第267話・わ た し
「アイツ、まだ立ち上がるよ。まさか、あれでも死なないんじゃ……」
ユタがそう言って指差さずとも、ラクラの意識はルクファールに集中していた。魔王の肉体からは膨大な生命力が流出している。一時は無限にあった力も、すでに底のある器だ。この戦艦に軍医や医務室に値するものが存在する可能性はあるが、果たしてルクファールがそれを頼るだろうか。
「私は……全てを乗り越えたんだ。……私は、私の手で、私の未来を切り開いたんだ。お前たちとは違う」
生と死がせめぎ合っている。押し寄せる現実の死に、魔王の意地が生を持って抵抗している。時に死へ傾いたかと思えば、すぐに強大な生が押し寄せる。
魂を集めるホテル。その能力はフェニックスが故意に与えた能力である。ルクファールの憎悪を増大させ、ヒトの世に終焉をもたらすための力。ヒトの身で神に匹敵する能力を有するには、魂の重みに耐える試練を超えなければならない。だが、重みに耐えずとも魂を乗り越えた男がいた。
ルクファールには何一つ理解できない。貫かれた胸が焼けるように熱い。体内に無数の蛆が潜りこんで暴れ回っているかのようだ。何もわからない。立ち上がれ。動け。反逆者を抹殺しろ。理屈も理由も、過去も未来も、正義や悪の概念さえも、今この時には必要ない。立ち上がって罪人に罰を下すのだ。
(うるさい……黙れ。誰だ、この私に指図するのは。誰に何を言われなくても、私には始めから全てがわかっているんだ。世界の行く末も、私の未来も……!)
何だというのだ。
(全ては私の栄光の下に跪く! 何もかもが、、私という夢に溺れて……)
哀れだ。私よ。私の語る”私”とは誰のことなんだ。そのちっぽけな脳みそが、この星の全てを背負えるとでも思っているのか。……たった一人の人間が。
(私は……)
乗り越えた、か。私は乗り越えた。私は特別な存在だ。他者の魂がいくら束になろうと、ただ一つのヒトの魂でそれを支配できる。私こそが至上の存在なのだ。……実に下らない。下らないな、私よ。
(お前は……)
立ち上がるかのように見えたが、すぐに膝をつく。だがまだ観念はしない。諦めが悪いと評するのが正しいか。自分の定めた道を最後まで貫こうとするその気概は実に素晴らしい。だがそれが本当に自分で定めた道なのかもわかっていない。ルクファール・サイドよ。私よ。私は所詮ヒトなのだ。弾丸で胸を撃ち抜かれれば、血を流して死ぬ。今まで私が踏みつぶしてきた数多のヒトと何も変わりはしない。魂を乗り越えたなど、私の見た夢に過ぎない。
(私の夢、だと)
私は支配者だ。すべての生命に等しく夢を与える選ばれた生物だ。随分と壮大で矮小な夢だが、それも信じれば事実になる。それは私がよく知っていることだろう? 信じていたからこそここまで歩いてくることが出来た。それはほんの少し揺らいだだけで崩れてしまう、砂上の砦に等しいものだった。
(私がいつ揺らいだ!)
私は実によく頑張った。何度窮地に立たされようと、自身の勝利を信じて必ず立ち上がってきた。実の弟に否定された時も、テンセイに打ちのめされた時も、フェニックスに傀儡だと告げられた時も! だがとうとう私にも限界が訪れたようだ。これまで散々見下してきた、しかも一度は完全に蹂躙した女に心を見透かされた瞬間、私はついに敗北した。ずっと以前から張っていた虚勢が破られた。
(何が虚勢だ。私はいつだって真の支配者だ。誰にも私の模倣など出来ないし、誰にも覆せはしない)
そのプライドの高さが首を絞めたな。壁は高く築けば築くほど、かえって崩壊した時の被害が大きいものだ。
(……黙れ)
私は私が存在する限り消えることはない。
(私の名を語るな。……わかったぞ。お前の正体は……)
お前、などと呼ぶのはやめろ。私を私としたのは誰だ? 私だろう。
(カスどもの魂が。この私を逆に乗っ取ったつもりか?)
乗っ取る? それは違うだろう。私よ。かつては無数の姿形異なる生物であった私を一つに束ね、ルクファール・サイドとしたのは私だ。
(知った風な口を叩くな! お前たちは私の力を支える一部であればよいのだ! 私の思念に語りかけるな!)
私よ。そう邪険になるな。私は私といつでも共にいただろう。感覚も、感情も、見聞の一つ一つだって共有していた。だから私にはわかるのだ。私が敗北したことを。私を取り込んだからこそルクファール・サイドという生物は力を手に入れ、覇者の道を歩むことが出来たのだ。それが乗り越えたということなのだ。
私は苦痛に歪む顔を空に向けた。虚ろな目に映った景色は、ラクラが銃口を向けていた。耳に破壊の音が届くより前に、光は私の眼球を貫いていた。もはや視界を奪われるなどという問題ではない。光は眼球の裏にある神経を破り、脳を破り、確実に致死点を貫いた。
(私は……)
さようなら。私であった生き物よ。意地の揺れた私に、私は繋ぎとめられない。私はまた旅立とう。この世界の未来を見届けるために。残されたヒトの結末を見守るために。
私はビッフという絵描きであった。私はスポーツ選手に憧れる青年だった。私はミュイという女性だった。私はゼブ軍の兵士であった。私は病に伏した平民だった。私は踏みつぶされた花だった。私はサイシャの長老であり、島民の一人一人であった。私は若き剣士だった。私は宰相グックだった。私は群れからはぐれてヒトの仲間になった獣だった。私はエルナだった。私はジェラートだった。私はダグラスだった。私はリークウェル・ガルファだった。私は欲深い女王だった。私は将軍アフディテだった。アクタインもナキルもヒアクもアドニスも、サダムもかつては私だった。しかし彼らはフェニックスに連れて行かれた。
そして……私はベールだった。私はホテルに集められ、新たな私――ルクファール・サイドとなった。ルクファールだったものも私になる。……いいや、もう私などと名乗る必要もない。もう私たちを縛るものはない。天に還ることも出来ない私たちは、ただ彷徨うだけだ。
ホテルの扉が開かれた。扉の外に見える景色はこれまでとは違い、輝かしい光に包まれた世界だった。