番外編【ルティナ】
侯爵家の長女として生まれたわたくしは、リース家の嫡男ミケイルと婚約が内定した。
十四の時だった。
四方の領主家であるミケイルの家にわたくしが嫁ぎ、弟のゴヴェスがオークランド家を継ぐ。
父の決めた事に、わたくしは特に不満も疑問も持たずに従った。
だが、アミューリア学園に入ってからミケイルはリーナ・フェケアスというイースト地方辺境の子爵令嬢に惚れ込み、事もあろうにわたくしとの婚約破棄を願い出てきたのだ。
なぜ。
別に重婚すれば良いではない。
わたくしはそう言ったが、ミケイルは首を縦にふらない。
「すまない、ルティナ。僕は二人の女性を同時に愛せるほど器用ではないんだ。それに……きっと君は我が家の家訓を理解出来ないだろう」
「っ」
それにはぐうの音も出なかった。
以前ミケイルに聞いたリース家の家訓は、民に寄り添い、民とともに歩む。
民の苦労を己で体験し、必要ならば民に教えを請う事も厭わない。
馬鹿ではないの?
わたくしたちは貴族なのよ?
民とともに歩む。
それは多少、分からない事でもないわ。
でも、わたくしたち貴族はあくまでも上級国民。
下々の者たちを導く立場にある。
それを忘れてはならない。
「…………こっちから願い下げだわ……!」
「……すまない」
ミケイルとの話し合いは一日で終わり、わたくしからミケイルを振った、という形で落ち着いた。
でも、周りは嘲笑っていた事だろう。
ミケイルがリーナに夢中になっていたのは誰もが知っていたもの。
ああ、なんで——。
「……ルティナ」
わたくしを慰めたのは幼馴染で親友のユリフィエ・ディリエアス公爵令嬢。
美しい黒髪と黒い瞳を持つ、王太子バルニールの婚約者だ。
しかしわたくしはバルニールが好きではない。
あの男はどこかいつも余裕がなく、神経質で誰に対しても怒鳴り散らす。
あんな男が次期国王だなんて……。
アンドレイやミケイルが側にいなければ、国を任せるなんて不安で仕方ない。
ミケイル——……。
ミケイル……。
「……ルティナはミケイル様が好きだったのね」
「……そんな馬鹿な事ありえない。わたくしとあの男は、ただ歳と身分が近いだけで婚約しただけの仲なのよ。大して話した事もないし……」
「ふふふ……。じゃあなんでそんなに悲しそうなの? ルティナはほんとに素直じゃないんだから」
「…………」
そうなのかもそれない。
いや、きっとそうなのだろう。
でも、侯爵家令嬢としての自尊心が彼を好き、という気持ちをどうしても表に出さなかった。
それを見通してしまうユリフィエが、わたくしにとって今後もきっと弱点となるだろう。
だからこそ、この優しい親友を守り通さなければ。
わたくしはバルニールの側室になる事を父に申し出た。
卒業の一週間前だった。
アミューリア学園を卒業して、すぐにバルニールの父……先王が崩御なされた。
死因は心臓の病、と言われている。
しかし、過労が原因だろう、と城では噂されていた。
先王はバルニールの時代に『大陸支配権争奪代理戦争』が起きると予見され、その準備に奔走されていたのだそうだ。
わたくしはそれを知らなかった事を恥じた。
この国の貴族でありながら、この国の未来を先王がそれほどまでに憂いておられた事を知らなかったのだ。
それから間もなくバルニールは王となり、ユリフィエとわたくしはバルニールに輿入れし、ユリフィエは正妃、わたくしは第二夫人となる。
わたくしはユリフィエを守る為に後宮に入ったのであり、ユリフィエの補佐を行う事が目的。
けれど、こうなった以上先王様のようにこの国の為にわたくしが出来る事を尽くさなければ。
それに側室とはいえ王家に嫁いだとなれば家の地位も上がる。
バルニールの事は……もちろん愛情のひとかけらも持っていないが求められれば応えよう。
それが側室の務めだもの。
まあ、あの男がわたくしを求める事などなく、お渡りに来たとしても本当に事務的なものだったけれど……。
だが、ユリフィエに対してはちゃんと応対させるようにしなければ。
ユリフィエが少しでも幸せになるように。
わたくしはそう、その為に……。
「ご懐妊でございます」
「!」
結婚して一年で、ユリフィエは子を授かった。
ええ、バルニールの子だ。
後宮は沸き立ち、わたくしも誇らしい。
あの男もちゃんと、王族としての自覚があったのね……。
ユリフィエに興味がなさそうで心配していたけれど、子が出来たのなら安泰だわ。
そう、思っていた。
「……聞きました? 陛下、新しい側室をお迎えになるそうよ」
「ええ、マリアベル様でしょう? 辺境の子爵令嬢。婚約者が事故死したとか……」
「ほら、ルティナ様も婚約者との婚約が破たんされて陛下の側室になったというし……『お古』がお好きなのかしら……」
「やだ、失礼よ」
「クスクス……」
後宮の“お楽しみ”はともかく……バルニールは卒業パーティー以降様子が少しおかしかった。
ユリフィエやわたくしの部屋には義務として通っていたものの、どうやら卒業パーティーで一人の子爵令嬢を気に入ってしまったらしい。
調べさせたところサウス地方の辺境子爵令嬢。
また辺境の子爵令嬢か、と溜息をつきたくなったものだが今回は話が違う。
彼女は確かにかなりのプロポーションと美貌の持ち主だが、婚約者とは仲睦まじく、常に一緒に行動していた。
わたくしは同じクラスだったからよく覚えている。
よくもまあ政略結婚の相手にあんなに夢中になれるものだと憧れ……こほん、呆れたものだ。
でも、結婚間近でその婚約者が事故死……川で水死体になって上がったらしい。
少し妙に思い、更に詳しく調べさせたらその遺体には暴行の跡や刺し傷もあったという。
心ここに在らずといった様子のマリアベルが輿入れしてきて、後宮の空気は一変した。
バルニールはユリフィエの元に寄り付かなくなり、マリアベルの部屋へと通い詰める。
ユリフィエのお腹はどんどん大きくなるのに。
わたくしはいい。
お前になんの感情もないのだから。
でもユリフィエは——。
「ユリフィエ、大丈夫?」
「え? あ……ええ、平気よ。……陛下はお忙しいものね。……まだ王になられて間もないのだもの……致し方ないわ。……わたくしが陛下の心の拠り所になれないのはわたくしの力が足りないから……もっとしっかりしなければ……」
「ユリフィエ……」
目に見えてユリフィエは……不安定になっていく。
ああ、おのれバルニール!
わたくしはいい!
でもユリフィエは! ユリフィエは——!
「バルニール! 陛下! ユリフィエのお部屋へお越しください!」
「これから公務だ。時間が出来れば向かう」
「っ! マリアベルの部屋へ行く時間のほんの少しをユリフィエに割くだけで良いのですよ!」
「……分かった分かった」
わたくしが何を言ったところで、バルニールは生返事。
頭にきて、その袖を掴もうとした時だ。
「お、お待ちくださいルティナ様」
「!」
「……」
金髪に青い瞳のメイドがわたくしの手を掴む。
首を振るう。
そのメイドのおかげで、わたくしは頭がスッと冷静になった。
摑みかかるなんて……はしたない。
——けれど、わたくしのその軽率な行動がそのメイドを……いずれ、死へと追いやる事になるなんて……。
その時は思いもしなかった。
十月十日。
ユリフィエは陣痛を訴えて、分娩室へと運ばれた。
わたくしは待つ事しか出来ず、オロオロと部屋を行ったり来たり。
バルニールはきちんとユリフィエに会いに行くかしら?
子どもが……我が子が生まれるのだから、さすがにあの人でなしも少しはユリフィエに興味を持つ事だろう。
我が子の顔を見ればあの壊滅的に馬鹿な男も、少しはユリフィエのありがたみが分かる事だろう。
自分に言い聞かせるかのように、そう思いながら。
「ルティナ様!」
「! 生まれたの!?」
「う、生まれ、お生まれには……なったのですが……」
「……まさか……何かあったの!?」
「……し、死産と……っ!」
「————!」
侍女に告げられた言葉に、膝から力が抜けるかと思った。
けれど、それを押してわたくしはユリフィエのところへと走る。
裾を摘み、ヒールを鳴らし、必死に。
誰より傷ついているであろう、友のところへ。
「ユリフィエ!」
「まあ、ルティナ……お祝いに来てくれたの?」
「? 大丈夫?」
「ええもちろん、見て、ほら……わたくしの赤ちゃん……」
「……え?」
様子がおかしい。
ユリフィエが隣から布の塊を持ち上げてわたくしに見せてくれる。
覗き込むと……タオルの塊?
「真っ白で可愛いでしょう? 男の子だと先生に伺ったから、オズワルドと名付けたの。陛下も先ほど顔を見に来られたのよ。見て、可愛いでしょう?」
「…………、…………ユ、ユリフィエ……?」
何を言っているの?
一体、何を……。
振り返って助産師を見ると、首を横に振られる。
『バルニール陛下は、来ておりません』。
そういう意味……そういう意味よね?
……ユリフィエがおかしくなってしまった、という意味ではないわよね?
ねえ、そう、言って————。
だれか…………。
*********
マリアベルが王妃の座に就いて、数年が経つ。
意外にもマリアベルは王妃としての務めを果たした。
……子をなしたのだ。
マリアンヌと名付けられた姫は、後宮ですくすくと育っている。
わたくし?
わたくしのところへあの男がお渡りに来る事はなく、わたくしもそれを期待していないし望んでもいない。
あの男は元よりどこか狂気じみていた。
それは……あの男がいつか見たメイドの腹を使って産ませた子どもを見ればよく分かる。
金髪碧眼の童はいかにもこの国の王子に相応しい、美しい容姿をしているのに、その見すぼらしく死んだように何も映さない瞳は見ていてどこか心配になった。
子どもというのは……もっと感情の塊のようなものだと思っていた。
あれの母親は数日前にあの子どもと共に兵士たちに付き添われ、城に現れたのだが……子どもの方は母親と引き離されてどこかへと連れて行かれる。
母親の方も日に日にやつれ、表情も消えていた。
わたくしから声をかけるにも身分差というものがある。
それに、なんて声をかければ良いのかわたくしには分からなかった。
そんな彼女へ、マリアベルが声をかける。
あの女が後宮に入ってから人と会話するところを久しぶりに見た。
扇で口許を隠し、柱の陰から見ていると……マリアベルは小瓶を彼女へ手渡す。
笑みを浮かべ、優しく声をかけているようだった。
味方のいない後宮で味方を増やそうと……そういう目論見であろう事は一目で分かる。
まあ、子爵令嬢の出だ。
陛下のお手つきと交流するのが似合いだわ。
ああ、本当に。
あの時あの小瓶を叩き落としていれば良かったものを。
わたくしはこの後の人生でずっとそれを後悔する事になる。
「……死んだ⁉︎ あの王子の母がですか⁉︎」
「は、はい。服毒自殺のようでございました」
「王子は⁉︎」
「ご無事です、が……目の前でお母上を亡くされたようで……今は医務室におられるとか……」
「……っ……」
あの女の渡した小瓶だ。
すぐに分かった。
マリアベル、あ、あの女、いくらお手つきの側室とはいえ、平然と……。
わたくしが進言したところであの男は聞き入れないでしょうし……しかし……。
「毒に関して調べは?」
「どうやら紅茶に毒が入っていたようです」
「瓶は? 昼間マリアベルが彼女に小瓶を渡していたでしょう?」
「はい。ですがすでに騎士団に回収されておりまして……」
「手の早い女ね……」
とはいえあの女は王子を殺す理由がないだろう。
正妃に据え置かれたとはいえ、マリアベルは陛下に一片の好意も持ち合わせていないのだ。
……わたくしと同じように。
王子の存在はあの女を脅かすものではない。
マリアベルの娘は、すでに正当な王位継承者として『クレース』の名を与えられている。
王子には未だ王位継承権が与えられていない。
そう、そのはずなのだ。
「……なんにしても、あの王子が無事なのは良かったわ。この国の未来そのものだもの」
「……ルティナ様は、あの王子をお認めになられるのですか?」
「王位を継ぐ可能性がある者は一人でも多い方が良いわ。……ユリフィエの、オズワルドの事もある。そういう意味よ」
「そ、そうですね。出過ぎた事を申しました」
本当にそれだけ。
最初はそれだけだった。
わたくしは産む機会にさえ恵まれなかったのだ。
わたくしに課せられた側室の役割すら、あの男には関係なかったのだろう。
マリアベルが来てからというものお渡りの義務すら放棄して。
それに、城の中は少しずつ狂っていた気がする。
王子は姿が見えなくなり、マリアベルは陛下以外の男と遊ぶ噂が増え、陛下はますます戦争の為の準備に奔走するようになった。
お陰で陛下の留守を預かると言いながら、甘い汁を吸おうとする貴族が増える。
わたくしはそういう者を宰相のアンドレイとともに排除して、留守を守った。
それがわたくしがこの後宮にいる意味。
だが、それもマリアンヌが立って歩くようになると和らいでいく。
マリアンヌは……出来は悪いようだが——子爵の娘なのだ無理もない——あの王子に比べて実に子どもらしかった。
わたくしは怖がられてしまうけれど、陛下にはよく甘え、わがままを言い困らせる。
しかしそれがあの男の凝り固まっていた何かを溶かしていった。
城の空気はだいぶ和らぎ、あの男も人並みに笑う事が増えたように思う。
そうなれば政にも陛下の意向が戻ってくる。
ようやくわたくしが施政から手を引くと、何やらマリアンヌは『偽者ではないか』という噂が出回り始めた。
「髪も目も、陛下とお妃様に似ても似つかない」
「見て、あの霞んだ藍色」
「陛下とお妃様は美しい金髪碧眼」
「まだレオハール様の方がお二人の子と言われれば納得よね……」
成長するにつれ、マリアンヌは陛下ともマリアベルとも似ても似つかぬ姿になる。
正直レオハールに比べれば頭の方も良くないようだった。
家庭教師は口を揃えて「王家の方にしては『記憶継承』の発現が……」と濁す。
わたくしは何度か「子爵家のマリアベルの娘ですもの」と添えたけれど……それでもやはり悪いらしい。
「マリアベル様の不貞の子なのではありませんか?」
城のメイドたちは面白おかしく噂する。
それがあの娘を追い詰め、レオハールや陛下はあの娘を甘やかし、依存し依存され、わがままは加速し、数年後には城の中はめちゃくちゃ。
わたくしもまた、政に携わる事になってしまう。
陛下に叱るよう進言しても、わたくしの言葉など聞こえていないようだし、本当に困ったものだ。
「?」
城の中の騎士団の詰所。
本来ならわたくしが来る場所ではないが、だからこそわたくしが姿を見せる事で減ってしまった騎士の現状を把握出来るだろう。
そしてユリフィエの義理の弟、騎士団長ディラン・ディリエアスに用があった。
ユリフィエの事だ。
あの様子は今も変わらない。
陛下はユリフィエと仲を戻そうと思っていないだろう。
このまま城にいてもあのままにされるのであれば……ディリエアス家に帰す方があの子の為だと思った。
その辺りを相談するのに、ディランを後宮に呼びつけるわけにはいかない。
わたくしがこうして堂々と出向いた方がお互いの為なのだ。
だが、その途中変なものを見てしまう。
「まあ、王子殿下、このようなところで何を?」
「ルティナ様……えーとあの……マリアンヌが髪飾りを壊してしまったと言うので……」
「直していたんですよ。ほら、直りましたよ、殿下」
「わあ、すごい。あっという間に直してしまえるんだね」
「…………」
相変わらず子どもにしては感情の希薄な笑顔だ。
まあ、それでも母を亡くしたばかりの頃よりは大分良いだろう。
覗き込むとバレッタの金具を付け直したようだ。
「このぐらいなら誰でも出来ますよ」
「僕でも?」
「ええ」
「マリアンヌは髪留めを乱暴に扱うからな……仕事の邪魔をしては悪いし、では、今度直し方を教えてくれる?」
「え? 殿下がご自分で直されるのですか?」
「そうすれば多少は大切に扱ってくれるかもしれないでしょう?」
「……。な、なるほど……分かりました、お教えしますよ」
「ありがとう。では、ルティナ様、失礼します」
「ええ」
…………。
「もし? 王子がわざわざここまで髪飾りを直しに来る必要はないのでは?」
「ご存じないんですか? マリアンヌ姫が殿下の従者を全員解雇したんですよ。自分より兄君に四六時中誰かが一緒なのが許せないとかで」
「なんと……」
おかしいと思ったらそんな理由……。
呆れたものだ。
ますます酷くなっているではないか。
「…………。……あの子が……」
「はい」
「もし、あの子がもっと学びたいと望むのであれば……そなたの技術をうんと伝えてやってはくれないかしら?」
「……え? は、はい、それはもちろん……?」
王子。
王子レオハール。
「…………」
十七になった王子は、政にも積極的に関わるようになった。
わたくしが補佐していたところは王子がするようになり、陛下の負担も大分減っただろう。
というよりも、陛下の方が最近は使い物にならない。
死ぬには早いがとっとと王位を王子に譲るべきだろう。
……幸いにというべきか……マリアンヌは本当に偽者であった事が発覚し城から追放された。
マリアベルもまた王家に対する反逆が露呈し処刑されたと聞く。
こんな夜遅くまで政務に励む年若い王子……いえ、王太子にわたくしがしてやれる事は何があるのだろうか。
「ルティナ様?」
「ブランケットを持ってきて、かけておやりなさい。目を覚ましたらお部屋で休むように、と」
「は、はい」
扉が開いていて、覗き込めばなんとも無防備に庶務机の上に寝ている王太子の姿。
書類は大分片付いているようだけど……。
まあ、亜人との同盟の為の書類作りが佳境のようだし致し方ない。
戦争の為に生まれてきた王子。
今はもう、あの子だけが国を背負える無二の存在。
子を産めなかったわたくしは、あの王太子に……負い目があるのだろうか。
「あまり無理をしてはいけませんよ」
部屋の外から、誰もいない廊下で、扇で口許を覆い、呟く。
この物悲しい気持ちは…………果たしてなんなのだろうか。
了







