第72話・近寄れぬ海域
ラクラが会議室でウェンダと対峙していたころ、食堂ではレンがテンセイの話を聞いていた。
「その……空を飛ぶ手段が仮にあったとして、だ。どこへ行くつもりだ? 空を飛ばなくてはいけないようなところなど……まさか、雲の上だとか言うんじゃあないだろうな」
「そりゃあ当然違う。その場所は……サイシャって名前の島だ」
「島? だったら船で行けるんじゃあないか」
「船では行けない場所なんだよ。そこはオレの村があった島からまっすぐ南へ行ったところ。ただし、距離がかなり長い」
サイシャという島へ船ではいけない理由。まず第一の理由は、周囲の海面が非常に荒れていることだ。海を南下するにつれて波の動きは激しくなり、昼間であるにも関わず、薄い幕を被せていくかのように太陽の光が弱くなっていく。海面というよりも、気候そのものが荒々しく乱れている。一日の半分は曇り、もう半分は雨が降る。その島を取り巻く天候は船での接近をたやすく退かせる。
そして第二の理由に、島の形状にある。サイシャには海岸や砂浜といったものが存在しない。島の外周は全て切り立った崖になっているのだ。その高さ、海面からおよそ200メートル。装備があれば登れないこともないが、登っている最中に時化(海上で起こる嵐の別称)が来たら最悪だ。滝のような雨水に体力をそぎ取られ、弱った肉体は強風に叩き落とされる。
かつて幾数人もの探検家や学者が上陸を試みたが、成功したという記録はどこにも残っていない。――少なくとも、公の記録には。
「……ふむ、ああ、思い出した。そうだな……確か、昔そんな話を聞いたことがある。ある探検家の一団がそこを目指して旅立ち、崖の下までは到達できた。だが、崖を登ることのできた人間は一人もいなかったらしい。次々とメンバーが海へと転落し、残った数人が命からがら逃げかえってきた。……もっとも、最終的に帰還できたのは一人だけで、それ以外のメンバーは帰還途中に高波にさらわれ、海へ消えたそうだ」
「そこだ。サイシャへ行くのに、船で海を渡って崖を登るってのは不可能。この二つをクリアするには空でも飛ぶしかない。それでも雨や風の被害は受けるが、それ以外に方法はない」
テンセイは真顔で語っている。聞いているレンも真剣な表情だ。ノームとコサメはまだ黙々と食事に熱中している。コサメに難しい話は理解できないし、ノームはすでにテンセイから話を聞かされていたからだ。
「なるほど。確かに、その探検家の一団ってのも全員が一流の技術と経験を持ったメンバーで、厳重な装備を用意して旅立ったということだ。それでも一人を除いて全滅した」
これはテンセイの知らなかったことだが、唯一生還できたメンバーは、次のようなウシャス政府へ報告を残していた。
――あの島には魔物がいる。
我々はあらゆる悪天候を経験し、それを乗り越えてきた。一瞬にして船を転覆させる荒波も、心臓の奥まで凍りつくようなブリザードも経験したし、摂氏50度を超える灼熱の砂漠を一か月旅したこともある。それでも全て乗り越えてきた。その度に知識や技術はみがかれ、メンバーの絆を深まっていった。
……なのに、それなのに、あの島を越えることは出来なかった。確かにあそこの海は荒れていたが、我々はそれ以上に激しい時化を何度も乗り越えてきたんだ。対策は完璧だった。そして誰一人として油断なんてしていなかった! それでも気がつけば、船とメンバーが受けた被害は尋常でないものだった。島へ到達した時点で、すでに四人のメンバーが死亡、あるいは波にさらわれて行方不明になっていた。
雨が弱まった時を見計らって、まず一人が崖を登り始めた。彼はロック・クライミングの天才だった。崖の半分も登った頃だろうか、突然彼の体が崖から離れたのは。全くわけがわからなかった。雨と風が戻ってきたのは次の瞬間だった。そう、落ちた「次の」瞬間だ! 彼が落ちた時にはまだ風は吹いていなかったのだ! それなのに彼は落ちた! 命綱のロープもろとも、我々の目の前で、ああ……ああ! ネットで救助しようとした時、その時に風が吹いて……吹いて、みんなが、波が……ああ!
その男は泣きながら激しく取り乱し、まともに報告出来る状態ではなくなった。
「単純な悪天候や地形だけではない……。なにか、なにか違う理由が、彼らを全滅させたのだ」
「ああ、そうだろうな。あそこは普通じゃあない」
「テンセイ君、まだ大事な疑問が残っている。なぜ君はそこを目指すのだ? Dr・サナギの行動を阻止するとか言っていたが……もっと具体的に説明してくれ」
レンの要求は至極真っ当なものだ。だが、テンセイはすぐには答えなかった。視線をレンに向けたまましばらく口を閉ざし、会話に間をおいた。
やがて低い声で発言する。
「Dr・サナギは、近いうちにサイシャを訪れる。きっと……いや、必ず、サイシャへ向かうはずだ。サナギにはその手段があるからな。オレはサナギよりも早くそこへ向かい、ヤツの行動を阻止しなければならない」
「だから、そのサナギの行動とは何なのだと聞いているんだ」
レンが言葉を荒くした。
「回りくどい言い方は君らしくないぞ。スパッと大事なところだけ言ってくれ」
「……わかった」
そしてテンセイは”スパッと”言い切った。
「『教えられない』。詳しいことは、まだ言いたくない」
「……」
やれやれ、とレンは頭をかいた。テンセイは判断に迷って問題を先送りにしたり、いたずらに人を惑わせることを好んだりするような性格ではない。この男が嫌だと言ったら本当に嫌なのだ。
「ふー、困ったな。だが……『まだ』言いたくない、と言ったな? つまりしかるべき時期が来れば教えてくれるということだろう」
レンは立ちあがった。今の時期では、これ以上話を聞き出すことは出来ないと判断したのだ。
「隊長にはオレが報告しておく。君達は食事がすんだら部屋に戻れ。今日はもう休むんだ」
「ああ、ありがとな、先輩」
ちなみに、これはレンも忘れていたことだが――。生還した探検家の男は、報告を終えた三日後に死亡した。死因は精神の疲労による神経衰弱と診断された。まだ三十路前だった男の髪は、老人のように白く干からびていたという。