第92話・思考停止
蹴り上げられたムジナが地面に倒れる、その直前であった。リークウェルのサーベルが、蛇のようにしなってムジナへ襲いかかったのは。その速さは、ムジナに回避や防御の余裕を全く与えなかった。
「うぐゥッ……!」
ムジナの腹に、サーベルが突き刺さる。鋭い刀身は小動物の体内深くに潜りこみ、じきに背中の方へ貫通して飛び出した。
「ガッ……! ゥア……ァあああアアッ!」
ノームが苦痛の悲鳴をあげた。
一般に、『紋付き』の持つ固有能力は、『紋』を持たない人間に比べると遥かに有利なものである。その『紋付き』の唯一の弱点がこれだ。『紋』を刃物などによって傷つけられると、強烈な痛みや痺れが全身をかけめぐり、傷の度合いによって数日から数か月もの間意識不明の状態に陥ってしまう。
そして、『紋』から生まれたムジナを傷つけられることは『紋』自体を傷つけられることに等しい。それがノームの能力のルールであった。
(マズい……! ここ、デ、気ヲ失ったラ……ッ!)
間違いなく、次に目覚めた時にはあの世の住人だ。だが、この激痛は想像を越えている。どんな強靭な意志でも抗えない。剥き出しの脳に電極を突っ込まれ、脳細胞が焼き殺されていくような感覚。同時に、全身に這いまわる人食いアリに肉を食いちぎられるようなイメージが駆け巡ってくる。
地獄の最も底で行われる拷問。ただ一つの希望は、気絶することで全ての痛覚を忘れることが出来るということ。この希望に、ノームもすがりついた。生物としての防衛本能が、そう命令した。そうしなければ全ての神経が焼き切れてしまう。
薄れていく意識の中で、ノームの心中にある単語が響いた。その存在は知っていたが、ここで出くわすとは夢にも思っていなかった言葉。
(――フェニ……ックス……)
そしてノームは目を閉じた。
「ねー、リク。やっぱ休んでた方がいいよ」
サーベルに貫かれていたムジナが消滅したのを確認し、ユタはリークウェルに声をかける。そのリークウェルは、なおも奇跡の実現中であった。
「構うな。お前の方こそ、もう能力を使うな。ここの幹部ほどではないが……お前の能力も、シンプルで強力なぶん、大量のエネルギーを消費するタイプだろう。あまり無茶をするな」
ナイフに斬られた傷口の断面から、繊維のようなものが無数に生え出している。繊維は互いに絡まり合い、切断されたもう片方の断面に向かって伸びる。伸びた繊維が突き刺さり、急激な速度で傷口をふさいでいく。おそらく、体内の心臓でも同じような現象が起こっているのだろう。さすがに衣服やコートの破れまでは修復できていないが、肉体は驚異的な速度で再生していた。
「オレが片付ける。……安心しろ。一分もかからない」
リークウェルが歩く。行先は、呆然と立ちつくす軍人と幹部クドゥルのいる緊急脱出部屋。サーベルを握りなおし、若干フラつきながらも確かな足取りで歩いて行く。その姿を見ると、本当に一分未満の時間で目的を完遂してしまいそうだ。
だが、ユタは言った。
「ダメ。これだけはぜっっったい、ダメ。何が何でもダメ。ダメと言ったらとことんダメ」
「うるさい」
仕方なしにリークウェルは振り返る。ユタは両の眉を寄せ、珍しく怒ったような表情だ。
「無茶するな、はこっちのセリフ。今のリクより、あたしの方がまだ満足に動けるよ」
「だが……」
「ダメ。言うこと聞かなかったら朝ご飯抜き」
ユタは引き下がりそうにない。
……わかった。だが、すぐに終わらせろ。リークウェルがそう言おうと、口を開きかけた瞬間である。
爆発が起こった。二人の立っている場所と支部建物の残骸の、ちょうど中間にあたる位置でだ。爆発は戦艦の墜落と比べれば小規模なものだったが、そこに溜まっていたガレキや鉄クズを吹き飛ばすには十分な威力だった。
「ほら、ね。あっちも無事だったみたいだし。リクは休んでなさい」
「クソ、けっ! 結局地下に逃げるハメになっちまった。爆発から逃げるなんざオレのプライドに怒りがグサグサ突き刺さっけどよォー、わざわざ逃げ場所を提供してくれるあたりにウシャスの低能ぶりが見えるな」
「ええ……。でも、戦艦の特攻は最後の奥の手だったんじゃない? 本当なら、戦艦を落とすまでもなくケリをつけているつもりだったとか」
ラングバットがリークウェルを引きずり込んだ地下室。地下室内部はほとんどが土砂とガレキで埋まっていたが、今の爆発によって地上に通じる穴が開けた。そこからまずダグラスが、続いてエルナとフーリ、最後にジェラートがガレキを踏み台にして地上へ昇り出た。
「あの船に乗ってたリクが心配だわ。ユタなら空に逃げられるけど、リクはもしかしたら……」
「使ったかもしれねェな。アレを」
立ち込める硝煙のせいで月明かりも薄まり、視界が利きにくい。フーリの鼻も、おびただしい血と煙のせいで探知がしにくい。地面に顔を伏せ、音を探知する。
「……やっぱり使ったみたい。ユタと一緒に戦艦の落下地点にいるけど、さっき腹部に負っていた傷も治ってるわ。それに二人とも体力を消耗してるみたい」
エルナが通訳する。
「他に軍人は?」
「……二人の近くに、五人。それから箱みたいなものに三、四人の気配。それと……」
最後まで聞かなくとも、ダグラスにはわかった。
「次から次へと、うざってぇぐらいに湧いてきやがるな。命令がなけりゃ動けねぇ人形どもが」
「いいえ。我々は誇りのために行動しています」
ダグラスが振り返り、迷わずトリガーを引く。ほぼ同時に、相手も撃っていた。
爆発。再び膨大な粉塵が噴き上がり、標的の姿が見えなくなる。が、勘と経験で、今の攻撃が直撃しなかったことはわかった。それは相手も同様だろう。相手の放ったものも直撃はしなかった。それは、ダグラスの右肩をわずかにかすめて後方のガレキに命中した。
「今のは光か? 彗星みてーな光が飛んできた」
粉塵のカーテンの向こうで、標的の気配が動いた。
言うまでもないが、この標的はウシャスの本部付き幹部――ラクラ・トゥエムである。