第85話・狭い視界から
レオングの能力。それは、一種の空間創造能力だと言ってもいいだろう。『紋』が生み出した白いボックスは、その内部に一辺四メートルほどの正方体状の空間を有している。この空間内に入ることが出来る人間はレオング本人のみ。レオング自身はいつでもこの空間内に入ることが可能だが、他の人間を連れてくることは出来ない。一緒に持ち込めるものは、身につけている衣服や武器類、無線機などといった非生物のものだけである。この条件はノームのムジナに似ている。
(ラングバットが死んだ……。クソ、連絡がないということがそれを証明している。ラングバットの奴、油断でもしたのか!? アイツはやたらと相手を下に見る癖があるからな!)
ボックスの中で、レオングは腹立たしげに無線機を床へたたきつけた。ラングバットがリークウェルを倒した場合、この無線へ連絡が来ることになっていた。だが、無線は鳴らない。地下から銃声が響くのは聞こえたが、それで仕留めたのならとっくに連絡があるはずだ。無線の電波は非生物なのでボックス内にも入ってこれる。
(これで一人ずつ誘い出す作戦は不可能になった。いや……誘い出すことは可能だが、その一人だけを相手にしてもこのザマだ)
改めて、絶望的な状況なのだと思い知らされた。それは、『フラッド』が強すぎたということよりも、ウシャス軍の弱さを嘆いたものであった。
(東の大国として崇められる我が国も、フタを開けてみればどうということはない。クソ、何が伝統ある軍組織だ。この非常時に……本部は遅いし、他の支部に至ってはロクな救援を寄こしすらしない!)
レオングを苛立たせている最大の要因はこれであった。東支部は、『フラッド』との交戦が決定されたと同時に、本部や他の各支部へ支援部隊の召集を呼びかけた。しかし、方々の支部からやってきた支援部隊は、全てを合計しても二十名に満たない少人数であった。しかも、その中に戦闘に秀でた『紋付き』は一人もいなかったのだ。
(これはどう考えても、我々を見捨てる方針だとしか思えない。本気で『フラッド』に対抗しようている布陣ではない。結局は自分たちの保身が優先か! 『フラッド』などというクレイジー共に関わりたくないというのか! 我々を犠牲にしてでも!)
「で、どーすんだ? オレはこのまま相手の策を待っててもいいけどな」
「いーやーだ! リクだけ好きなだけ暴れといて、あたしらだけ待機なんてヤダ!」
頭上から声が聞こえてきた。見上げると、すぐ目の前にユタとかいう少女の背中が見えた。ボックスの外からこの空間内を見ることは出来ないが、ボックスの中から外を見ることは出来る。だが、今はガレキに邪魔されてほとんど外が見えない。このボックスを『フラッド』から隠すためにわざとガレキの下に潜んでいるのだ。わずかに開けておいた隙間から、小柄な少女の黒コートと巨大なキツネだけが見える。
「こいつらさ、あたし達がビシバシ攻めまくってくることを想定して作戦組んでんでしょ? ってか、絶対そうでしょ。だったら攻めた方が相手の思うツボってことで面白くない? それにさァー……」
(ああ、その予定だったさ。お前達が攻撃と防御に集中している間に、一人ずつ誘い込む作戦だったさ! もう無駄だがな!)
バン、と銃声が聞こえた。軍人の誰かが発砲したらしい。そう思った瞬間には、すでに弾丸は無力化されていた。暴風の吹き荒れる音がやかましい。
「さっきからチョコチョコ撃たれんのがウザいの! いちいち防御すんのメンドくさ!」
「あーもう、うっせぇな!」
直接姿は見えないが、おそらく銃使いの男が怒鳴った。
「わかったよ、ったく。いいだろ、エルナ?」
「仕方ないわね。……いいわよ」
「やたっ!」
少女が軽い声ではしゃぐ。
「いっくよ、くーちゃん!」
少女の傍らに立つ狐がクゥンと鳴いた。と、その直後、これまで以上の暴風が逆巻いて視界が閉ざされた。どうやら、巻き上げられた砂やホコリが視界を妨げているようだ。しかし、視界はじきに晴れた。風がボックスの後方へ流れて行ったような感覚がする。風は、キツネの体を中心に急激に回転外周を広げているようだ。ボックスを隠すガレキがいくらか動いたが、少女に近すぎたおかげでそれほど大きくは移動していない。せめてもの救いだ。ガレキが動いてこのボックスが発見されたら一巻の終わりだった。
だが、それは新たな絶望を味わうための準備時間にすぎなかった。聞こえてくる音で判断するしかないが、どうやら木の幹が折れたようだ。巻き上げられた石やガレキがあちこちにぶつかり、建物のガラスが次々と砕ける。軍人たちの悲鳴が聞こえたような気もする。
「やっぱこーじゃないと!」
「ハッ、確かにこんだけハデにやらねぇと面白くねぇな」
ボックスと『フラッド』のいる位置だけが、安全な”台風の目”になっているようだ。しかし、その周囲は地獄絵図だろう。向かってくる弾丸の軌道を一瞬で捻じ曲げるほどの強風が、完全に牙をむいて襲いかかっているのだから。
(マズい! このままでは……)
腰に手を当てると、そこにはホルスターに収まった拳銃がある。しかし、それは手に取らず、代わりに胸ポケットの中からナイフを取り出す。
(この至近距離で確実に仕留めるには……手ごたえを実感できるナイフの方がいい。この状況、もはやオレがやるしかない。ああ、畜生。これでオレも死亡確定だ。今奇襲をしかければ、確実に一人は殺せる。だがその一人を殺した時点でオレは他の奴らに殺されてしまうだろう)
少女は先ほどと同じ位置にいる。少女を、しかも背後から襲うというのは、あまり褒められた行為ではない。だが騎士道を発揮する余裕なんてない。
(オレは他の支部の腰ヌケ連中とは違う。あの世で見てろ、ラングバット。オレは必ず殺す。自分を犠牲にしてでもだッ!)
ヤケと言えばヤケだが、心の中ではカッコつけてみた。あの世というものが存在することも信じてはいないが、一応言っておいた。
ナイフを固く握る。そして安全なボックスを捨てて死地へ赴いた。