第225話・日の昇らない世界
人間は過去があるために未来へ進むことが出来る。だが過去は人を縛りもする。人がいかに否定しようとしても、過去は決して消えてなくなりはしない。容赦なく枷となってその身を縛る。情を捨てても過去は捨てられない。
「……もしもウシャスがゼブに下ることになれば、お前、ラクラはどうなるか。ヤコウはずっとそのことを考えていたようだ。平民から軍人へ成り上がったヤコウとは違い、お前は名のある家系の生まれらしいからな。女でありながら幹部というだけで何かと風当たりの強い立場だというのに、絶対的な敗北者の烙印を押しつけてしまうわけにはいかない、ということだ。本部を預かるお前の責任は非常に重いものになるだろうしな」
ヤコウは思慮深い。自分の行動がどのような結果をもたらすのか、可能な限り正確に予測している。
「このあたりの考え方が、ヤコウも所詮平民あがりの男にすぎないということを証明している。個人の名誉だの立場だの、些細なことを気にかけて手を止める。一部の人間だけを特別に考えることは幹部らしからぬ行為だと思わないか?」
「それは……」
「おっと、どんな気分だ? そこまで気にかけてもらえて嬉しいか? それとも同じ幹部として情けないか?」
どっちでもない。今のラクラが感じていることは、死者を侮辱するルクファールへの苛立ちだけだ。
「そんなわけで、奴は最後の最後でゼブへつくことを躊躇していた。だから能力を使わざるを得なくなったのだよ。私の魂を操る能力を……!」
ルクファールはホテルを出現させた。朝を迎えた森の大気の中にあっても、それは少しも明るさを感じさせなかった。きっとこのホテルに朝が訪れることは永遠にないのだろう。誰もが覚めることのない夢に溺れ、闇の中に空想を描き続ける。
「お前はどの程度私の能力を知っている? 大方、他者の魂を集めるということぐらいは理解しているだろう。いちいち詳しくは説明してやらないが、このホテルに出来ることはそれだけではない。長い修練の果てに、私は魂を集めるだけでなく追い出す術も身につけたのだ。夢見る魂を支配人の名のもとに追放し、彷徨わせる。それが何を意味するのかは、そこで震えてるユタを見ればわかるだろう」
そのユタは、もはや意識があるかないかすらも断定できない状態であった。地面に顔をつけ、だらしなく手足を放りだし、時折小刻みに震える他はいっさい身動きをしない。木の根元に伏したリークウェルと似たような状況だ。
生物が命を失えば、その体から魂が解放される。それらの魂の多くはそのまま天に昇るか、あるいは牧師や坊主の言によって送られる。未練を残す魂は多い――というより魂のほとんどは何かしらの未練や執着を持っているが、長く現世に留まり続けるほど強力な念を持つ魂は少ない。平凡な生き様をした魂はか弱く天命に流され、絢爛たる生を謳歌した魂はある程度達観しているが故にこれもまた自然のままに流される。
ルクファールのホテルは、そんな魂たちの未練を刺激する。現世での役目を終えて還ろうとする魂の袖を引き、ついには長く留めてさせてしまう。無限に溢れる夢の密に一度囚われた魂は、二度とそこを出ていくことが出来なくなる。そんな魂が突然ホテルの外に追い出されたならば。夢に浸った魂は、天へ昇るにはあまりに重くなりすぎている。還ることも出来ず、夢を見ることも出来ず、せめて仮の宿を求める。魂が宿るに相応しい器、生きた者の肉体へ。ホテルでの夢を味わったがために魂は他者へ宿ろうとするのだ。
「ヤコウも最初はユタと同じだったよ。あいにく男をいたぶる趣味はないので長くは観察しなかったがな。だがやはりヤコウは大した男だったよ。魂を取りつかせて一時間もした頃だったかな、一人分ぐらいの魂ならその身に背負って立ち上がることが出来るようになったのは。憔悴しきったその面に向けて、私は再度勧誘の言葉を投げかけた。そうしたら今度はあっさり従ってくれたよ。やはり私と同じ苦悩を味わった後は世界が変わって見えたのだろうな。あの時から彼は私に従順になった。お前のことを考えこそすれ、すぐに目を逸らすことも覚えた」
そう言ったルクファールがちらりとユタに視線をやったのは、仮にユタが魂を乗り越えた場合の変化を想像したためか。意地の悪い表情がそれを表わしている。
「あなたは……」
ラクラが静かに口を開いた。薄く紅を塗った唇が、小さく震えながら言葉を紡いでいく。
「あなたは何故、そこまで彼を知りえたのですか」
「……ほう」
「外面を観察するだけでは、彼の心は読めない。……それは誰よりも私が知っています。あなたが人の観察に慣れていようと、彼の本心を知り尽くすことは容易でないはず。まさか……」
「ああ、やはりお前が一番利口だ。なかなかキレイに回る頭を持っているな。そうだ。彼だけでない、レンもそうだよ。私は彼らの魂をも所有している。彼らの方から飛びこんできたのでな」
ラクラはホテルを見る。その中にヤコウの魂が存在している。そう思うと唇の震えが酷くなる。
「本来なら、私の能力が及ぶ範囲はある程度限られている。さすがにこの世界全ての場所から魂を吸い集めることは不可能。だが、生前から私を崇拝していた魂は距離に関係なくここを訪れるらしい。ヤコウが死んだ時に初めて知ったのだが、いやはや面白いことだ。ヤコウに続いてレンの魂までもが海を越えてやって来た時、笑いをこらえるのに苦労したよ」
「そこに、ヤコウが……」
「彼の過去、彼の夢。存分に楽しませてもらったよ。彼が君のことをどう思っているのか、じっくり教えてやろうか?」
「いいえ。それには及びません」
ラクラの目から、熱い涙が流れた。泣いてはいるが、表情は強い。強固な眼差しで魔王を見返している。
「良い表情だラクラ・トゥエム。その顔をヤコウに見せてやったらどんな反応をするかな。さて、話したいことは全て話した。次はどうやってお前に死んでもらうかを考えるべきだな。とは言ってもすでに決まっているか。……ヤコウと同じ世界をお前にも見せてやる。我ながら粋な計らいだな」
ホテルの扉が開き、魂が放たれた。