第210話・無音葬送
着古した薄手のシャツが、汗に濡れて肌にはりついている。分厚く隆起した胸部からは、テンセイの鍛えられた筋肉の造形がハッキリと見て取れる。その隆起の上に重い槍が落ちた。サダムの放った拳は薄汚いシャツを筋肉にめり込ませ、皮膚ごと突き破った。勢いは止まらず剥き出しになった肉の内側へさらに潜り込む。生暖かくぬらぬらと流れる血液を指先に絡め、肉を削って奥まで突き進む。
破滅への掘削行進だ。ついには拳だけでなく手首、腕までもがテンセイの肉体へ侵入していく。触れるもの全てを破壊し押しのけながら一直線状に掘り進み、ついに背中から飛び出した。血に染まった紅の槍が、テンセイの体を完全に貫いていた。
だが。サダムの表情は愉悦一色にはなっていない。それどころか驚嘆の色が広い割合を占めていた。口の端から一筋の赤い液が流れた。それはテンセイの口と胴の両面から吐き出される量と比べれば微々たるものだったが、サダムに確かなダメージが届いたことを示すサインとしては十分であった。
「ぬぐぅ……」
次に呻き声をあげるのはサダムの番だった。一見すると、サダムの負傷はどこにも見当たらない。ただ鎧の腹の上にテンセイの拳が叩きつけられているだけだ。しかしゆっくりと拳が鎧から離れた時、跡には確かな破壊の印が残されていた。伏鯨を砕いた忌まわしい蜘蛛の巣が、鎧に張り付いている。
「オラァッ!」
離れた右拳と入れ替わりに、テンセイの左拳が同じ個所を打った。距離が近すぎるため威力は万全ではないが、それでもヒビの入った鎧にとっては脅威となる追撃であった。咄嗟にサダムが退く。テンセイの体を貫いた腕が逆流し、胸から完全に抜け出る。それでもテンセイの拳の方が一瞬早く、自身が砕けてしまいそうなほどの衝撃を与えていた。
宙を滑るサダムから、無数の欠片が剥がれ落ちる。テンセイの攻撃は鎧の正面だけに集中していたが、一たび亀裂が入れば次々と崩壊が続いていく。王の威を象徴する荘厳な鎧が、無残に砕けてサダムから離れていく。
「くっ……」
ついに、テンセイも勝利へ向かう最後の地点に到達した。崩壊した鎧の下から現れたサダムの胸には、鮮やかに輝く『紋』が刻まれていた。辿ってきた道は正しかった。後は、最後の壁を打ち破るだけだ。
見事よのう、とサダムは思っているだろう。宣言をしたため声には出さないが、表情がそう語っている。頭の中で今の交錯を再現しているのだろう。
サダムの拳が触れる寸前、テンセイは足の呪縛を断ち切って前に踏み出した。結果的に深く拳を受けることになったが、位置をずらすことで心臓への直撃を回避した。それに加えてのカウンターパンチ。サダムの踏み込みと自身の踏み込みによる相乗効果が威力を倍増させ、鎧を砕くに至ったのだ。その代償として今度こそ完全に右腕の骨が砕けて使い物にならなくなってしまったけれども。
「テンセイ……」
控え目な、低い声が空に流れた。小さな、本当に小さな越えだったけれども、喉が詰まって声を出せない一同の中でそれは場違いなほどに広く聞こえ渡った。発言者のコサメ自身でさえ自分の声の意外な響きに驚いたほどだ。
声はテンセイの耳にも届いた。それに反応してテンセイがコサメに顔を向けた。――何とも痛ましい光景だった。急所を外したとはいえ、サダムの太い腕が肉体を貫通したのだ。重傷という言葉ですら生温い。口の周りは吐血で汚れ切っている。それでも、瞳は力強く輝いていた。その命を繋ぎとめているのはフェニックスの力か、それともこの男が培ってきた精神力か。大量の血液を刻一刻と失いながらも地に立ち、コサメを穏やかに見返している。
コサメもまた、悲惨な姿に目も背けず、嫌悪や恐れの色も表わさず、テンセイの目だけを見つめる。やがてテンセイが口を開いた。
「大丈夫だ、コサメ」
一言だけだった。意味は言葉の表面そのままで、それ以上も以下もない。この男が”大丈夫”と言えばそれだけで良いのだ。コサメは答えた。
「うん」
これもまた一言だけ。二人の間には、親と子でもなく、教師と生徒でもなく、ましてや兄妹でもなく、長い間信頼し合ってきたパートナーとしての絆があった。今のコサメはただの運命に翻弄される少女ではない。直接手は触れずとも、テンセイとともに立ち向かう勇者であった。
テンセイは再びサダムに向き合った。互いに最終段階まで登りつめ、やるべき事は一つだけだ。テンセイの出血はあまりに酷く、直にフェニックスの再生を受けなければあと数十秒で息絶えるだろう。だがサダムはそれをしないはずだ。そんな勝ち方を望む男には見えない。
事実、サダムは拳を握り直してテンセイに対峙している。弱点である『紋』をさらけ出してなお、戦意の炎は少しも衰えていない。鎧を砕かれた際の余剰衝撃にダメージも気に掛けない。あと一発。どちらかがあと一発だけ叩きこめば決着がつく。
フウゥゥゥ……。サダムが長く息を吐いた。表情を引き締め、右の拳を自身の顔の前に持ち上げた。最後はこれでケリをつける、というアピールだ。自然にテンセイもそれに倣った。右の腕はもう意思では持ち上がらないが、左の腕で同じ動作を行った。この左手も次の一撃が決まれば砕け散るだろう。
(死ななければいい、てのは違ったな。倒さなきゃダメなんだ。それが戦うってことなんだ)
戦士という存在への進化。それが、テンセイの身に起きていた。今度こそ蕾が花開く感覚がした。
『オオオオオオッ!』
太い雄たけびが絡み合い、決着への最終手を突き出した。ただ一発の拳に全てを乗せて。相手より先に拳が届けば勝ち、届かなければ負けだ。腕が交錯して標的へ一直線に向かう。
決着の瞬間は、音すらも存在を許されなかった。一切の物音は生じず、周囲の人間たちはすぐに結果を理解することが出来なかった。二人は互いが互いの影となり、拳が触れたのかどうか判別できない。
「……よう、ここまで粘った」
サダムが言葉を漏らした。その腕はまたしてもテンセイの体を貫いている。
「一度開けた風穴に、もう一度腕を通させるとはの。最後の最後で……よくぞ、余を乗り越えた」
サダムの肉体が揺らぐ。落雷を受けた鉄塔のように、抵抗もなく仰向けに地に倒れた。その胸にあった『紋』の中心が、内側に陥没していた。