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甘いお茶漬け

作者: 吉川すずめ

「たっだいまー」




 暮れも押し迫った12月20日。


 アキオが玄関を開け帰宅した。


 アキオは、財務省の若手官僚。


 毎年、予算が提出される時期になると過労死寸前といった毎日を過ごしている。




「お帰りなさい」




 眠そうな目をした妻のミカがパジャマ姿でリビングの時計をちらっと見た。


 午前7時。


 ここ1か月ほどずっとこの時間だ。


 ミカは、足早に玄関に向かいアキオを出迎えた。




「お帰りのー」




 そう言ってミカが目を閉じた。




「ちゅー」




 アキオがミカにキスをした。


 これがアキオ夫婦の帰宅時の作法だ。


 アキオと唇を離したミカは、少しはにかんだようにアキオの目を見つめた。




「今日も遅くなってごめん」


「ううん、いいのよ。お仕事だもんね。分かってる」


「夜になって議員から質問通告が届いて、てんやわんやだったんだ」


「そんなことだろうと思ってた」




 玄関で靴を脱いだアキオとミカが廊下を歩いてリビングに向かう。


 早朝の室内にスリッパの軽い足音が響く。


 アキオがカバンを床に置いてコートを掛ける。




「シャワーする? それとも、わ・た・し?」




 ミカが大あくびをしながら言った。




「ミカさんをいただきたいとこだけど、さすがに無理」




 アキオが苦笑しながら頭をかいた。




「あ、ひどーい。帰りを寝て待ってたのにぃ」




 ミカが膨れっ面をした。




「寝てたんだよね、いや、寝てていいんだけどさ。ミカさんも仕事あるんだし」




 アキオが上着を脱ぎながらつぶやいた。




「で、なにがご希望?」




 ミカはメガネをかけながらアキオのオーダーを待った。




「そうだな、お腹すいたから何か手早く食べられるものが食べたい」


「オッケー」




 ミカがアキオにウインクをしてキッチンに入っていった。


 アキオは、ミカの顔を見たことで仕事の緊張から解放された。


 それと同時に連日にわたる深夜までの仕事の疲れが重くのしかかってきた。


 アキオは、重くなった足をひきずるようにキッチンとカウンターで続くリビングダイニングに進んだ。


 そこでネクタイを緩めると大きく深呼吸をして、仕事で疲れた気分を吐き出した。




「よっこらせ」




 かけ声とともにダイニングセットの椅子に腰をかける。


 腰をかけるというより、腰を落とすといった方がしっくりくる座り方だった。


 キッチンから電子レンジで何かを加熱している音が聞こえる。




「チン」




 電子レンジの調理が終わった。




「あちっ」




 キッチンからミカの声がした。




「大丈夫?」




 アキオは椅子から飛び上がってキッチンに入った。




「大丈夫。疲れてるのにすごいスピードね。ありがとう」




 ミカがにこやかにアキオに礼を言った。


 ミカの手元には鶏ささみ肉が握られている。


 ミカの無事を確認したアキオは、元の足取りでテーブルに戻った。


 キッチンから陶器が触れ合う音とお湯が沸く音が聞こえてきた。


 アキオは、この生活を感じさせる音が好きだ。


 無機質な生活を好む人もいるが、アキオは生活臭がする方が気持ちが楽だ。




「お待たせー。あり合わせの材料しかなくてごめんね」




 ミカがキッチンからお盆を持って出てきた。


 お盆の上には大きめのご飯茶碗が乗り、白い湯気が立ち上っている。




「はい、どうぞ」




 ミカがアキオの前に食事を供した。


 ミカが作ったのはお茶漬けだった。


 そのお茶漬けは、真っ白い熱々ご飯の上に鶏ささみ肉を細く裂いたものとちぎり海苔が乗っている。


 鶏ささみ肉には、わさびのトッピングがちょこんと乗せられ、香りと彩りに華を添えている。




「これこれ、寝不足で疲れてるときには、ミカさんのお茶漬けが食べやすくて最高なんだよ」




 アキオが揉み手をして喜んだ。




「もー、いっつも褒め方がうまいわね」




 ミカが相好を崩した。


 こうして褒めてくれるし、喜んでもくれるからミカもアキオに尽くそうという気持ちになる。


 アキオは、熱々のお茶漬けが冷めるのを待ちながら、ミカの見事な盛り付けのセンスに感服した。




「いただきます」




 アキオは、両手を合わせて感謝した。


 作ってくれたミカと食べ物そのものに対する感謝だ。




「どうぞ、召し上がれ」




 テーブルを挟んでアキオと向かい合わせに座ったミカが微笑んだ。


 ミカは、律儀すぎるくらいに繰り返される感謝の態度が大好きだ。


 自分がここにいる意義を感じられる。


 二人は、お互いの仕事と個性を尊重し合っている。


 余計な干渉はしない。


 それでいて醒めているわけでもなく、自他共に認めるバカップルだ。


 二人を幸せ色の空気と窓から射し込む朝の気配が包んでいた。


 アキオは、お茶漬けをさらさらとかき込んだ。




「ごちそうさまでした」




 両手を合わせてしっかりと感謝する。


 アキオが食べ終わった食器を下膳しようとすると、テーブルの反対側にいたミカがすっと立ち上がり、アキオの手からお盆を取り上げた。




「さっさとシャワーしなさいよ」




 そう言ってアキオにキスをした。




「ありがとう。じゃあシャワーしてくるね」




「行ってきます」


「行ってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」




 シャワーを終えたアキオは、スーツを着込むとミカに見送られながら仕事に出かけて行った。




 若手官僚は、これが普通の毎日だ。


 早朝に帰宅して、すぐまた出勤していく。


 彼らの命を削るような献身により国が支えられている。


 ミカもそれを十分に心得ている。


 いや、最もよく知っている立場かもしれない。


 仕事に行くアキオを見送ったミカは、洗面所で髪を整えしっかりとフルメイクで顔を作った。


 なにしろ今日はテレビ中継があるのだ。


 化粧に気合いも入ろうというものだ。


 純白のスーツに身を包む。


 その左襟には金色の議員バッチが燦然と輝きを放っている。


 ミカは、仕事机の上に乱雑に散らかった資料や書類をカバンに詰め込んだ。


 その中からハラリと一枚の書類が床に落ちた。


「質問通告書」


 書類のタイトルには、そう記されていた。


 夕べ、議員会館で遅くまでかけて作り上げた渾身の質問だ。




「今日は予算委員会で質問ね。気合い入れて行くわよ」




 迎えの車に乗り込んだミカは、運転の秘書に笑顔で話しかけた。

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