第90話・神の鉄鎚
リークウェルは扉を蹴破り、廊下へ飛び出した。廊下の灯りは残っていた。ランプに照らされた床を、クドゥルとムジナの逃げ込んだ、隣の部屋へ向かって駆ける。その部屋の扉は、一見すると何の変哲もない木製の扉だ。だが、その扉に触れてみてわかった。木で造られているのは扉の表面だけであり、その内側は鋼鉄製になっているようだ。当然、カギはかけてある。いくらリークウェルが剣さばきの達人であっても、鉄の扉を破壊することは出来ない。
――まずいな。リークウェルの直感が、緊急警報を発していた。
巨大戦艦で戦闘を行う際、最も恐ろしいのは、敵が戦艦内部へ侵入してくることだ。戦艦の中へ入られた敵に対しては、砲撃も屈強な装甲も何の意味もなさない。故に、内部の敵を効率よく排除するため、今クドゥルが使ったような特殊な仕掛けがあることは不自然ではない。そう、仕掛けそのものは不自然ではない。その仕掛けを今この状況で使ったことに問題があるのだ。
(クドゥルは疲弊しきっている。逃走して時間を稼いだところで、放っておいてもすぐに能力を使えなくなるはずだ。今の脱出にどんな意味がある?)
その理由を考え始めた時、支部が開戦の合図として行った、訓練場にいた『フラッド』への自動車攻撃を思い出した。あの攻撃は三台の自動車と四人の軍人によるものであったが、その四人は、果たして本当にあの攻撃で『フラッド』を倒せると思っていたのだろうか。中にはそんな奴もいただろうが、すべての軍人がそう思っていたとは考えにくい。あの四人は捨て駒だ。『フラッド』の能力を知るための捨て駒だったのだ。
”全てを犠牲にしてでも勝利を掴む”。東支部が行っているのはそれだ。
(逃げたは、オレをここに留めておくためか!)
そう気づいた瞬間、戦艦がぐらりと揺れた。そして、大きく傾き始めた。
「くッ」
反射的に扉のノブに手をかける。平行な高さを保っていた廊下が、奥の方を下にした坂道になっている。ノブを掴まなければリークウェルの体もズリ落ちていただろう。だが、問題なのはそこではない。戦艦が傾いたということは、つまり……。
「奴め、この戦艦までも犠牲にするつもりか!」
一瞬、ユタのいる場所まで戻ることを考えた。しかし、もう遅い。奇妙な浮遊感が全身を包みだした。
蜘蛛の糸が切れたかのように、戦艦は大地へ急激な突進を始めた。
地上でも、それに気づいた者がいた。
「オイ、落ちるぞ!」
ダグラスが叫ぶ。エルナが上空の戦艦を見ると、戦艦の底部を覆っていた水が完全になくなってしまうところだった。
「リクがやったの!?」
「違う! ありゃあ敵がわざと落としてんだ!」
1800トンの物体が、神の下す鉄鎚のごとく落とされる。
それはわずかな間もなく地に達した。高さ、重量、積まれていた火薬や兵器類。砲弾やダグラスの爆弾とは比べ物にならないほどの、膨大なエネルギーが大気と大地へ放出される。世界が一つ崩壊したかのような、圧倒的破壊のエネルギー。戦艦の落下した地点は支部建物からは数十メートルほど離れた位置だったが、破壊圏は支部を丸々飲み込んでいた。
「ぐう!」
爆弾銃の使い手であるダグラスさえも圧倒させるほどの光と熱と爆圧が、辺りを埋め尽くす。夜の闇の中に鬼火が灯り、一瞬だけ昼になったかのような明るさが広がる。ただでさえ崩壊寸前だった建物が、トドメを刺されたかのように吹き飛んだ。
どれぐらい時間がたっただろうか。ほんの一瞬のような気もするし、何時間も意識が途切れていたような感覚もする。状況を把握するため、ムジナは固く閉じていたまぶたを開き、あたりを見まわした。まず視界に入ったのは、白い風船のようなものであった。無数の風船がムジナの周囲を覆い、その奥に、鉄の壁が見える。
「……この、部屋は、特殊な構造になっていてな……」
耳元で声が聞こえた。視線を向けると、そこには同じく風船に囲まれたクドゥルが床に倒れていた。クドゥルは仰向けになったまま口を動かしている。
「戦艦を墜落、させても、この部屋だけは、落下の衝撃や、爆発からのが……れられるような、構造だ」
部屋の中には、他にも複数の”避難”していた軍人たちの姿が見える。その中の一人が、風船をかき分けて外への扉を開けた。風船だと思っていたものは、どうやら空気を詰め込んだクッションらしい。
「あんたが無事でよかったぜ、幹部さん」
クドゥルに言葉をかけ、ムジナは素早く軍人の後を追って部屋の外へ出た。
部屋の外。そこは、さっきまでは戦艦の廊下であったはずだ。だが、今、部屋の外には何もなかった。ズタズタに引き裂かれ、焼き焦げ、えぐれた地面。その大部分は、おびただしいスクラップに覆われていた。廃墟となった支部建物が、まるで数千年前の遺跡のようだ。鉄の壁に覆われた部屋だけがほぼ原形を留めたまま場違いに立っている。
「ゼブと交戦する際の最大主力兵器……。こんなところで失うことになるとは……」
部屋から出てきた軍人の一人が、ポツリと感想をもらした。他の軍人が答える。
「仲間も大勢犠牲になった。甚大すぎる被害だ」
「だが……効果もまた、絶大だ」
『フラッド』の姿はどこにも見えない。戦艦内に閉じ込めたリークウェルは当然、地上に残っていた三人と一匹も見当たらない。
ただ、一人だけ。
「ダグ! エルナ! ジェラート! みんなどこー!?」
上空から声が降ってくる。ユタだ。巨大なキツネに乗ったユタが、風に浮きながら軍人達の頭上を飛び回っている。
「残ったのはあの少女だけか……」
「い、いや! あれを見ろ!」
ガラクタの山の一角が、派手な音を立てて崩れた。崩れた鉄クズの下から、黒い影が起きあがってきた。
「バカな……」
リークウェルは生きていた。全身の骨を砕き、裂けた肉から血を噴きながらも、鋭い眼光を放って立ち上がっていた。