第228話・矛盾はどこに
ヤコウという男は、幼少の頃からあまり大声を出さない人間であった。無口ではないが、声を荒げたり、叫んだりすることのない男だった。割とよく通る声質なので量を出す必要がないということもあるが、そもそも静寂を好む性格なのだ。さすがに戦場では、部下の士気を高めるために声を張り上げることもある。だがラクラの知るヤコウは、おおよそ静かな男であった。
色の薄い唇が開き、その奥に整然と並んだ白い歯が見える。ヤコウの肉体のうちで、拙く開かれたこの口と、飢えに輝く双眸だけがかつての彼と違っていた。開いた口から蛮声が轟くよりも前に、白い銃口がその穴を塞いだ。その侵入を防ごうとして間に合わなかった上下の歯が、銃口を強く噛んだ。
「ほう」
魔王が感嘆の息をもらす。
光が、ヤコウの後頭部を破って飛びだした。狂気に染まった目の、白と黒が反転した。だがあまりの速さと鋭さに痛みを感じることすら出来なかったのか、ヤコウは次の一撃を止めなかった。自身の血で紅くなった拳が弧を描き、力の限りを尽くした打撃がラクラを襲う。だが拳はラクラの髪をかすめ、金の細い髪に鮮血を散らすだけの結果しか残せなかった。拳の空振りと交差して、もう一つの銃が裸の胸に押し付けられる。左胸、激しい運動のせいで高鳴る心臓の鼓動がはっきりと伝わるその場所に、二発目の弾丸が撃ち込まれた。
「ッカぁオ……ッ!」
銃から歯を離した口から、唾液とともに奇声がほとばしった。ヤコウの体が弾き飛ばされる寸前、顔面の中央、鼻の頭へ三発目がめり込む。ルクファールの言葉に嘘はなかった。脳と心臓を貫かれた男は冷たい土の上に倒れ、しばらくの間激しく痙攣した後、力尽きて息絶えた。おびただしい血液が暗い土へ浸みこんでいく。
「いやはや、この程度の試練は生温かったか? やはりヤコウごときではお前を仕留めるには力不足だったか?」
舞台を見届けた魔王が、拍手の代わりにねじ曲がった賞賛を送ってくる。
ラクラはそちらを見上げず、またヤコウの死体にも目をやらず、うつむいて荒い呼吸を整えようとしていた。的確に攻撃をしのいだため、傷は負っていない。髪と頬に点々とついた血はヤコウのもので、ラクラは血を流していない。だがその眼は勝者の目ではない。ラクラの呪縛が解けたのはほんの一瞬だけだ。もしもヤコウが再び立ち上がろうものなら、これ以上ラクラに戦う気力はない。
呪縛が解けた要因は、ルクファールの迂闊な一言だ。レンも最後には乗り越えた、という一言がラクラの魂に火を灯した。テンセイの話によれば、レンはテンセイとの戦いにおいて、持てる力を最大にまで引き出せていたという。敵に心を渡したとはいえ、彼もまた乗り越えた男だったのだ。そのレンの命を奪ったのは、他でもないラクラ自身だ。
(私も……越えなくては……! 壁を迂回することは許されない。越えて初めて、未来への道が開かれる……!)
ルクファールがそのことを思い出させなければ、ラクラは徐々に追い詰められて無残な敗北を遂げていたかもしれない。だがそのことを魔王に告げるような愚行をラクラは犯さない。この男の怒りを煽ることだけは避けなくてはならないのだ。
「お見事、ラクラ。ほんの少しの間だったが楽しませてもらったよ。さぁて、それじゃあ見物料を払ってやるか。この私が、直々にその美しい首をへし折ってやろう」
大気がざわめき、魔王が地へ降り立った。咄嗟にラクラは銃を構える。壁を一つ越えれば、憔悴からの回復は早い。
(まだ、まだ、諦めない。絶対にこの男に屈してはならない。最後まで足掻いてみせることが、私の誇り……!)
ルクファールの言葉や表情には余裕があった。ラクラがヤコウを打ち倒すこともある程度は予測していたのだろう。殺気すら放っていない。人が蟻を潰すのと同じで、わざわざ殺意を持つ必要もないということか。
「その体に入っていた魂は、すでに我がホテルに戻っているよ。夢は叶えられなかったとはいえ、一時的に肉体を得て暴れることが出来たからな。すぐさま別の生物に憑依する程強力な未練は残っていない。またホテルの中で甘い夢を見続けてもらわなければならない」
禍々しいホテル。ルクファールが一度も嘘をついていないとしたら、そもそもの元凶はこのホテルだろう。いかなる力を持ってしても破壊できず、そして他者の魂を吸い寄せるという――それはまさに、神に匹敵するほどの――絶大な力を持つこの『紋』さえなければ、このような魔王は生まれなかったというのに。魂を集める力を有するが故にルクファールは異常な体力を身に付け、フェニックスの魂をも奪い取った。そして魂と生命の両方を操ることにより、残虐非道な行為を次々とたやすく実行している。
ラクラは考えた。なぜ、このような力がこの世に生れてしまったのかと。『紋』とは魂の結晶。一つの肉体に、主人格とは異なる別の魂が宿ることで発生する現象。サナギの説によればそうなっている。それは、ルクファールの能力によって故意に魂を憑依させた場合とは少し異なる。おそらくは憑依する魂の質による影響なのだろうか。それは人智を遥かに凌駕する領域の疑問で、ラクラには予想することしか出来ない。ただ一つどうしても腑に落ちないのは、”魂の結晶から生まれたホテルが、なぜ他の魂をも操れるのか”ということ。光や風を操ることとは格が違う。明らかに異質な能力だ。
(必ず……どこかに矛盾がある。この男を相手には、正攻法も小細工も通用しないでしょう。なにか、致命的な隙があるはず……!)
それ以上のことはラクラにはわからない。だが強いて言うなら、激昂しやすい点と油断しがちなことがルクファールの弱点だ。しかしこれは性格の問題であって能力上の欠点ではない。
魔王が近づく。ラクラは意識を集中し、攻撃を回避することに決めた。わざともったいぶるようにルクファールがゆっくりと歩を進めてくる。その顔に浮かんだ邪悪な笑みを完全に消し去る方法が果たして存在するのだろうか。
パキッと枝の折れる音が、ラクラの集中を削いだ。同時にルクファールの関心が移動したおかげで命は失わなかった。魔王にとって最大の障害となる男と少女が、そして従者のように付き添うノームが、ついに現れたのだ。