第211話・真実の開花
覇王、陥落。雷に打たれた巨木のように身を裂かれる苦痛が全身を包み、指先を動かすことさえ叶わない。己の敗北を認めた証か、手足を一杯に広げて大地に倒れている。テンセイに貫かれた『紋』はその内に秘めるエネルギーを暴走させ、主であるサダムの肉体を強靭に縛り付けていた。テンセイを見上げていた瞳が、徐々に目蓋に隠されていく。じきに意識を失うだろう。
「くうっ……」
声が漏れた。ただし、サダムの口は固く結ばれている。呻いたのはテンセイだ。止まっていた血液が再び流出を開始したらしい。堪えていた呪縛が放たれた隙に傷が騒きだしたのだ。思わず膝をつく。
「テンセイ!」
コサメが叫んだ。サダムとの戦いが終わったことを理解したのだろう。肩に添えられていたラクラの手から離れ、一目散にテンセイの元へ駆け寄って行く。それを見たテンセイは、最後の気力を振り絞り、曲がった膝を立てようと脚に力を込めた。
次の瞬間、テンセイは目を広く見開いた。そして叫んだ。
「来るな、コサメ!」
コサメは身を震わせて止まった。
足首が、サダムに掴まれていた。いったいいつの間に体を動かしたのか、サダムはテンセイに足を向けた仰向けの姿勢から、頭と足の位置を入れ替えていた。その上仰向けでなく、両膝をついてうつむくように座っている。その手がテンセイの足を握っている。
「ウソだろ。『紋』ブッ壊されて動けるわけが……」
実際にそれを味わったノームがつぶやく。
「お前、まさか……まだ!」
「いや……余の、負けだ」
サダムが顔をあげた。その顔には戦意の色がない。瞳の奥にも策や嘘の気配はなかった。
「ぬしは真に……大した男、よのう。だがこの傷、コサメの持つ、欠片だけではすぐに完治できまい」
言葉が続くごとに、サダムの体には生気が戻りつつあった。言葉の途切れが少なくなっている。
「受け取れ……。真の丈夫に、余は賞賛を惜しまぬ。手を出して、受け取れ」
サダムの体が白い光を放った。肉体の内側から絞り出された炎が、肩を通って腕に宿る。テンセイは腕の折れた両手を地の上に置いた。その手をサダムが握り、持ちあげる。炎がテンセイの手に渡され、肌の内へ溶けていった。
温かい。幾度となくテンセイを苦しめてきた力が、砕けた骨を復元し、裂けた皮膚や肉を張り直し、失われた血液を生成する。コサメが直に触れてもここまでの早さでは治療できない。
戦い終えた二人の姿は、戦いの前とすっかり逆になっていた。サダムの格好を見よ! 膝をついて手を差し伸べるその格好は、王と農民の立場が逆転したかのようではないか。
その光景に耐えられぬ者がいた。
「王! おやめなさいッ!」
咎める口調は言うまでもなく、宰相グックのものだ。コサメと同様に、戦いを見守っていた一同の緊張は解かれたらしい。ベールの背中から這い降り、サダムへ走り寄ってくる。
「王たるものが野良男の前に跪くなど、たとえ天地が返ろうとあっては……!」
「天地を返すなど容易きことよ、この男にすれば」
テンセイの治療は瞬く間に完了し、サダムはその手を離した。そしてテンセイの顔を改めて見返した後、ふっと小さく笑って全身から気を抜いた。今度はうつぶせに倒れかかる。
「王!」
慌ててグックがその体を支えた。だがサダムの巨体を支えるには初老の体は無力すぎるようだ。倒れかかる腕を掴んだはいいが、そこから引き上げることが出来ない。
「立って、立ち上がってくだされ! あなたの役目はこんな所で終わりではない!」
必死に叫ぶが、サダムは顔をあげない。
「なに、少し眠るだけだ。余は朽ちぬ。……いつか、この男を越えるまではな。それが余の新しい生きがいだ」
もう視線は向けないが、サダムの言葉はテンセイに向けられていた。そこには潔く敗北を認める武人の生き様しかなかった。
(コイツは……)
テンセイの直感が、何かを訴えかけてくる。答えはすぐに出た。
(コイツは、ベールの兄じゃないッ!)
その瞬間、サダムの体から炎が噴き上がった。治療のための温かい炎ではない。業ある者全てを焼き尽くす、あの炎だった。炎がサダムの肉体と、それにすがりつくグックを焼いている。
『おお、おおお!』
双子のサナギとサナミが同時に叫んだ。歓喜と畏怖に震えた声だった。
炎は天までも焦がさんとばかりに、渦を巻きながら高い柱となっていく。すぐ目の前にいながら、テンセイは動けなかった。恐怖のためではない。真実を見誤っていた自分への怒りと、これから起こるであろう事実を見逃さないことに念が集中していた。
サダムとグックはどうなったのか。炎の中から声が聞こえる。辺りは炎の輝きで昼のように明るくなっている。
「焼けてしまえ。遊び飽きた人形ほど無価値な屑はない。私はお前の、枯れを知らぬ無限の闘志と、大国を背負う器を買っていた。部下を失い、自身も敗北を味わったお前にはもう塵ほどの興味もない。お前に”預けた”力は返してもらう。焼けてしまえ」
ああ、この声。己の願望のためならば全てを斬り捨てる無情の旋律。この男だ。今ここに現れた男が、六年前にこの島を襲ったベールの兄なのだ。あの惨劇を引き起こし、神を奪った男なのだ。
炎が徐々に弱まり、闇が帰ってきた。それでも夜明けが目前に迫ったせいかいくらか雲が明るい。渦巻く炎の柱が縮まり、今度はドーム状に二人を包んだ。
一瞬の間をおいて、弾けるように炎が開いた。紅い花が花弁を開くのに似ていた。あれほど周囲を照らしていた炎が見る見るうちに消えていく。炎の中には一人の男が立っており、その男の背に炎が吸い込まれていく。男は海のように青い髪をしていた。そしてその足元にはかつてサダムだった炭の塊が転がっていた。グックの姿はない。
「驚いたか? 私のこの姿に」
深海の目を持つ男が、魔王の笑みを浮かべてテンセイに話しかけた。これが先ほどまで慌てふためいていた老人と同一だと、誰が信じられようか。
「”転生”。フェニックスの力を使えば、己が容姿を変貌させることなど造作もない。年齢などという下らぬ概念も私には不要。年寄りに化けるも元に戻るも自在よ」
男の外見は、二十代前半にしか見えなかった。この村を訪れた時よりも若返っていた。