第75話・チェックメイト
「やはり……並みの大砲ごときで倒せる相手ではなかったか」
二階の窓から、双眼鏡を使って訓練所を見る。爆風によって緑がはぎ取られた大地の上に、忌々しい黒コートの集団が座っている。
「しかし解せんな。あの五人の内、二人は女だろう。しかも一人はまだ子どものように見えるぞ。あんな集団がこれだけの実力を持っているなどと……信じられん」
空は、皮肉なぐらいに気持ちいい快晴である。双眼鏡から目を離して視線を下方へ向けると、そこには大砲を囲む軍人たちの姿が見える。あらかたの砲弾を撃ち尽くした大砲が腑抜けの魂のように細い煙を吐いているが、その煙もあっという間に青空へ溶けてしまう。人間のつくった兵器など無力だ、と天が仄めかしているかのようにも見える。
「バカ者! なぜ勝手に『フラッド』を攻撃した!」
廊下の奥から聞こえてくる怒声が、思考を中断させた。中年男性の声だ。どうやら廊下で捕まえた軍人の一人を問い詰めているらしい。
「まだ私からの命令は何とも出ていなかっただろう! しかもなんだあの幼稚な作戦は! ただ大砲を撃ちさえすればどうにかなると思っていたのか!?」
「も、申し訳ございません! しかし……」
男の声には怒りと焦りの感情があふれている。
そろそろ助け舟を出してやるか、と思い、扉を開けて声をかけた。
「すまなかったな、フォルスタス君。彼らには私が命令をしたのだよ」
まったく、予想通りだった。廊下には一人の若い軍人と、その襟を掴んでいる中年の軍人――東支部の指揮者であり三大幹部の一人、クドゥル・フォルスタスがいた。
クドゥルは同じ幹部であるラクラやヤコウと比べると一世代ほど年上だ。当然、今の三大幹部の中では最も年季がある。いかにも軍人らしい武骨な肉体や、短く刈り上げた髪、口元にたくわえられたヒゲが貫禄を醸し出している。
「なんと……ウェンダ様、なぜここへ?」
クドゥルはそう言って目を丸くした。それはそうだろう。と、ウェンダは思った。自分がここに来ていることすら、この時代遅れた軍人は知らされていないのだから、と。
「ここが『フラッド』に目をつけられているという情報を得たのでな。早急に出向いてきたのだよ。だから事前に来訪の連絡が出来なかった事は許してほしい」
許すも何も、権力者としての立場はウェンダの方が上だ。それを承知の上でわざとウェンダは言っている。
「それは構いません。ですが……」
「『フラッド』を攻撃しろ、と一般兵に命令を下したのは私だよ。大砲を使うように指示したのも私だ。そう、ただ大砲を撃つだけの幼稚な作戦を、ね」
「う……」
相手の言葉を逆手にとって怯ませる。それがウェンダのいつものやり口である。もっとも、自身の権力が通用する範囲内に限られているが。
「フフ、確かに幼稚だな。だが仕方がないだろう。準備に時間をかければかけるだけ敵にこちらの攻撃意思を悟られる可能性が高くなる。そもそも、あれだけの数の砲撃をかわせる人間がいるなどと思ってもいなかった。ウワサ以上だな、『フラッド』の実力は」
「はぁ」
クドゥルは明らかにイラついている。口にこそ出さないが、自分の部下へ勝手に指示を出されたこと、しかもその指示を出したのが実戦経験など一度もないただのお役人であることに、イラつきを覚えている。
「考えてもみたまえ。もし私が君にこの作戦を打ち明けていたら……君はどうしていた?」
「それはもちろん、止めます。たった今その作戦が失敗したから言うわけではありません。作戦を実行する前からすでに、失敗することは目に見えています。『フラッド』がこの程度で全滅するような連中なら、とっくにゼブがやっています」
「ほう、ならばその後は? 何か他の攻撃方法でも考えてあったのか? 君ほどの軍人がそれだけ持ちあげる実力者たちを、確実に倒せる手段でもあったのか?」
「……いいえ。残念ながら、今の我々の軍事力では、連中を確実に倒す策などございません。本部や他の支部と連携、つまりはウシャス軍が総力をあげれば別ですが……」
「そんなヒマはないだろう。いいか、フォルスタス君。今のウシャスは、ゼブと一触即発の状態にある。いつまでも『フラッド』などという訳のわからない奴らに関わっている余裕はない」
ウェンダの言葉に威圧感はない。が、態度は高圧だ。
「今、この支部がやるべき事はただ一つ! 可能な限り早急に、さっさと『フラッド』を倒すことだ! 相手の用件を聞く必要などない!」
「それでは……ッ!」
実戦経験のないお役人は、またしてもとんでもないことを言い出した。
「日没後に『フラッド』が攻撃をしかけるというのなら、帰り討ちにしたまえ。繰り返す。交渉をする必要はない。戦え。軍人らしくな」
”軍人らしく”。この一言が、軍人クドゥルから拒否の意思を奪った。そしてウェンダはダメ押しにこう付け加えた。
「これは命令だ。ウシャス政府軍部長官としてのな」
それだけを言ってウェンダはクドゥルに背を向け、廊下を歩き始めた。その表情には歪んだ愉悦があった。チェスの上段者が、ルールを覚えたばかりの素人を翻弄し、もったいぶった末にチャックメイトをかけた時のような――歓喜と快楽の色があった。
この支部で戦いが行われると決定した以上、ウェンダがここに留まる理由は何一つない。巻き込まれないうちにさっさと出ていくことにしたのだ。
(しかし)
表に待たせていた車に乗り込んだとき、ウェンダは考えた。
(攻撃すると決めたら一切容赦せず、徹底的相手を打ちのめす。それが『フラッド』だと聞いていたのだがな。なぜ『フラッド』はまだこの支部を攻撃していない? ここにある物資や情報が欲しいのなら、すでに攻撃しているはずなのに)
だがウェンダは、そんな疑問を抱く必要ももうないと判断し、代わりに自分のやるべき事をやったという達成感を抱いて支部を去って行った。