第268話・チェックアウト
さぁ、チェック・アウトの時がやってきた! 甘くて楽しくて、優しい夢を見るのはもう終わり。これからは自分で進まなければならない。どこに向かうのか。何を為すのか。心の中にある一番強い気持ちに従って進むのだ。辛いかもしれない。苦しいかもしれない。だが、それが本当の世界なのだ。苦しみのない世界なんて存在しない。苦しいからこそ……生物は幸せを見つけられるんだ。
「Dr・サナミ! 船を動かしてください! 今すぐゼブの方へ、全速で!」
「ひぃっ!」
ラクラの指示は適切で、素早かった。ラクラはずっと前から、サナミが隠れて戦いの様子を見守っていることに気付いていた。声には力強い張りがあり、戸惑う者を導くのに相応しいものだった。
「ユタ、お願いします。ホテルの魂が解放される前にッ!」
「うん!」
風が巻き起こる。少女の意思の元に生み出された気流は甲板上に舞い降り、朽ちたルクファールの肉体を巻き込んで持ち上げた。その胸の上には墓標のようにホテルがそびえている。ホテルの扉は閉まっておらず、半ば開いたままだ。
「ホテルの束縛力がなくなったため集められていた魂が全て解放されます! 急いで避難しなければ、魂が新たな宿主を求めてやって来ます!」
「ひぃ、ひぃ、そりゃ大変だ、だ! あの恐ろしさはよぉく知っておる、おる! クケェェェ軍人ども! 早く船を動かさん、さんかぁ! さっさとゼブに戻るんだよ!」
ルクファールの死体がホテルごと風に巻き上げられ、波飛沫弾ける海の上へ運ばれる。合わせてサナミの剣幕に押された船が進路を変更し始める。旋回する船の軌道を避け、風はルクファールを波の表面に下ろした。かつては神にまで手を届かせた者に、白い飛沫がかかる。大いなる海は魔王の亡骸を優しく抱きとめ、少女の風から引き取った。不思議なことに、死体は波間に流されず、そのままゆっくりと底へと落ちて行った。それは数々の凄惨な悲劇を起こした魔王の最期とは思えない、実に静かな消滅であった。
「我々も行きましょう。テンセイさんたちが気になります」
船が進路をゼブへ向けたことを見届け、ラクラはユタにそう促した。キツネを旋回させてゼブへ向かおうとし、何気なく海を見下ろしたユタが声をあげた。
「見て! 海が光ってる!」
ユタが指で示したのは、ルクファールの死体が沈んだ海面であった。太陽の反射とは違う、異質な光が海の底から湧きあがってきていた。光は一つだけでなく、いくつもの小さな光が集まっているようだ。
「魂が浮かび上がって来てるんだ。でも……何か今までと違う」
ルクファールの死によってホテルは消滅し、封じられた魂が次々と解放されて海面に上がってくる。一つ一つは陽光よりも遥かに淡いが、無数の魂が絡みあって幻想的な輝きを放っている。光の塊は海面すれすれに到達し、そこで水泡のようにぷくりと膨れた。そして、弾ける。集約されていた魂が分裂し、各々の意思と本能に基づいて旅立ちを始めたのだ。行くあてもなくその場に留まる者、無作為に動き回る者、そして、ラクラたちの方へ向かってくる者。
「ねぇ、あの魂たち……」
「何か、以前に見たものとは様相が違いますね。あの時のような負の力を感じません」
幽鬼を思わせるような妖しい光は、生命の元素を思わせる暖かな光に変わっていた。その光を見た時から、ラクラとユタは魂から逃げようとしなくなった。死者の魂の恐ろしさを知っているにも関わらず、戻りゆく船を尻目に、向かってくる魂を見つめていた。恐ろしさを知っているからこそ魂の異変に気づいたのかもしれない。
「何だか懐かしい感じがする。ねぇ、もしかして……」
「そのようですね」
いくつかの魂が、ラクラとユタを取り囲んだ。魂の外見はどれも等しいが、二人には心の感覚でその正体を見抜いていた。
『よくやってくれたな、ラクラ』
「いいえ。私は……私のやったことは、ただ最後の一押しに過ぎなかったのですよ。ヤコウ」
『それでも君はよくやってくれた。……ラクラ。私が君に対して、”すまない”と謝るのは卑怯なことだろうか』
「……」
『だったら代わりに、これだけは言わせてくれないか。……君とともに過ごした日々は楽しかった。君にはこれから、ずっと幸せな道を歩んでほしい。それが、私の最後の祈りだ』
「……ありがとう。ありがとう、ヤコウ」
『ほら、彼がやってきた』
ラクラが振り返ると、その先に黒翼の悪魔が見えた。悪魔は迷いなく船に向ってくるが、その両腕に捕まっているテンセイやノームたちは驚いた顔をしている。船が引き返してくることに驚いたのだろうが、その近くにラクラとユタがいることに気付いて二重に衝撃を受けている。
『もう私に為すことはないな。後は運命に従うとしようか。死した者の宿命に』
『おっと、ヤコウ様……じゃなくてヤコウ。消えちまう前に、オレ達には大事な仕事が残ってるでしょう。迷ってる魂たちを導かなきゃ』
「魂を導く、ですか。貴方ならやり遂げられるでしょう」
『なんてったって”新人教育”ですからね。ま、中には年上の魂もいるでしょうけど。……ヤコウに会って、自分の感情全部ぶつけて、謝って……。色々スッキリしたんで、これからはちゃんと仕事に集中できますよ。アイツらのことは、隊長に任せます』
ええ、と頷いてラクラは笑った。普段の上品に落ち着いた笑みとは違う、子どものような笑顔だった。
魂たちはなおも語りかける。
『ユタも頑張ったね。私もうれしいわ』
「ありがと、エルナ。あのねみんな。あたし、これからも頑張るよ。本当はみんなに会いたくて仕方がなかったけど、あたしはみんなが好きだから……みんなの分まで、一生懸命生きることにしたよ」
『そうだユタ。それでいい。戦いはまだ終わっていないしな。まだまだ油断は禁物だ』
『無粋なこと言うなよ、リク。後はアイツらに任せておけば大丈夫だろ。……けど、まぁ。まだ泣いたりするなよ、ユタ』
「うんっ!」
少女は鼻をこすり、力強く笑って見せた。言葉を発さない二つの魂も、かすかに微笑んでいるようであった。
ベールが徐々に近づいてくる。そちらの方にも、幾つかの魂が向かっていた。