第79話・殲滅
「楽しい」。この感情、歓喜だけは、どんな人間でも忘れることがない。常に冷静沈着、めったに表情を変えることのないような人間でも、心の内には「楽しい」ものを求めている。それは『フラッド』リーダー・リークウェルでも例外ではなかった。リークウェルは決して感情を表に出さない人間であった(そもそも、常に顔の半分を布で隠している)が、今の状況を仲間の誰よりも楽しんでいた。
だから、落ちた。突如開けた穴には少々驚いたが、落下を回避することは十分に可能だった。剣を交えているラングバットの存在も大した問題にはならない。避けられるのにわざと地の底へ飛び込んだ。楽しむために。
ダグラスが推測した通り、地に開いた穴は地下室につながっていた。リークウェルが落下しながら見た限りでは、倉庫のような場所らしい。外界と隔絶されていることを証明するように冷気が満ちた地下室には、車一台がまるごと納まりそうなほど巨大な鋼鉄製コンテナがいくつも並んでいる。そして、コンテナの陰から無数の殺気が放たれていることに、リークウェルは気づいていた。
「ハッ!」
ラングバットが蹴りを繰り出す。大口を叩くだけあってなかなか速い攻撃だ。リークウェルは左のヒジとヒザで蹴りを防ぐ。以外にも衝撃は鋭くない。ラングバットは足の底全体を叩きつけている。ダメージを与えるための蹴りではない。反動で自分の方を突き飛ばすための蹴りだ。
「撃てェええ! そいつをグチャグチャに! 肉と骨の残骸にしちまえ!」
瞬間、多数の気配が動いた。冷たいコンクリートにリークウェルのコートの裾が触れるのとほぼ同時であった。
響いて騒ぐ、銃声、銃声、銃声。物陰に潜んでいた軍人達の一斉射撃だ。リークウェル一人に対し、四十名近くの軍人が殺意を向けている。数の上では圧倒的有利にありながら、ラングバット以外の軍人達は誰一人として全身を見せない。陰からわずかに顔と銃を握る手だけを出し、極力自分の体を隠したまま攻撃している。リークウェルの反撃を恐れているというよりも、味方の撃った流れ弾を警戒しているのだろう。この鉄とコンクリートに囲まれた空間では複雑な兆弾が予想される。事実、弾丸は異様に跳ねた。的を外れた弾丸は床やコンテナにぶつかって跳ね返り、万華鏡内の光線のごとく乱れ飛ぶ。
弾丸がコートを貫く。
「ブッ壊……ま……ェ! ブッ……せ!」
ラングバットが何やら叫んでいるらしいが、その声は銃声にかき消され、リークウェルの耳には半分しか届かない。
「いく……『フ……ド』だろ……、一人……しち……所詮はこ……程度だな! ハハ! ハハ……!?」
かき消されていたラングバットの声が、突然大きく聞こえた。銃声の音量が半減したのだ。軍人達はリークウェルの左右から挟み撃ちをしていたのだが、リークウェルの左、ラングバットから見れば右側からの銃声が途絶えた。弾丸も片側からしか放たれていない。軍人達の使っている銃は六発まで連続して発射できるものだが、おそらくまだ全ては撃ち切っていないはずだ。銃撃が始まってほんの一、二秒しかたっていない。
「少しは策を打ったつもりか。浅はかな。銃を使うのなら獲物の正確な位置ぐらい把握しておけ」
リークウェルの言葉は、不思議なことに誰の耳にも届いた。そして銃声が完全に止まった。
――ようやく気づいたか。リークウェルは呆れると同時に落胆した。その右手にはサーベルが握られている。サーベルの刀身は血に濡れていた。つい今さっき付いた血だ。赤黒い血液がドロドロと流れ滴っている。血はリークウェルの服にも付着していた。上半身に密着しているような濃いグレーのスーツに、返り血の飛沫が数滴ついている。いつもの黒コートは羽織っていない。コートは銃弾にズタズタに裂かれて床に落ちているからだ。
「てめッ……いつの間に!」
ラングバットもようやく気づいた。弾丸を受けていたのはコートだけだ。リークウェルは着地すると同時にコートを脱ぎ、それが人の姿を留めたまま宙に待っている間に、コンテナの陰へ滑り込んでいたのだ。早業としか言いようがない。ラングバットが着地のために目を放したその一瞬、コートの中に我が身を隠して軍人達の視界から消え、ほぼ同時にそこから脱出していた。奇術師のような鮮やかさ。軍人達には、いったいいつリークウェルが消えたのか、永遠に理解できないだろう。空のコートに数発を撃ち込んだ時点で、急所にサーベルが突き刺さったからだ。
左にいた軍人が全滅するまでがほんの六、七秒。手早く片をつけたリークウェルは素早く陰から飛び出し、わずかな間だけラングバットと残りの軍人達にその身をさらした。が、次の瞬間にはもう向かい側の陰に飛び込んでいる。
一度途絶えた銃声が、再び響き出した。しかし、今度は先ほどと違い、統率が失われて浮き足立った轟音だ。銃声の合間を縫って悲鳴やわめき声が空間に這い上がっている。
「おいおいおいおいおいおい……」
ラングバットは身動きせずに汗を流している。ラングバットの位置からでは、コンテナの陰で行われている惨劇を直接見ることは出来ない。しかし、時折中央の床に飛び散る鮮血や断末魔が、必要以上に状況を説明していた。
じきに、大量の返り血を浴びたリークウェルが出てきた。今度は少し抵抗されたせいか、若干長く時間がかかった。しかし、もしもラングバットが腕時計を見ていたら、驚異的なタイムに圧倒されることだろう。先に全滅させられた左側の軍人達の分も合わせて、三十秒足らずの時間で四十人の軍人が殺害されたのだ。
「は……ハハ。すっげ、全員が一撃でやられちまってんの。なぁ、アンタ、いつの間にコートを脱いで隠れたんだ? 全然気づかなかったぞ、オイ。ただの超スピードか? それとも何かトリックでも使ったのか?」
「強いて言うなら、前者だな。だが完全に目に留まらないほどの速さではない。オレは所詮、ただの人間にすぎないのだからな。お前達が注意して観察していればすぐに気づいたはずだ」
リークウェルが、床に落ちたコートを拾う。それは弾丸によって無数の穴が開き、焼け焦げていたが、リークウェルは構わずそれを身にまとった。
邪魔者は排除した。今、彼の前に立つ敵はラングバット一人。