第68話・一日の始まり
部下に修繕の指示を出し、サナギは第四実験室へ戻った。予想通り、実験室内には多量の砂があふれかえっており、機械の大部分を埋めていた。ベールの開けた穴から砂が侵入してきたのだ。
――やれやれ、夜になったら砂を掻きださなくては。サナギがそう考えていた時であった。
「なぜ、あのウシャス人を逃がした?」
声が聞こえた。まるで、地獄の底に流れる溶岩を練り固めたかのような、重く黒い声がサナギの背後から聞こえてきた。サナギは全く気配を感じられなかった。声をかけられて初めてその人物の来訪に気づいた。
「クケ、クケ。これはこれは、いつの間に……。さすがですな」
「あいさつも世辞もいらない。答えろ。なぜ奴らを逃がした」
黒い声の持ち主は、壁に背をもたれたまま言葉を続ける。
「それともう一つ。なぜあの少女を早く研究して私によこさなかった。そうすれば今頃は全てが片付いていたというのに」
「ク……。奴らを、を、逃がしたのは、正直に言って、捕まえる余裕がなかったから、から、でございます。ノームとかいう若者はともかく、ともかく、不死身のテンセイを捕えるには、には、準備が足りませんでした」
サナギが頭を低くしている。サダム王に対してでさえ同等の口利きをする悪魔の科学者が、この人物にだけは態度を改めている。
「まさか、まさか、あの男がフェニックスの恩恵を受けて、けているなどとは思っても……」
「……フン。それはもうよい。もう一つの質問に答えろ」
サナギの、シワだらけの額に汗が流れた。恐怖というほどではないが、緊張している。
「け、研究を始める前に、に、じっくりと観察期間をおくことが、が、私のやり方でして」
「……つまり、お前は私の都合よりも己の手法を優先したというわけだな」
「ひっ」
思わず背中を震わせた。「そいつ」が壁から離れ、サナギにゆっくりと近づいてくる。
「私に忠誠を誓っておきながら……己を優先したのだろう」
「そいつ」の声は深淵のように深く、静かだ。一寸先も見えない奈落の底が近づき、右手をサナギの目の高さまであげた。
「ひっ、ひっ……わ、私は、は、は、このやり方で、で、今まで成功を収めてきました、した。確実に、に、研究や実験を成功させるには、には、入念な観察と、と、調査が必要で……」
「フフ……」
いつも以上にサナギの言葉が乱れている。「そいつ」は、この言葉を聞きながら楽しげに微笑んで見せた。「そいつ」の手がサナギの頬に触れる。
「あ、あ、あ、貴方様の、ために、ために、より厳重にと、思い、思いまして……」
「もうよい。サナギ」
ピアニストのように細く長い指が、サナギのシワをなぞる。決して攻撃的な動作ではないが、緊張を恐怖へと昇格させるには十分であった。
「そんなに恐れるな……。落ちつけよ」
自分の方から恐怖を与えておいて、「そいつ」は笑みを浮かべたままちっぽけな科学者を弄ぶ。サナギが悪魔のような男なら、「そいつ」は魔王だ。
「私は、お前のそんなところを気に入っている。目的のためならば決して妥協しない。……そんな、お前の高いプライドと信念を気に入っている」
「は、はィい……」
「フフフ。わかった。許そう。どの道大した問題ではない。奴らは、またすぐにでも我々の手中に落ちる。何も問題はないのだぞ……フフ」
朝日が昇り、夜間で冷えた砂漠を急激に熱している。焼けるほどに暑い、ゼブの一日が始まった。朝日の放つ熱射は、ゼブのフォビア城一階、大広間の窓から光として差し込んでいた。
広間の中央には十数人がかけられるテーブルがあり、それに載せられた純白のクロスや銀の食器が、朝日を受けてキラキラと輝いている。大皿には高水準の料理が手つかずのまま置かれ、テーブルの周りを、礼服を着た給仕が上等な紅茶を各人に注いで回っている。席に着いている人間は五人。
「つい先ほどです。Dr・サナギからそう通信がございました」
そう言ったのは、ゼブの五将軍が一人・赤髪のアドニスである。
「確かか? ……にわかには信じられねぇな。アクタインが弟子に殺害されたなんてよ」
アドニスの右隣の男が言った。この男、髪も整えておらず、羽織っている青い上着もヨレヨレで安っぽい。どう見ても王城の清楚な場には似つかわしくない格好だ。
「オレァ何度か、アクタインの弟子に会ったことがある。腕は良さそうだったが、アクタインを越えるにゃあまだまだ未熟者って印象だ。その情報、本当にあってンのか?」
「私に言われても仕方ありませんよ、ヒアク。私はただ通信を読み上げただけですから」
アドニスにそう言われると、ヒアクは、わかってるよとばかりに視線を背けた。
「しかし、事実である可能性は高いな。現にこの場へアクタインがいないのだから。あの男が時間に遅れることは一度たりともなかった」
次に口を開いたのは、ヒアクの向かい側に座る男だ。ヒアクとは対照的な風貌だ。黒髪をキッチリと固め、鼻の下にある髭も形が良い。軍人というよりも紳士といったところだ。この男の名はナキル。
ヒアクとナキル。この二人もまた、アクタインやアドニスと肩を並べる『将軍』であった。
「ああ、それともう一つサナギからの連絡です。先日より牢から姿を消していたウシャス人の少女ですが、サナギの研究所にて保護しているとのことでした。連絡が遅れたことをお詫びする、とのことです」
「ほほう! やはりそうであったか」
威勢のいい声が広間に響いた。声の主は、このフォビア城、そしてゼブの主――王・サダムであった。
「サナギのヤツ、相当楽しみにしておったからのう。待ちきれなくなったか、ハハ! 詫びはいらん、これからも『紋』の研究に精進せよ、と伝えておけ」
「はっ」
「さて、これでぬしを尋問にかける必要がなくなったな」
このサダムの言葉は、アドニスに向けられたものでも、ヒアクやナキルに向けられたものでもない。三人の将軍や王とはやや離れた位置に座る、一人の男に向けられていた。
「……そのようですね」
五将軍・最後の一人……ではない。ウシャスの幹部。ヤコウである。
「ぬしをこの国へ置いておく必要もなくなったわ。今日か明日にでもウシャスへ帰してやろう」
そしてサダムは、さぁ、朝食が冷めぬうちに食ってしまおうか。と付け加えた。




