第34話・緑の縛り手
”少年”という生き物は、ほとんど例外なく、ある時期から自分の父親に対して反発感を抱くようになる。その最も大きな原因は、父親のことを”最愛の存在である母親を自分から奪ってしまう存在”であることに気付くことだ。
ノームの父親は、今では港町と王都を往復する貨物船の船長を務めているが、かつては遠く離れた離島へ片道数か月かけて旅する船に乗っていた。一年のほとんどは家におらず、幼い一人息子、ノームと顔を合わせることはほとんどなかった。
ノーム少年にとって、そのことは決して苦痛ではなかった。母親と二人きりの生活で、その愛情をうんと味わえたからだ。むしろ苦痛となったのは、父親が家に帰ってきている期間である。いつもは自分につきっきりの母が、武骨な男の相手に追われている。母にしてみれば、長い旅を終えて帰って来た夫をねぎらいたいだけなのだが、それまで母の愛を独り占めしてきた少年はそれがたまらなく嫌だった。
『なんであんなヤツがうちにいるんだろう』
しかし、子どもの心というものは複雑だ。
父への憎しみを募らせる一方で、逆に”父には敵わない”という想いも胸に刻まれていく。腕っ節、人生経験、器量、すべてが自分を上回っている。親に守られることしか出来ない子どもは、家族を守ることの出来る父親に対して憧れを持つようにもなる。憎むと同時に憧れる。その嫉妬心がやがて反抗へとつながる。思春期を迎え、親離れをするとき、その心の中には、父を超えたいという願いがある。父よりももっと強く、大きな存在になりたがる。少なくともノームはそうだった。
ノームは宣言した。
『軍に入る。こんな寂れた港町じゃあなくて、もっと広い世界で活躍してやる』
『バカを言うな。いくらお前が『紋付き』でもそう簡単なことじゃあない。今でこそこの国は平静だが……いつ西のゼブ国と大戦が起こるかわからない状況だ』
軍入りを真っ先に反対したのは、自身もかつては軍入りを夢見ていた父だ。だからこそノームは意固地になった。
『戦争が起こるんならよォー、それこそ軍の力が必要じゃねーか。オレは必ず役に立つ』
そして今ノームは軍にいる。ゼブの刺客と対峙し、己の力を役立てようとしている。
カラン、とナイフが床に落ちる。刃は血に濡れていた。その上に、さらに血の滴が垂れる。
「は……?」
バランは自分の頬に手をあてる。指先がぬるりと生温かい液体に濡れ、鉄のにおいが鼻をついた。
「何さ、コレ」
ノームの手から離れたナイフは、バランの左頬へ刺さって落ちたのだ。子どものように柔らかく艶のある頬がバックリと裂け、まるでもう一つ口が出来たかのようだ。
予備動作のない、本人すら自覚していない奇襲だったため、バランは防げなかった。
「うわあああッ!? いっ、いぃ……!」
叫び声が傷口からも漏れる。さっきまで余裕に満ちていた目は憤怒に燃え、全身の筋肉が硬く緊張する。その隙をノームは見逃さない。
(前へ――ッ!)
レンの教えに従い、一気に間合いを詰める。左手に残されていたもう一本のナイフを固く握りしめ、殴りつけるように突き出した。
空振り。血飛沫をまき散らしながら後方へ飛び退くバランへ、ノームはさらに追い打ちをかける。冷静さを取り戻す時間は与えない。徹底的に攻める。
と、バランの足が何かを踏んだ。柔らかいような、固いような、奇妙な感触だ。それが倒れている軍人の体だと気づく前に、バランの態勢が大きく崩れた。廊下のあちこちに転がっているこの障害物のことを失念してしまっていたのだ。
(しまッ……)
「オおおッ!」
つまづいて倒れかかるバランへ、刃が振り下ろされる。
バランの目に、迫りくるナイフの軌道がスローモーションのように映った。ただし、自分の体もゆっくりとしか動けない。死を目前にした人間が体験する、時間感覚の異常が起こったらしい。細いながらも筋肉のついた腕、そしてその先に握られている銀の刃が、徐々に大きくなる。磨かれた刃に反射して映る廊下の壁すらハッキリと見える。
(ヤバ……)
命の終わりってのは、こんなものか。そんな考えが脳裏をよぎった。ただし走馬灯は見えない。
ふいに、視界を緑色の物体が覆った。緑の物体は迫りくるナイフに絡み、その動きを止めた。
「あ、ああ……?」
ノームが苛立った声をあげる。完全に勝利を確定していた流れが、奇妙な物体によって阻まれている。ナイフに絡みついているのは、植物のツルであった。幾本ものツルがナイフと手を縛っていた。
「仕方ない、な……」
ポツリ、バランがつぶやく。
突如現れた植物。それは、刀の柄から伸びていた。バランが握っている刀の柄に施されていた金と赤の糸が解け、そこからツルが生えている。
「これは……何だ!? こんなのは見たことねぇぞ!」
ノームが叫ぶ。気づいてしまったのだ。ツルが生え出しているその根本に、紅く輝く『紋』が刻まれていることを。
「Dr・サナギの最新技術。知ってる? 『紋』を持つのは人間だけじゃあないんだよ。『紋付き』の植物だって発見されてるんだ」
バランの口調に余裕が戻った。目は笑っていないが、血にまみれた口から白い歯をのぞかせている。
「この剣の柄はその植物で作られてるのさ。ま、詳しい理屈は全然知らねぇけど……。とにかく、この剣は生きている。そしてオレはコイツを完全に使いこなせる。相性はバッチシさ」
「ぐ……うぅ」
ツルの締め上げる力は想像以上に強い。ノームの手の皮膚が破け、血がにじみ始めた。しかし、問題は痛みではない。バランがゆっくりと立ち上がり、刀を構えた。ノームの左手は封じられ、右手にはナイフがない。
「使いたくなかった。これだけは使いたくなかったんだよ、オレは。いくらなんでも抵抗できない相手を斬るなんてのは気が惹けるからね。それに師匠からも止められてる。あくまでも己の剣術だけで勝負したかった」
言葉はノームに向けられておらず、自分自身に言い聞かせているようだ。
刀が、高く掲げられた。