第218話・魔王の誕生
肉体に『紋』を刻まれて産まれる人間の数は、この世界で確認されている全人口のおよそ二割弱だと言われている。この数値はテンセイとコサメがウシャス領の農村で生活していた頃にDr.サナギが発表したものである。それよりも数十年ほど前の年になると『紋付き』の人数は減少する。これにはちゃんとした理由がある。
『紋』の存在が確認されてからおよそ七十年。つまり、『紋付き』の第一次世代が死亡して人数が減少し始めたのはそれよりも二、三十年ほど前となるのだ。その以前は『紋付き』の死亡数は少なく、また(これは現在も続いていることだが)毎年ごとに『紋付き』の子どもが誕生したため、全人口における『紋付き』の割合は増える一方であった。
魔王――ルクファール・サイドが産まれた当時、『紋付き』の人口は一割を越すか否か、という数値であった。十人に一人、と言えば数が多いように思えるが、実際に平凡な田舎町にも『紋付き』がゴロゴロいるのかと言うとそうでもない。当時はまだ『紋』を呪いの一種として忌み嫌う風習も根強く、周囲から隔離させることが多かったためだ。極端な例を挙げると、産まれたばかりの『紋付き』をその場ですぐに縊死させることすら平然と行われていたらしい。
そんな中で、没落貴族サイド家の長男ルクファールと次男ベールが立て続けに『紋』を持って産まれ、特別な処分や隔離を受けずに成長していったことは非常に稀な事だと言えよう。二人の父ロート・サイドはあまり高名ではないが考古学の研究者であったが、それ以上にファンタジーじみた神話や伝承などを愛好する人間であった。
『面白いではないか。得体のしれないものを不気味と忌み嫌う感覚が私にはわからない。未知なものだからこそ自分の手元に置いておきたい、と私は考える』
彼の名誉のために言っておくが、彼が息子を隔離しなかったことの理由はこれだけではない。当然ながら親としての愛情も強く影響していた。だが多少偏屈な性格であったことは否めない。没落したとはいえそれなりの財産を持ち、周囲への発言権もあったため、彼の教育方針に真っ向から反発する者は少なかった。
しかし、特別な処置を受ける、受けないに関わらず、ルクファールは非常に体の弱い子どもであった。医者に見せても原因がわからない。どうしたわけか肉体の発育が遅く、ただ道を歩くだけでもまるで重い岩でも背負っているかのように苦悶の表情を浮かべ、ノロノロと亀のような足取りで進むのだ。少し運動しただけで呼吸のリズムが荒くなり、ごくわずかな事で体に傷を負うことも頻繁にあった。その上、目だけは執念深い蛇のようにギラギラと輝かせるものだから誰もが彼を忌み嫌った。
そんなルクファールの数少ない理解者が、両親と弟であった。
『兄さん、ケガの具合はどう? 今日は新しい本を借りてきたよ』
二つ年下の弟であるベールは特別頑丈な体格ではなかったが、兄と比べるとずっと健康的で前向きな性格であった。学校にも満足に通えず家で寝ていることの多い兄を献身的に支え、学校の図書室で本を借りては兄に届けていた。
『大丈夫だよ、兄さん。小さい頃に病気がちだった子どもは、大人になって体が強くなるんだって。先生が言ってたよ』
ある日、ベールは何気なくそんな話をしたが、この言葉があまりに残酷な意味で実現されるとは夢にも思っていなかっただろう。
年月が経つにつれ、ベールは兄の虚弱さについて一つのヒントを得た。それはルクファールが十二歳、ベールが十歳の夏のことであった。学校が夏季休暇のため、ベールは部屋の中で本を読んでいた。ルクファールもまた同じ部屋のベッドに寝て別の本を読んでいた。と、開け放された窓から、一匹の虫が迷い込んできた。虫はブンブンと耳障りな羽音を立てて飛びまわり、どうかするとベールの鼻先にまで近寄ってくることもあった。
『うるさいなぁ』
ベールは片手を振って虫を追い払った。だが、しばらくするとまた寄ってくる。それをまた追い払うが、また寄ってくる。夏の暑さも手伝って幼いベールは苛立ち、本を床に置いて両手で挟むように虫を叩いた。虫は吸い込まれるかのように両の掌に押しつぶされ、その死体から漏れた体液が手の皮膚を汚した。
『しょうがないなぁ。兄さん、ちょっと手を洗ってくるね』
そう言って立ち上がり、兄の方に視線をやった。その途端、ベールは心臓を鷲掴みされたかのような恐怖を覚えた。
ルクファールはベールの方を見ていた。虫を叩く音や声に反応して顔を向けた、という感じではない。例のギラギラとした目つきで、噛みつかんばかりの形相でベールを睨みつけていた。
『な、なに……? どうしたの?』
ベールが恐る恐る問うと、ルクファールはハッとしてすぐに視線を本に戻した。心なしか、その顔の影が先ほどより濃くなっていた。気まずくなったベールは慌てて手洗い場へ去って行った。この小さな事件を、ベールはあまり深くは考えなかった。単純に虫の汚れを嫌っただけかもしれないと軽く考えていた。
この事件の真相をベールが知ったのは、それからおよそ一年が経過してからだった。そしてその年は、二人の住む町を凶暴な流行病が襲った年でもあった。いつどこで病気が発祥したのか明らかになっていないが、多くの住人が次々に病死していった。感染を恐れ、人々は野外を出歩くことを自粛するようになった。それでも今日は誰が感染した、昨日は誰が死んだ、という情報だけは自然に耳に入って来た。
病が流行り出すと同時に、ルクファールの虚弱さはさらに拍車がかかった。ベッドから起き上がることもままならず、食事も一日に粥を数口すするだけで全く食欲を示さない。もしや病気に感染したか、と使用人たちは疑ったが、高熱の症状が現れないことがそれを否定していた。だが原因がわからない事は余計に気味が悪い。両親や使用人たちはルクファールの将来を諦めかけていた。ベール一人だけが変わらずに兄の世話を続けた。
流行病は勢いを増し、町から逃げ出す者も出始めた。サイド家もまた、感染の疑いがないことを確認した上でいったん町から離れることを計画していた。
ルクファールが魔王への変貌を遂げたのは、そんな状況の中であった。