第209話・どこまでも生きて
時が経つにつれ、実力の均衡が徐々に崩れ始めてきた。達人が目を凝らしてようやく気付けるほどささいにしか表れていないが、テンセイが押され出していた。無理もない。テンセイはサダムの鎧を砕くことだけに攻撃を集中させているが、サダムの攻撃は直接的にテンセイの肉体へ負傷を与えている。
金色に包まれた剛腕が、蛇のようなしなやかさを持ってテンセイの肩へ噛みついた。自然の中で育まれた弾力のある筋肉へ、修練を積んだ王の拳がめり込んでいく。
テンセイの口から押し殺した悲鳴が搾り出され、今のは有効な一撃だったとサダムへ報告する。拳と肩が触れ会っていたのは刹那的な瞬間だけで、テンセイはすぐに離れたのだが、皮膚の内側に鉛を入れられたかのような不愉快な重みはしっかりと残された。
横に回り込もうとしたテンセイの目に、黄金の色彩を放ちながら揺らめく陽炎が映った。陽炎はすぐにサダムの実体になり、優美さと粗暴さを秘めた瞳でテンセイを見返している。そして正確に狙い打ったコンビネーション・パンチ。テンセイは反射的に腕をあげてを顔面を庇った。直りかけた骨肉に再び亀裂が走る。
「ぐっ……!」
またしても呻きの報告が飛ぶ。が、同時に脚も飛んでいた。声はサダムの耳に、足は鎧の胸に、確実に届いていた。打撃の反動で互いの距離がわずかに離れる。一矢は報いたが、またしても勝利への押し合いに差をつけられた。
この程度の負傷、普段ならば数回呼吸をする間に治療が済んでいるのだが、今は肩だけでなく全身に被害がある。それら一か所一か所が深手を負っている。弾丸や炎を遥かに凌駕する打撃を受け続け、見る間に生気が失われていく。闘志と根性で持ちこたえてはいるが、並大抵の人間ならばとっくに息絶えているか限りなくそれに近い状態になっているほどの重傷だ。
サダムの動きは徐々に鋭さを増している。テンセイがサダムの剣を見切っていたように、サダムもテンセイの拳を見切るようになっていた。動きの素早さが同等になれば、輪を描くように動くテンセイよりもその輪の中心にいるサダムの方が先手を取りやすい。体の向きを変えるだけで良いからだ。
気迫の咆哮が轟く。それは大砲の発射音にも等しい存在だった。砲弾の代わりに鉄拳が目にも止まらぬ速さで飛ぶ。いや、テンセイの目にはその軌道が映っている。だが肉体の反応が間に合わない――。
「ガフッ……ァ……!」
ついにテンセイの口が開いた。歯をくいしばって極力抑えていた呻き声が、誰の耳にも届く叫喚となって響いた。みぞおちへ真っ直ぐに突き刺さった拳が、無理やりに腹の底から声を絞り出させたのだ。
確かな手ごたえに、サダムの顔が愉悦に染まる。興奮にたまらず叫んだ。
突き出した腕が戻り、また飛びだしていく。数十台の大砲を並べて一斉に発射させたかのようだ。体内に渦巻く武の技と気が、拳を槍の性質を加える。それはすでに打撃ではない。相手の皮膚表面を叩くのではなく、それを突き破って直接体内へ潜り込む。太くて重いくせに、鋭い。
「ガァアアアッ!」
つられてテンセイも叫ぶ。鬼神の攻めをしのぐため、己を鼓舞する叫びを。だが悲鳴が混じっていることは隠せない。かろうじて顔や首、心臓などの急所だけは守っているものの、ガードする腕はもう限界だ。サダムの拳が砲弾や槍ならば、テンセイの腕は虫に食われた老木に例えられる。未だに原形をとどめているのが不思議なほどだ。
テンセイの巨体が削られていく。すでに互いの足は止まっている。拳の圧力が生み出す引力に惹かれ、その場での応酬を余儀なくされた。仮にテンセイが一歩でも下がろうものなら、挙げた足が地に着く前に心臓を貫かれるだろう。足の甲に杭を打ち込まれたも同然だ。王の鎧に傷をつける不埒な足に、仕置きの制裁が加えられたとも解釈できる。
勝利への通交手形を先に手にしたのはサダムだった。念願のクリーン・ヒットを決め、続く拳の乱打へと持ち込むことが出来た。狙い通りテンセイは防戦一方、そしてサダムはその防御ごと破壊を進めていく。
「うぐッ! ッァアあっ……!」
テンセイの声はもう遠慮をしない。容赦なく口から飛びだして決着へのカウントダウンを取り続ける。まだ致命的な個所への攻撃は至っていない。だがもう時間の問題だ。腕の感覚が麻痺し、痛覚や動作が鈍くなってきた。自分の肉体でない物かと思い違えるほどだ。
そしてついに、その時が来た。白一色に濃く染まりかけてきた感覚が、ふいに一瞬だけ戻ってきた。だがそれは錯覚だったのかもしれない。老木の折れる音が耳に届いたせいで、痛覚が戻ったのだと思いこんだだけの可能性もある。視覚による刺激もあいまったのだろう。自身の上腕が途中から砕け、関節がもう一つ増えたかのようにぐにゃりと拉げている。その向こうから最後のとどめとなる金剛槍が迫ってくる。これも錯覚か、拳自身が強い輝きを放っているように見えた。フェニックスの再生の炎が放つ輝きではなく、研ぎ澄まされた戦士の気迫が放つ輝きが。
槍の拳が心臓に迫った瞬間、加えてもう一つの錯覚がテンセイの脳に起こった。一般的には走馬灯と呼ばれる類の錯覚だった。触覚、視覚に続いて、聴覚へ訴えかける刺激が、記憶の中から響いてきた。
『死にたいとか、死んでもいいとかいう考えも捨てた。オレに残されたたった一つの命……コサメを守るために、オレは生きる』
六年前、コサメとともにこの島を出て、新たな生き場所を得た時に自らが紡いだ言葉だ。自分の役目はコサメを守ること。そのために、何が起ころうと絶対に死なないこと。どんな絶念と苦痛に襲われても生き抜くこと。
(……死にさえしなければ、いい)
脳が高速で回転し、生存方法を模索する。ここまで繋いできた道を終わらせないためにテンセイの存在全てが限界を引き出す。
テンセイの強靭な皮膚に、輝く拳が突き刺さった。