第213話・獣鬼
「私は完全に己を過信していた。今にして思えば実に愚かな思い上がりだった。神の力を宿す者を見落としていたなど、とんだ失態だ。それに気づいた時すぐに手を打ったが、結局ここまで手こずる結果になった。私自らが直接手を下さなければならない状況にまでな」
ルクファールは天を仰ぎ、深くため息をついた。ベールの兄にして、コサメにとっては叔父にあたる男。ベールはテンセイと同じ歳で、兄は二つ年上ということだったから、本来なら年齢は三十四になっているはずだ。だがこの男はどう見ても二十歳前後にしか見えない。それでいて表情や立ち振舞いから発せられる気は成熟し切っている。
海のように淡い青の髪、どちらかと言えば細長の目、絹に似た白い肌。それらの造形はかつてのベールに酷似していたが、受ける印象は正反対だ。人当たりの良い笑顔の下に憂いを秘めた弟と、己の夢と快楽のためならば全てを蹂躙する兄。
「ゼブ王サダム。私を失望させた罪は重いが、これまで良き傀儡となっていてくれた事に免じて、お前のこれを受け取ってやろう。光栄に思え」
自らが焼き殺したサダムの死体を見下ろしながら話す。奇妙なことに、サダムの肉体は原型を留めぬほど黒く消し炭と化しているが、砕けた鎧や小手などの防具は少しも炎の影響を受けていなかった。布の一枚も焦げていなかった。ルクファールは、死体の傍らに落ちていた指輪を拾いあげた。おそらくはサダムの指に嵌まっていたものだろう。翠に輝く宝石のついた高貴な品だ。
「ゼブの国宝石。ありがたく頂戴しよう。どの道いずれは私の手に入るものだったがな」
指輪をしまい、ルクファールはようやくテンセイに視線を合わせた。思えば六年前、テンセイを殺すことは可能だった。互いにハッキリと本来の顔を合わせるのは今が初めてだが、二人はこの島で二度出会っている。集落へ向かう森の中で遠巻きにすれ違い、至天の塔でともに神の光を浴びた。そのどちらでもルクファールはテンセイを殺すことができた。だが目的の達成を最優先したがために見逃してしまった。
「真っ直ぐ、一直線に突き進む。それが一番の近道だと思っていたが、やはり世の中はそこまで単純に出来ていないようだ。時には我慢も必要だと思い知らせたよ」
ルクファールと対峙し、テンセイの頭の中で一つの結論が出た。サダムは断罪の光を使わなかったのではない。使えなかったのだと。彼の力もまた強大なる力の一部に過ぎなかったということを。
「だがこれ以上の我慢は必要あるまい。何にせよ、今この場所に全てのフェニックスの欠片が集まっている。後はお前たち全員を平らげるだけだ」
ここからが真の戦い――。誰もがそう思い、動きだそうとした瞬間。テンセイが吹き飛ばされた。ウシャスも、『フラッド』も、何が起きたのかわからず再び硬直した。まるで弓で矢を放つように、テンセイが後方……森の方へ吹き飛んだ。木の枝を打ち、葉を散らし、巨体が森の奥へ飛んで視界から消えていく。
テンセイが消え、沈黙が響いた。
「とっさに腕で防いだか。サダムめ、武士道だか騎士道だか知らないが、わざわざ敵に治療を施すとは気が知れないな」
ルクファールが蹴りを放ったのだろうことは予測がつく。だが、それはあまりにも信じがたい事実だ。
「さて、まずは小煩い羽虫から片付けるか。力無き者から順に、我がホテルへ送ってやろう」
言葉が終わると同時に、再び炎が灯った。ルクファール自身は静かにたたずみ、サダムの死体だけが焼かれた。
「まずはお前だ。お前を葬るには、こいつがふさわしいだろう」
お前、というのが誰のこと指すのか、ラクラやリークウェルは考えた。だが答えはすぐに出た。サダムの死体が見る見るうちに姿を変え、別の生物の形を作り出したからだ。
「”転生”。ほうら、見覚えがあるだろう? この獣が、お前のパートナーだった」
炎はすぐに消え、中から一匹の獣が現れた。狼を原型とした体躯に、兎の耳をつけた獣。それは『フラッド』にとってかけがえのない仲間であった。
「フーリッ!」
真っ先にその名を呼んだのは、ここまでずっと身を潜めていた少女だった。苛烈な戦いを目の当たりにしても身動きしなかった彼女が、一瞬の自制もきかずに木の上から飛び降りた。
「出るな、エルナ!」
リークウェルが叫んだ時にはもう遅かった。エルナは地面に降り立ち、現れたフーリへ向かって走り出していた。その後を追って寡黙なジェラートも木から飛び降りていた。
「会いたければ、会わせてやろう。私のホテルにくればいつまでも彼と一緒だ」
フーリが駆け出した。エルナの元へ、四つの脚で地を駆ける。将軍ヒアクに撃たれた首の傷は跡すら残っていない。エルナとフーリが互いに距離を縮め、ついに手が届く位置まで来た瞬間、エルナの悲鳴が響いた。
「エルナッ!」
沈黙のジェラートが固い口を開いた。そうせざるを得ない光景が彼の眼前に繰り広げられた。走り寄って来たフーリが突如牙を剥き、エルナの首にかみついたのだ。ジェラートの背筋が凍えた。フーリの目は、狂気に取りつかれた殺人者の目に似ていた。
「クソ!」
リークウェルがエルナの元へ急ぐ。しかし間に合わなかった。エルナから狂犬を引き離そうとしたジェラートが、次の犠牲者になる方が早かった。
「お前たちにはそんな死に方がふさわしい。他者に依存するしか能がないカス共にはな」
「そいつは……フーリじゃないッ!」
リークウェルが辿りつき、サーベルの一振りで獣を眉間を貫いた。姿形こそフーリだが、顔つきには従順で利口な様子が一片もない。
「生命と魂を操る私には、こんな芸当も出来るのだよ。その体に入っている魂はお前たちがフーリと呼んだ者ではない。破壊にあけくれる夢に囚われた死者のものだ」
獣はあっさりと絶命した。同時に、二人の命もすでに絶えていた。凶悪な牙は一撃で命を奪い、使命を果たすと同時に朽ちたのだった。