃くするため。

 敷かれたレールは踏み外せないわ。


「お言葉ですがお嬢様、運命に抗うことが出来ないとしても、避けられぬ運命までの時間でどれだけ足掻くかは自由です。結婚は高校卒業後……つまり、まだ一年近くあるではないですか」


 確かに結婚までは自由にしてもいいとお父様に言われているけれど、たった一年でできることなんて限られてるわ。


「あたしには無理よ」


 すでに諦めているあたしのことを、詩恩は呆れた目で見てくる。


「じめじめと落ち込んでいる暇があるなら、行動すればいいんですよ」

「行動って言っても……」


 詩恩はクローゼットからあたしの制服を取り出してくると、おでこを指で弾いてきた。


「お嬢様には湿気の多い土砂降りの雨よりも、清々しいくらいに晴れ渡った空がお似合いです」


 詩恩なりの比喩で励ましてくれてるのね。


「会いたいわ。どんな天気だろうと、ありのままの姿で、あの人と――」


 あの人が誰なのか詩恩はわかってるはずだけれど、真意を言葉にすることに意味がある。

 両親を失ったことで一度は暗雲に呑まれたけれど、幸福という名の風が舞い込み、すべてのしがらみから開放された理想の姿。


「きっとこの恋は実らないけれど、白詰さんに少しでも寄り添って生きたいわ!」


 ようやく白詰さんへの素直な気持ちを吐露すると、詩恩は満足そうに微笑んだ。


「では、有言実行ですね」


 手渡された制服の上に、一通の封筒が置かれる。


「これは?」

「中身は文芸部の入部届ですよ。祷が置いていったみたいです」


 祷ったら、お礼のつもりなのかしら。

 でも今回は素直に感謝してあげるわ。これで白詰さんに近づく口実ができたもの。



          ☆☆☆



 口実ができたところで、勇気が出せるかは別の話なのよね。

 文芸部の扉の前で立ち往生すること小一時間。

 黄昏時で校舎はオレンジ色に染まっていく。

 やることは入室して白詰さんに入部届を手渡す。たったそれだけ。

 でもその『たったそれだけ』をするための勇気が出せない。


「お嬢様にはがっかりです。せっかく祷がくれた機会を無下にしないでいただきたい」


 詩恩の失望の声が聞こえてくる。


「幻聴だなんて、疲れてるのかしら……」

「お迎えにあがりますと連絡したはずですが?」


 凍り付くほど冷ややかな声は、あたしに対して詩恩が怒っている時のもの。

 まさかとは思いつつも振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた詩恩が立っていた。


「な、なん――」

「約束を破ることは許しませんよ」


 約束という単語に「祷との」という言葉がかかっていることは明白ね。

 祷を想っているのが痛いほど伝わってくるわ。

 想い人のために自立するなんて、恵まれた環境に甘んじているあたしとは、背負っている重みも覚悟も違うもの。


「うるっさいわね! わかってるわよっ!!」

「このように人目のつく場所で体裁を保てないとは、お嬢様もまだまだ子供ですね……」


 本当は悪態をつく資格なんてない。

 けれど、どうしても当たり散らしたい気分なんだもの。


「どうせあたしは、白詰さんと友達になるどころか、こうして話しかけることすら出来ない意気地なしよ!」

「いつものように、恥ずかしげなく本音を吐露すればよいではありませんか」

「従者が主人であるあたしに意見するつもり?」

「それとこれとは話が別です。お嬢様は一回頭を冷やすべき――」


 詩恩の言葉を掻き消すように、文芸部室のドアが開かれる。

 顔を出したのは祷だった。恨めしい表情で睨み付けてくる。


「ね、部活の邪魔だから、痴話ゲンカならよそでやってくれる?」

「痴話ゲンカなんかじゃないわ! あたしと詩恩は、ただの主人と執事よ!」

「……それはそうと、いいの?」


 コツンとドアを小突いてさらに一言。


「盗み聞きなんて趣味じゃないんだけど、全部聞こえてたよ」


 当事者に筒抜け状態という不測の事態に、頭が真っ白になる。

 確かに壁に耳ありと言うものね。あたしとしたことが、感情的になるあまり失念していたわ。

 いえ、わざと詩恩は焚き付けにきたのね。そうじゃなければ、口を押さえながら笑いを堪えたり、小刻みに身体を震わせているわけがないもの。ああっ、忌々しい!

 とりあえず姿勢を正し、空気を変えるように咳払いを一つ。

 祷の横をすり抜け、白詰さんに歩み寄る。


「……はしたない姿を見せてしまったわね。今のは忘れてちょうだい」


 思慮に欠けた口喧嘩なんて、どう考えても悪印象よね。最初で最後の会話になるのかしら。


「いっ、いえっ!」


 白詰さんは顔の前で両手をぱたぱたと振り、謙虚な姿勢で否定する。


「ちょっとびっくりしただけですっ」


 オロオロやアワアワ。白詰さんは擬音がよく似合うほどに仕草が愛らしいわ。

 至福の時間に浸っていると、「わかってるよね」という小声の応援と共に背中を押された。

 一歩距離が縮まり、あたしは入部届けを片手で差し出した。


「部長さん、これを受け取ってもらえるかしら」


 落ち着いた口振りのつもりだけれど、内心は決して穏やかなものではないわ。

 これを拒絶されてしまえば、あたしはもう二度と白詰さんの前に現れることを許されない気がするから。

 うるさく騒ぐ心臓の音が聞こえないことを願いながら、白詰さんから目を逸らす。

 あたしの手から、入部届けが離れた。


「これからよろしくお願いします」


 蕾のように小さく愛らしい唇で、白詰さんは告げる。


「館花閖先輩」


 喜びと共に、込み上げてくる涙。

 流さないよう堪えると、瞳が熱を持つ。そのじんわりと広がる熱が、あたしに現実を実感させてくれる。


「ありがとうね。お節介さん」

「なんのことです?」


 振り返り様にお礼を伝えたものの、詩恩はなんのことかわからないみたいでポカンとしていた。


「とぼけないでちょうだい。勇気を分けてくれたじゃない」

「自分はなんにもしてませんよ。お嬢様にエールを送ったのは……」


 詩恩は握り拳の親指だけ立てると、祷を差し示す。


「ありがとう。祷」


 祷は照れ臭そうにポリポリと頬を掻いた。


「これで部員が四人になりましたよ!」


 嬉しそうに顔を綻ばす白詰さん。笑顔を向ける相手は憎き暦日灰杜。

 対人関係に怯懦な白詰さんが憩いの時間を過ごしている部室へ、初めて招き入れた相手。

 どんな人かと思っていたけれど、まるで人形ね。


「お前を心配してくれてたんだろ」


 白詰さんの一喜一憂する愛らしい姿にも動じず、心にもないことを伝える。表情筋が死んでるんじゃないかしら。

 死んだ魚の目とはこんな目のことを呼ぶのでしょうね。

 身体という空虚な器に、生活ができる最低限の知識だけを植え付けられてるみたいだわ。

 お嬢様という肩書きで雁字搦めになっていた、昔のあたしにそっくり……

 彼は何に、誰に縛られているのかしら。


「実は最初に館花先輩がいることに気が付いたのは、暦日なんだよ」


 祷が暦日の肩へと手を回し、わかりやすく詩恩が嫉妬する。

 けれど、祷には友人と呼べるような、自分を忘れない人間がいなかったんだもの。距離感が掴めないのも当然だわ。


「祷も館花も、よく詞を見ていたからね。君らは気づいてなかったけれど」


 誰かの代弁者であるかのように、暦日が誰に言うでもなく呟く。なんだか不気味な子だわ。

 ……ああ、これが噂の根幹ということね。


「気づいてたなら最初からそれを言え。こいつを勧誘するだけで解決だっただろ。……すぐに答えが出ては面白くないだろう?」


 暦日は一人だけで自問自答を繰り広げているみたい。

 奇妙な光景に疑念を抱いていると、心配そうに白詰さんが目を伏せる。胸元で、小さな手をきゅっと握ていった。

 きっともどかしいのね。当の本人は気づいていないけれど。


「部員は見つかったんだ。今日は帰らせてもらう」


  てっきり必要最低限だけの関わりを持ち、干渉されないように一線を引いているのだと思っていたけれど――


「人を待たせてるんだ」


 感情は籠っていない。塩対応ってやつかしら?


「はい。また明日来てください!」


 帰宅する暦日を笑顔で見送ると、白詰さんは長く息を吐いた。

 これ見よがしに祷が荷物を手にする。


「紫蘭さんも、帰るんですか?」

「今まで誰にも心を開いていなかった暦日が、誰と会うのか気にならない?」


 少し寂しそうに俯く白詰さんへ、祷は机に掛けられた白詰さんのカバンを渡した。

 白詰さんは一つ頷くとそれを受け取った。


「館花先輩も行く?」


 白詰さんと一緒にいられるのは嬉しいのだけれど、あいにく門限があるのよね。

 この前祷とファミレスで話した夜に、お父様に怒られたばかりだもの。


「魅惑的なお誘いだけれど、あたしは遠慮するわ。詩恩、帰るわよ」

「かしこまりました」


 詩恩は祷の頭にポンと手を乗せる。


「じゃあまたな、祷」


 大人の余裕を見せているけれど、暦日とのやり取りにやきもきしてたことを知っているから、あたしとしては複雑だわ。

 でも、残ってくれてよかった。


「さ、早く帰るわよ!」

「…………と、言いつつ、こっそり後をつけるつもりですね」

「ええ。暦日にはハッキリと言わないと気がすまないもの」


 白詰さんと祷には酷よね。

 暦日が目を逸らしている、現実を知らしめることは……

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