紫色の花弁『館花閖』
――day.2――
「それではお嬢様、行ってらっしゃいませ」
「ええ。また放課後に迎えに来てちょうだい」
黒塗りのリムジンで紅茶を飲みながら、執事に学校まで送ってもらう。これがあたしの朝の日課。
……なんて、日課はそれだけじゃないわ。
「さすがね。時間通りだわ」
烏間詩恩は、大学に通いながらあたしの執事をしている。
最近はある時間に学校へ到着するよう調整をしてくれるの。
それもこれも、あたしがある方を見守るため。
「おはよう……ござい、ます……」
消え入りそうなほどにか細い声。
昨日の出来事を考えれば当然のことだけれど……
全てはあの男子が悪いのよ!
くすんだ色のボサボサ髪、目の下には色濃い隈が住み着き、陰湿な空気を纏ってるあの男子が!
名前は確か……暦日灰杜ってだったかしら。
白詰さんはすっかり意気消沈していて、教室のような人が多いところは居心地が悪いはず。
さっそく祷から聞き出した情報が役立ちそうね。
☆☆☆
昼休みになり、あたしはすぐに親友の元へと足を運んだ。
「煌空! あたしも音楽室について行くわ!」
あからさまに嫌な顔をしたのは、お下げを揺らし、眼鏡をかけた同級生の少女。
世を忍ぶ仮の姿だから、普段はいかにも文学少女って感じなのよね。
あたしのことは家族以上によく知ってる。
……いえ、それは詩恩がいたわね。でも親友以上家族未満と言っても過言ではないはず!
「ゆりりんはいつもアタシの邪魔するでしょ」
「今日は邪魔しないわよ! 目的は煌空の歌声じゃないもの」
疑いの眼差しを向けられるのは心外だけれど、単に音楽室へ行く口実が欲しいだけなんだもの。
「それはそれで地味に傷付くんだけどね。これでもアタシは――」
「さあ、善は急げ! 昼休みが終わる前に、早く行くわよ!!」
「ちょっと!」
煌空の腕を強引に引っ張りながら歩き出す。
最後まで聞かなくとも煌空が何を言おうとしたかわかるもの。
プライドを守るための言葉だから、遮ってしまったことには、少し罪悪感があるけれど。
中庭に沿って、廊下の曲がり角を左へ。
カシャンという軽い音と、ドサドサという鈍い音が背後から聞こえた。
多分煌空が手荷物をバラ撒いたのね。譜面やノートはもちろん、筆記用具をペンケースに入れず、丸だしの状態で抱えていたんだもの。
「煌空! 早くしないと置いていくわよ!」
クルリと振り返ってみれば、見覚えのある顔があった。
「あら? 祷じゃない」
目が合ったかと思えば、すぐに冴えない表情で視線を中庭へと向けてしまう。
人の顔を見て挨拶もなく目を逸らすなんて失礼だわ。
「一体何を見ていたのかしら?」
肩を竦めながら、祷の視線を追う。
「あれは……」
ゆるやかな波を描く絹のような髪。小さく縮こまる小柄な身体。愁いを帯びた表情。
誰にでも礼儀正しく聡明でありながら、若葉のような初々しさも持っているその女性は、最も私の理想に近く、初恋にして最愛の人だった。
「……白詰さん、また言葉に溺れているのね」
窓辺から中庭の隅を見つめるものの、あたしの視線に気づいた白詰さんの表情が恐怖の色に染まるのではと思ってしまい、すぐにやめた。
「……行きましょう」
あたしの声も言葉も視線も、全てが白詰さんにとっては凶器でしかない。
あたしにできるのは、距離を置いて見守ることだけ……
足早に廊下を進むと、荷物を広い終えた煌空が駆け足で肩を並べた。
そこまで慌てなくてもいいのに。
「ねえゆりりん、さっきの女の子って……」
「あたしの好きな人よ」
「えっと、そういうことじゃなくて……」
自分から話を振ったのに、煌空は口ごもってしまう。
煌空は人より耳がいいから、何か聞こえたのかしら?
気に留めずに階段を上り、廊下を歩むと、目的地にたどり着いた。
薄暗さの原因であるカーテンを開くと、埃が舞う部屋の全体が照らされる。
数多くの楽器が置かれ、有名な演奏家達の肖像画が壁に掛けられている。壁際の棚には様々なジャンルの楽譜が並んでいた。
校内で唯一ピアノがある場所――音楽室で歌うのが、煌空の日課なのよね。
窓からは中庭が見下ろせるため、白詰さんの姿もハッキリと見える。
「煌空、たまには窓を開けていてもいいかしら?」
「……カーテン閉めてくれるなら別にいいけどっ?」
いつもなら渋るけれど、今日は珍しく許可してくれた。機嫌も良さそうだし、何か良いことがあったのかしら?
古びた窓に手をかけると、格子が軋む音を立てた。立て付けの悪さを感じながら窓を開く。
フワリと風が舞い込み、あたしの髪が靡いた。
――ポロン。
煌空が鍵盤に触れたのか、ピアノが軽やかな音を立てる。
煌空が調律を確認すると、穏やかな前奏が始まった。
すぅと息が吸い込まれる。
「きーらきーらひーかーる……おーそーらーのほーしーよー……」
歌の練習を開始する時は、決まってこの曲から始まるのよね。
きらきら星。小学生が音楽の授業で習う童謡の一つ。
煌空も小学生の時にこの曲を知ったみたいだけれど、彼女の場合はとある恩人から教えてもらったらしいわ。
昔は変わった名前のせいで虐められていたと聞いたけれど、今ではキラキラに光り輝く星になってしまったんだもの。
彼女のことは心から尊敬しているわ。
「あら?」
一瞬、中庭から見上げてくる白詰さんと、いつの間にかその隣に居た人と目が合った気がするわ。
でもそれ以上に、白詰さんの柔らかい表情が見られて嫉妬してしまった。
あの二人の関係はなんなのかしら?
「そういえば、ゆりりんの執事さんってあの人と同じ未来成大学だったっけ」
「ええ、そうよ」
「ふぅん……」
物憂げに呟いたかと思えば、すぐに煌空はまた歌い始めた。
春風のように暖かく穏やかに、人を包み込むような、優しい歌を……
☆☆☆
放課後、いつも通り詩恩に迎えに来てもらい、車で家へと帰る。
少し開けた車窓から、和気藹々としながら寄り道をする同世代の学生達が見えた。
あたしの友人は煌空だけ。お互い多忙だから、どこかで寄り道しながら一緒に帰ることはできない。
もし友人じゃなく恋人を作れたなら?
――それこそ無理な話ね。
同性を好きだなんて、世間一般からは外れているんだもの。
でも好きになってしまったものはしょうがないじゃない。可能性がゼロではない限り、諦めることなんてできないわ。
「はぁ…………」
ミラー越しに詩恩が運転席から様子を窺ってくる。
執事として、主人の悩みは些細なものでも気に留めておきたいのかしら。
それならちょうどいいわ。せっかくだから相談してみましょう。
「ねえ、詩恩」
「なんでしょうか?」
何も察していないかのように、平然とした態度で尋ねてくる。
わざわざ心に踏み込んで聞いてこないあたり、執事の鑑と言えるわね。最初は何でも噛み付いてくるくらいの気概だったのに、牙が抜け落ちたのかしら。
「あたしに友人が少ないのは、あたしが変わっているからなのかしら?」
「確かにお嬢様は世間的に変わっておられます。友人が出来ないのは当然です」
随分とハッキリ言ってくれるわね。
図星なんだけれども。
「それは……同性を好きだから……?」
「いえ、少々物事を素直に受け止め過ぎるのです」
「え?」
予想外な回答に首を傾げる。
「思いつくがままに行動し、清清しいほどに態度が顔に出てしまう。冗談が通じない。……端的に申しますと、裏表のない馬鹿正直ということですね」
褒めてるのか貶してるのか――いえ、確実に貶してるわね、これは。
あたしが眉を寄せると、すかさず詩恩が笑みを溢す。
「ふふっ……やはりお嬢様は良いですね」
「あたしに仕えるなんて、貴方も物好きよね」
「物好きで構いません」
詩恩との出会いを思い返してみれば、特殊な事情を抱えているのは明らかだった。
彼があたしに仕え始めたのは、まだ彼が中学生の時の話。住み込みで雇ってほしいとのことだった。
理由はお父様しか知らない。
「詩恩は、どうして執事になったのかしら?」
いつもなら唇に人差し指を当て、黙秘を主張する詩恩だけれど、今日は違った。
「……そうですね。そろそろお嬢様にもお話しておきましょうか」
帰路から外れ、隣町まで車を走らせる。
詩恩は下車すると、あたしが出やすいように外側からドアを開けてくれた。
「ここは……」
目の前に広がるのは、湿った緑の匂いが広がる土手。転んだら制服が泥だらけになってしまいそうだわ。
「この場所は、自分にとっての想い出の場所です。愛しいあの子と共に、最期に過ごした場所……」
詩恩は遥か遠く、過去を見つめる。
「お嬢様はここに来たことがありますか?」
「初めてではないけれど……」
予想外の質問だったわ。あたしがこの地域に降りたのは一度きりだもの。
たった一度、白詰さんのご両親……白詰家のお葬式に参加した時以来。
「この川は現川と言いまして、夢と現実の境界線だと言われてたらしいです」
「夢と現実?」
「ええ。けれどこれから話すことは決して夢物語ではなく、自分が現実で体験したことなのです」
前置きを終えた詩恩は、深く息を吸った。あたしも思わず息を飲む。
「あるところに、いつも一人きりの男の子がいました。その子は誰とも関われず、まるで誰にも見えない透明人間のようでした」
誰とも関われないって、なんだか白詰さんに似てるわね。
彼女の場合は自発的になれないだけだけれど。
人と言葉を交わすことに恐怖し、教室の隅っこで気配を殺していたもの。
「かわいそうなことに男の子は、家族にすら見てもらえません」
「それって、認識してもらえないってことかしら……?」
「いいえ、意図的なものです。男の子は無視という名の暴力を、クラスメイトや家族から受けていたのです」
「え……?」
無視ということは、意図的に孤立させられているということ。それはあまりにも残酷非道だわ。
「男の子はそのことに気付いていたの?」
「真実は知りません。何故ならば……」
詩恩は唇に人差し指を押し当てる。
詩恩のクセである、秘密の合図。
「男の子は悪い『魔法使い』に騙されていたのです」
悪い魔法使いが誰のことなのか、あたしはすぐにわかってしまった。
詩恩が、あまりにも哀しげに瞳を揺らすんだもの。
「男の子は『魔法使い』と二人で、シンデレラが舞踏会を忘れるかのように、白雪姫が森で小人と暮らした時のように、それはそれは楽しく幸せに過ごしていました」
物語の語り部のように、詩恩はゆったりと話を続ける。
近くに生えていたタンポポの綿毛を摘み取り、くるくると回した。
「――ですが、ある日突然、男の子は姿を消してしまったのです」
息を吹き掛けられ、空に散った綿毛。それを追う眼差しは、悲観的に世界を捉えているように見えた。
「『魔法使い』にとってそれは、まるで夢から目覚めるかのような出来事でした」
夢から目覚めるというより、現実に引き戻されたという感覚が正しいんだわ。
だからわざわざ、魔法なんて言葉を使ったのね……
「けれど『魔法使い』は、たとえ男の子が見付からないとしても、その人生を懸けて探し出すことに決めました」
「でも貴方はあたしに仕えてるでしょう?」
「男の子と再会した時、はたして男の子に居場所はあるのかと、『魔法使い』は疑問に思いました」
詩恩は胸に手を当てながら、ピンと背筋を伸ばす。
「だから『魔法使い』である自分は、その男の子と暮らすため、自立すると決めたんです」
「それでお父様に雇っていただいたのね」
普通なら中学生は雇ってもらえないけれど、お父様は詩恩の将来性を買い、今も詩恩はあたしに仕えているわけね。
確かに自立するお金としては充分すぎるほどに貯まっているはずだけれど、それだけでは詩恩の願いには届かないじゃない。
「探さなくてもいいの?」
ここに留まっていては再会できる望みは薄いというのに、詩恩が辞職する気配は毛頭ない。
「本当は、もうその男の子のこと――」
「諦めるわけがありません!!」
響いた声が彼方へと消え去る。
「大人たちは子供一人消えても心配一つしないし、まるで最初からいなかったみたいな扱いをする。一緒にいたって心が腐るだけだ! 家出した自分への電話から聞こえた言葉だって、保身のための戯言だけ……あんなもん、正気じゃねぇっ!」
傷痕を抉られたように、詩恩が悲痛を吐き出す。
とめどなく溢れ出る言葉は飾られていない本音。素行が悪い地の部分が出てきていた。
「自分はあんな大人達とは違う。心からあの子を大切に思ってんだ!」
執事としての礼節を忘れてしまうほど、詩恩が感情を曝け出すなんてね。
「気付けばどこにいてもあの子を想ってしまうくらい、会えないことが狂おしいほど――」
詩恩の頬を、一筋の光が伝う。
「愛してる……っ!」
熱烈な情愛を掲げながらも、本人に届くことはない。
勇気を出せば相手とすぐに会うことができるあたしとは違うわ。
ふと、詩恩の『まるで最初からいなかったみたいな扱いをする』という発言を思い返す。
最初からいなかったみたいなんて、まるで人の記憶から消えたみたいね。
そんなこと、現実にはあるわけないけれど。
「醜態を晒してしまい、申し訳ありませんでした」
ハンカチで涙を拭い、詩恩は襟を正す。
いつも通りの凛とした態度で微笑まれてしまえば、気休めの言葉なんてかけられないわ。
「帰りましょうか」
「……ええ、そうね」
あたしはお金しかない無力な子供。
もし権力のある大人や、顔が広い人間だったなら……自分を押し殺してまで忠義立てする、この誇らしい従者の力になれたのに……
「あ」
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
信号待ちで停止していた車の前を、ここにいるはずのない白詰さんと、人形のように愛らしい小学生が通っていく。
「なんでもないわ」
――あぁ、なんて羨ましいのかしら。
――day.3――
翌日の昼休みも、白詰さんは中庭の隅に縮こまっていた。
昨日より重い空気で、今にも潰れてしまいそうな、そんな小さな身体。
音楽室の窓辺から白詰さんを見守っていると、見知った姿が近付いていく。
「え、祷?」
祷が白詰さんと会話したかと思えば、何かの紙を手渡した。
遠すぎて何が書かれているかわからないけれど、あたしを差し置いて白詰さんとおしゃべりするなんて、祷のクセに生意気よ!
……って、悠長なこと言ってられないわね。
「ちょっ、ゆりりんっ!?」
煌空の制止を無視して音楽室を飛び出す。階段を駆け降り、中庭に目をやるけれど……
「いな――」
「いなくなってないよ、館花先輩」
階段の陰に潜んでいたのか、祷が背後から耳元で囁いてくる。
咄嗟に距離を置き、耳を手で覆いながら振り返った。
「……なんて顔、してるのよ」
泣き崩れそうに顔をくしゃくしゃに歪め、感情が溢れ出しそうなのを堪えている。
子供がイタズラを怒られたみたいな、ばつの悪い顔。
「助けたかった人に逆に助けられてさ、自分を認めてもらえたんだ……」
「別に、いいことなんじゃないかしら」
「情けなくない? 僕って昔から、守られてばっかりなんだよ」
初めて話した時に一瞬だけ取れた、笑顔を貼り付けたような仮面。それが完全に外れていた。
「僕は昔から、人の記憶に残りにくいっていうか、見えてるはずなのに認識されない……透明人間みたいなものだったんだ」
「透明人間?」
現実味のない単語に首を傾げていると、祷は「たとえばだよ」と冗談めかす。
けれどあたしには冗談のように聞こえなかった。
ふと、昨日の詩恩との会話が頭を過る。
「でも、近所に住んでた兄ちゃんだけは、僕に優しかったかな……」
「ねぇ祷」
微かに声が震えたのが自分でもわかってしまった。
「貴方、もしかして――」
甲高い着信音と共に、ポケットのスマホが震えた。
間の悪さに溜め息が洩れる。
「出たら?」
「……失礼するわ」
お言葉に甘えてスマホに目を落とすと、そこにはお父様から届いたメールが写っていた。
『詩恩が高熱で倒れたらしい。心配で学校を飛び出してしまわないように。すぐに迎えに行くよ』
詩恩は体調が悪くとも、それを隠すのがうまい。
あたしやお父様に遠慮していたのね。高熱なんて微塵も感じさせなかったわ。
「館花先輩?」
祷が心配そうに顔を覗かせる。
「あたしの執事がね、高熱で倒れたみたいなの」
「体調が悪いと不安を抱えやすい。その人、寂しがってるんじゃないかな」
顔からサッと血の気が引き、必死に訴えかけてくる祷。身に覚えがあるんでしょうね。
……そうね。病弱な時は人恋しくなるものよね。
「……祷、一緒に来てもらってもいいかしら」
「へ?」
祷は状況を飲み込めずに固まっていた。
「ああごめんなさい、違うわね」
「うん、そ――館花先輩っ!?」
「黙って一緒に来なさいっ!!」
命令された祷はあんぐりと口を開けていたけれど、有無を言わさず手を握る。
縁なんて信じるつもりはなかったけれど、信じざるを得ないわよね。
もし――詩恩の探している相手が祷なら、あたしは詩恩への恩返しができるのかしら?