さくらのカクテル
ここは、東京F市の駅近くにあるバー「BLOSSOM」。ウッド製の落ち着いた調度が並ぶ店内の天井を、静かに回るシーリングファン。その空間では控えめなボリュームのヒーリング・ミュージックが流れています。
私は「佐倉さくら」。二十四歳。母から受け継いだこの店を切り盛りするバーテンダーです。実のところ、自分の名前があまり好きではありません。母曰く、「生まれた日に、病室の窓から見えた桜が綺麗だったから」この名前にしたとのことですけれど、何もこんな駄洒落みたいな名前にしなくてもと、物心ついたときから思うことしきり。
それともう一つ、私は身長が百七十センチ弱あるのっぽで、この長身もちょっとしたコンプレックス。もっと可愛らしく小柄に生まれたかったです。
今は土曜の夜というお客様の少ない日時で、無口な常連さんが一人いらっしゃるだけ。この常連さんはいつも紺のスーツを召されている女性で、ボブカットの綺麗な方です。お年は私より少し上ぐらいでしょうか。お名前を「赤井のばら」とおっしゃるそうです。彼女は一人で静かにグラスを傾けるのがお好きなようなので、私も必要以上に話しかけないことにしています。
楽といえば楽な状況ですが、いつ他のお客様が来るとも知れないので弛んでいるわけにもいきません。すると、不意にからんからんとドアの呼び鈴が鳴りました。
「いらっしゃいませ。お好きなお席におかけください」
入店されたお客様は、私と同じぐらいの歳に見える女性お一人でした。長くて艶のある綺麗な黒髪、小顔で整った顔立ち。白いスーツが良く似合っていらっしゃる。(すごく綺麗な方だな)と、素直な感想が浮かびます。
「ご注文は?」
お客様が着席されたので、オーダーを尋ねます。
「バーって初めてなんだけど、オススメとかある?」
「味の好みを教えて頂けましたら、それに合うお酒をご用意しますよ」
口元に手を当て、少し考え込むお客様。
「じゃあ……甘めのお酒で。ご飯食べてないから、軽めのでお願いできる?」
まずは、お通しとしてナッツの乗った小皿をお出しします。今日は十月初頭なのに、異常気象なのか暑い日。すると、クールドリンクがいいはず。
「コーヒーはお好きですか?」
「ええ、毎朝必ず飲むぐらいには」
コーヒーがお好きとなれば、やはりアレでしょう。
「では、カルーアミルクはいかがでしょうか」
「名前聞いたことあるかも……。じゃあそれで」
「かしこまりました」
オーダーを受け、カルーアとミルクをステア。予めクラッシュドアイスを入れておいたグラスに注ぎ、仕上げに生クリームとコーヒーパウダーを少々。
「お待たせしました」
白くて細い指でグラスを手に取り少し眺め、静かに傾けるお客様。
「あっ、甘くてすごく飲みやすい!」
感心されたご様子でカルーアミルクを楽しまれます。気に入っていただけだようで、私も内心ほっと胸をなでおろします。最初の一杯は常連になっていただけるかどうかの分水嶺。第一関門突破!
その後は、日常会話でトークを弾ませていきます。お客様と喋ることもバーテンダーの大事な仕事のひとつ。
「そういえばバーテンダーさん、お名前は何というの?」
う、苦手な質問が来ました。
「さくらといいます」
「素敵なお名前じゃない。上のお名前は?」
「その……そちらも佐倉でして。佐藤さんの佐に倉って書くんですけど」
ああ、変な名前って言われるんだろうなあ。
「もっと素敵じゃない! 韻を踏んでいて美しくて」
思わずきょとんとしてしまいます。名前を変だと言わずにこんなに褒めてくださったのはこの方が初めてでした。心臓がトクンとします。何でしょう、この気持ち。
「名前を尋ねておいて、名乗らないのも失礼ね。私は白野百合花。市役所で窓口業務しているの」
「でしたら、そちらでお会いしたこともあるかも知れませんね!」
百合花さんとの会話は弾み、特に共通の趣味ビリヤードでは盛り上がりました。
その後、彼女は必ず土曜の夜に足を運んでくださる常連さんになられました。嗜まれるお酒のレパートリーも増えましたが、ある日から「サンブーカ・コン・モスカ」、「クロンダイク・クーラー」、「ラスティ・ネイル」の順に、この三種類だけ飲まれるようになりました。色々と味比べをされた結果、この三つが特に気に入られたのでしょう。
気づけば私、暇さえあればいつも彼女のことばかり考えるようになってしまいました。油断すると、他のお客様への接客中も百合花さんの綺麗な顔が頭をよぎります。
これはどうしたことだろうと悩んでいましたが、はたとこれは恋なのだと気づきました。
これは人生二度目の恋。初恋は中学生のとき、上級生の女性に抱いたものでした。思い切って告白しましたが、結果は惨敗。こっぴどく振られてしまいました。さらにはっきり言うと、気持ち悪がられてしまったのです。やはり、女同士という壁は厚いのでしょう。私はどうやら根っからの同性愛者のようで、それ以来素敵な女性に心惹かれるたびに気持ちを抑圧していましたが、百合花さんへの想いは抑えきれないようです。十年ぶりの恋の苦しみに、心を焼かれそう。
バーテンダーはすべてのお客様に平等に接しなければいけません。この気持は鍵をかけて心の中にしまっておかなければ……。
◆ ◆ ◆
師走のある日、今日も店にいらした百合花さんから爆弾発言が飛び出しました。
「私、好きな人がいるんだけどね、全然気持ちに気づいてくれないの。さり気なくアピールしてるんだけどなあ」
思わず、磨いていたグラスを落としそうになりました。なんと、百合花さんは恋の悩みを抱えていらっしゃるご様子。つまり、私の想いは横恋慕。きゅっと胸が苦しくなります。でも、態度には出しません。プロですから。のばらさんもちらりと百合花さんを見られたご様子ですが、すぐにいつものようにひとり酒の世界に戻られます。
「思い切って、胸の内を開けられてはいかがですか?」
本当はこんなこと勧めたくない。そう思う一方で、彼女の恋が成就したら私も諦めることができるかも知れないという考えが頭をよぎります。心の中で激しい葛藤が起こるけれど、努めて穏やかな表情を保ちます。
「勇気がね、湧かないの。もしその人に嫌われたら、きっと私生きていけないもの」
ため息とともにラスティ・ネイルのグラスを傾ける彼女。ここまで百合花さんに言わせるとは、意中の相手はどれほど果報者なのでしょうか。言いたい、言ってしまいたい。「あなたを愛しています」と。でも、それは絶対にしてはいけないこと。
「ねえ、さくらさん。どうしたら振り向いてもらえると思う?」
よりによって、私にそれを訊かれますか……。しかし、バーテンダーの名の由来は「優しい相談者」。誠心誠意お答えするのが務めです。
「そうですね。まずは日常会話から入って親しい関係になられてみてはいかがでしょうか?」
「それはもう、やってるんだけどねぇ」
口元に手を当て、目を閉じて考え込む彼女。うむむ、どうも的外れなアドバイスをしてしまったようです。
「でしたら一歩進んで、ご趣味のビリヤードに誘われてはいかがでしょう?」
「そっかぁ……。一歩踏み込む勇気って大事よね」
得心がいかれたかのようにうんうんと頷かれたと思えば、「でもねぇ……」と首を横に振り悩まれます。ううん、どうにもお力になれず恐縮です……。
「今日はもう上がろうかな。今日も楽しかった、ありがとう。お勘定お願い」
バッグを手に取り立ち上がる百合花さん。言葉とは裏腹に彼女の表情は曇っています。バーテンダーの使命はお客様にくつろいでいただき、笑顔でお帰りいただくこと。どうしたら彼女を笑顔にできるのでしょうか……。
◆ ◆ ◆
百合花さんに笑顔を提供できないままひと月が過ぎてしまいました。今日も店にいらして憂鬱そうにグラスを傾けている百合花さんを前に、私はなんてダメなバーテンダーなのだろうとグラスを磨きながら自己嫌悪していると、不意に別席ののばらさんから声がかかります。いけないいけない! のばらさんが意識の外にいってしまうなんて、私ダメすぎます。しゃんとしないと……!
「ねえ、さくらさん。女同士の恋愛ってどう思う?」
唐突な言葉の矢を受けて、思わず変な声が出そうになってしまいました。百合花さんも、ぎょっとされたご様子。
「そうですね、当人同士が想いあっていればよいのではないでしょうか?」
のばらさんが話しかけられてくるのはすごく珍しいです。のばらさんも恋の悩みを抱えられているのでしょうか? とはいえ、真意が読めないので無難な回答を返します。
「実はね。相思相愛なのにお互いの気持ちに気づいてない二人がいるんだけど」
そう仰っしゃりながら、氷だけになったグラスを指でなぞり弄び始めます。
「すごーく、横で見ててまどろっこしいの。ねえ、どうしてあげたらいいと思う?」
なんだか、難問を突きつけられました。
「そうですね……。差支えなければ、仲を取り持ってさしあげればいいんじゃないでしょうか?」
微笑んで、答えを返します。けれど、のばらさんはがっくりうなだれてしまいます。
「やっぱり自覚なしかー。じゃあ、お言葉通り大ヒント! 二人はバーテンダーと常連客です。ここまで言っといたらいくらなんでも分かるでしょ。それじゃ、おじゃま虫は消えるから」
そう仰って、手早く会計を済ませるとのばらさんは疾風のように去っていきました。あとに残された私と百合花さんはきょとんと互いの顔を見合わせます。
バーテンダーと常連客……? まさか。
「あの、百合花さん。すごく変なことをお伺いしますけど、百合花さんのご意中のお相手ってひょっとして……?」
意を決して切り出すと、彼女は真っ赤になってうつむいてしまいました。嘘でしょ! 嘘でしょ! 嘘でしょ!? 激しく高鳴る胸を押さえて深呼吸。
「さくらさん、全然サインに気づいてくれないんだもの」
「サイン?」
「私がいつも飲んでるカクテルの頭文字」
え? サンブーカ・コン・モスカの「サ」、クロンダイク・クーラーの「ク」、ラスティ・ネイルの「ラ」……「サ・ク・ラ」。ええーっ!?
「わかりませんよ、さすがにー!」
露骨なサインを出されていたことを今更知り、顔が熱くなってしまいます。百合花さんも改めて恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして頬を手で押さえています。
「さっきのお客さん相思相愛って言ってたけど、もしかしてさくらさんも私のことを……?」
ぶつけられた問いに、おずおずと首を縦に振ります。顔から火が出そうとはこの状態でしょうか。口に手を当て、歓喜とも驚愕とも取れる表情を浮かべる百合花さん。しかし、ここで己に立てた誓いが頭をよぎります。
「すいません。本当にお気持ちはありがたいですし、私も百合花さんを愛しています。でも、お客様にこうした感情を抱くのは良くないことだと思うのです」
自分の矜持を述べると、百合花さんの表情に明らかに悲しみが浮かびます。罪悪感に胸が押し潰されそう。
「じゃあさくらさん、私がお客じゃなくなったら恋人になってくれる?」
百合花さんの突飛な提案に驚愕。でも、ここまで言わせてしまっているのは私のこだわりのせいなんですよね……。興奮気味な百合花さんを前に、しばし目を閉じ天井を仰いで熟考します。
そもそも、私はバーテンダーとしてどうありたいのか?
バーテンダーの為すべきことはお客様にくつろぎと憩いを提供すること。ならば、私のこの行いはバーテンダー失格なのではないでしょうか。愛する人ひとりすら笑顔にできなくて何のバーテンダーだというのでしょう。
「私は心得違いをしていたようです。目の前の愛する人を幸せにできないようではダメですよね。百合花さん、私と付き合ってください」
深くお辞儀して顔を上げると、彼女はぽろぽろと涙を流すではないですか!
「すみません! 私なにか変なこと言ってしまいましたか!?」
「違うの、これは嬉し涙。私ももっと、ダイレクトにアタックすれば話が早かったのにね。あのお客さんに感謝しなきゃ」
ハンカチで涙を拭いながら微笑む百合花さん。私もほっと胸を撫で下ろします。本当に、のばらさんには感謝の言葉しかありません。
◆ ◆ ◆
ここは、東京F市の駅近くにあるバー「BLOSSOM」。ウッド製の落ち着いた調度が並ぶ店内の天井を、静かに回るシーリングファン。その空間では控えめなボリュームのヒーリング・ミュージックが流れています。
底冷えのする一月、いつものように百合花さんがラスティ・ネイルを楽しまれています。私へのサインではあったものの、実際お気に入りでもあったご様子。のばらさんは今日はいらっしゃっていませんが、以前お礼は述べてあります。
「ふう……。ねえさくらさん、あなたの一番好きなお酒って何?」
甘い吐息とともに、空になったグラスを置いて百合花さんが尋ねられてきます。
「私ですか? 私のオリジナルで、チェリー・ブロッサムというのが一番好きですね」
バーテンダーというのは、皆お酒が好きです。オリジナルカクテル作りも、最終的には自分が一番飲みたいドリンクを編みだすためとさえいえます。
「へえ、さくらさんらしくて素敵。どんなお酒?」
「桜のリキュールを使った、ウォッカベースのカクテルです」
百合花さんは興味深げに耳を傾けられます。
「それ、一杯いただける? さくらさんも飲みましょうよ」
「では、一杯だけ私もいただきます」
桜リキュールとウォッカ、クラムベリージュースをシェイクしてカクテルグラスに注ぎ、さくらんぼを付けます。
「綺麗な桜色……。じゃあ、私たちに乾杯!」
「乾杯!」
かちんとグラスを打ち鳴らし、自分たちを祝福します。
私たちに幸あらんことを。