第56話・向かうべき道
――例えば、ここに一本の裁縫針があったとしよう。ある母親がその裁縫針を使い、自分の子どもに服をつくった。別に珍しくもないし特別なところはどこにもない。ごく平凡な、あるいは温かく平和とも言える光景。
だが、裁縫が終わり、道具を片づける時。母親がうっかり誤って針を座布団の上に落とし、それに気づかないまま立ち去ってしまった。あくまでも「うっかり」と。そしてさらに、女性の子ども(ようやく這い歩きが出来るようになったばかりに幼児)が、母親の見ていない間にその座布団へ這いあがってしまったとしたら? 運が悪ければ、幼い赤子の肌に深々と針が突き刺さる。すぐに母親がかけつけ、針を抜いて手当て出来たならまだいいだろう。しかし、たまたま近くに母親がいなかった、あるいは針の刺さった場所が目やのどだったとしたら――最悪、死に至ることさえある。
このような「事件」は、大抵の場合は母親に全ての責任があるとされる。だが、母親には子どもを傷つけるつもりなど全くない。凶器となった裁縫針も、人を刺すための道具ではない。赤子に自分で自分を傷つけるつもりなど全くなかったことは言うまでもない。
生命を傷つけるのに殺意や敵意は必要ない。刃物があり、それに触れるだけで命は削り取られるのだ。人体はいともたやすく破壊されるもの。
「あっ……あぁ?」
バランがこの声を発したのは、樹刀解放とともに猛攻を始めてからわずか二秒後のことであった。いかに相手が師匠であろうと、樹刀との同時攻撃ならそう簡単には反撃できないだろう。いくら何でも、全く太刀打ちが出来ないはずがない。そんなはずが――。
「うああああぁああッ!」
悲鳴を上げる。ひたすら攻撃をすると決めたばかりなのに、手が休んでいる。まさに文字通り、手が、バランの肩から先の右腕が、握っていた樹刀ごと地面に横たわって休んでいる。突然の喪失感が駆け巡る。体の左半身がやけに重い。右側の重りがなくなったからだ。
「ひぃっ……ああ」
血が止まらない。興奮した血液が何の遠慮もなく肩から噴きこぼれていく。血が落ちるのに比例してマヒしていた痛覚が襲ってくる。嫌でも自覚せざるを得ない。己の右腕が斬り落とされたことを。体が左に傾き、思わずひざをついた。
(何故!? なんでオレの方が、斬られて……)
「いずれ教えようと思っていたが、ちょうどいい機会になったな」
アクタインは刀についた血を拭いつつ、バランに語りかける。まさに、教師が学生へ講義するかのように。
「バランよ。お前は何の目的で研究所へ行くのだ?」
抑揚のない静かな声。
「答えろ」
「……それはっ、あの女の子が、オレのせいでさらわれたから……」
「あの少女を救い出さなければ、ウシャスの人間共に連れて行ってもらえないからだろう。お前はただ、ウシャスへ逃げることが出来ればそれでいいのだろう」
そうかもしれない。もしも、テンセイがコサメを助けずにゼブから逃げようとしたなら、バランは決して逆らわず一緒に逃げるだろう。バランとコサメの間の交流はほとんどない。
さらにアクタインは言う。
「自動車、というヤツはなかなか便利だな。砂漠の横断も馬やラクダに乗るよりずっと楽になった。だが、いくら性能が良く、運転者の技術が確かだったとしても、だ。進むべき方向が間違っていれば目的地へは辿りつけない。そうだろう」
「……」
アクタインの意図がわからぬまま、バランは聞いている。すぐに止血せねばならない状況であるにも関わらず。言葉を聞かずにはいられなかった。
「どこへ向かえば良いのか、目的地はどこなのか、それを把握しておかなかれば性能も技術も無用の長物となる。……わかるか? バラン。今のお前がまさにその状況なのだ」
「えっ」
「お前は一族の汚名から逃れるために剣の道を選んだ」
「汚名」という単語がずんと圧しかかった。
「お前の剣技は、人に侮辱されたくないがために身につけたものだ。自分は実力がある。強いのだ、と人に誇示したいがためだけに」
心までもがえぐられる。人には知られたくなかった、自分でも認めたくなかった真実を、最も尊敬する師匠自身によって暴露されている。
「結論を言おう。お前には向かうべき目的というものがない。剣を学び始めたのも、研究所へ行くのも、全ては逃げるための行動だ。ただ逃げるだけで最終的な目的が何一つ定まっていない。逃げることと目的を混同して無闇に走り回っているだけなのだ」
圧が重い。一言ごとに二倍、三倍にも重くなっていく。
アクタインが一歩前に出る。刀を正眼に構え、バランを見据えている。
「向かうべきところを知らぬ剣など見切るのはたやすい! 真に勝利へ向かわぬ心では、『紋』を使おうと決して勝てはせぬ!」
別れを告げるように語気を強め、刀を振り上げる。
バランは目を伏して動かなくなった。
思い出したように風が吹き、木々の葉を揺らす。一枚の葉が枝から離れ、風に乗って滑空する。葉がアクタインの真正面に来た瞬間――。
「はッ!」
渾身の一振りが走った。葉が中央から真っ二つに切断され、その奥にあったバランの肉体も……。いや、バランがいない。アクタインが刀を振り下ろすと同時に、その場から消えていた。
「ぬぅ!?」
アクタインが左に気配を感じて刀を引き戻すと、その顔面へ向けて刃が迫ってきていた。瞬時に呼吸を読み、静かに受ける。そして二、三メートルほど後方へ退いた。
攻撃したのはバランだ。だが、その姿が異形のものとなっている。左半身には異常はない。右半身。つい先ほど斬り落とされた右腕の部分に何かがくっついている。
「師匠……改めて謝ります。本当に申し訳ありません。こんな姿になって……」
斬られた右腕は砂の上に転がっている。だが、その手に握られていた樹刀がない。樹刀はバランの右腕となっていた。樹刀から生えた根がバランの右肩につながり、新たな腕となって一体化している。
「でも、オレはどうしても貴方を超えたい。オレ、たった今そう決めたんです」
すっかり痩せ衰えた顔でバランは宣言する。その目は静かに輝いてすらいた。