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第190話・追い風

 強く木々を揺らした風は、すぐに湿気の潤いを含んだ緩やかな風に変わった。軽く髪や衣服の裾を揺らす程度の風力だったが、風は風だ。そしてそれはアフディテの背後から吹いている。


(向かい風……じゃない)


 アフディテの目蓋が大きく開かれる。髪が後ろから前へ揺れている。


 何年ぶりだろう。アクタインの葬儀に出るため建物の外へ出た時も、ベールの背に乗ってこの島へ移動する道中も、風を操る『フラッド』のユタとの戦いの最中も、全てアフディテの進行方向に対して向かい風が吹いていた。今吹いている風は、背中で受ける「追い風」だ。


「アフディテ」


 声が聞こえた。サダムの声ではない。それよりもずっと柔らかく、細いけれども温かい声だった。閉じこもっていたアフディテを支え続けていた声だった。


(アドニス――!)


 それは幻惑の声だったのだろう。少なくともアフディテ以外の人間は誰もこの声に気づいていなかった。あるいは、アフディテの記憶が無意識のうちに脳内で再生していたのかもしれない。


「私がついています。大丈夫ですよ。風はあなたを嫌ったりしていません」


 アドニスは間違いなく死んでいる。リークウェルに首を斬り裂かれた上に数メートルの高さから墜落したのだ。地面の上に転がる肉体からは微塵も生命の気配を感じられない。それなのにアフディテの胸には声が届いてくる。


「私は貴女の過去を知りません。ですが、今の貴女に強い力が秘められていることは知っています。それは『紋』の力ではなく、貴女自身の持つ力」


「私の、力……」


「そうです。貴女の心の奥底には果てしない力が眠っています。それはどんな苦境にあっても屈しない、何度倒れても諦めない再起の力です。少し時間はかかりましたが、闇に沈むのは終わりました。風は……」


 声は、そこで途切れた。最後の一言は耳ではなく心に響いた。


「風は、私を支えてくれる」


 アフディテが顔をあげた。無数に舞う蝶たちの向こうに、標的である人影が見える。人影の表情は固く強張っていた。


 アフディテがサダムに叱咤を受けてから風が吹き始めるまで、時間にして一分ほどの間があった。その間にリークウェルとノームが攻撃を仕掛けなかったのは大きな過ちであった。しかし、それを責めるのは酷というものだ。サダムの張り上げた声はアフディテを奮い立たせるためだけでなく、他の全ての人間を静止させていたのだから。


「ありがとう。アドニス」


 そう言って、アフディテは笑った。涼やかな笑顔だった。


 笑顔に反比例するかのように、リークウェルの表情は険しくなっていた。


「……クソ、小汚いネズミめ。どうせならあっちに爆弾を投げればよかったというのに」


「ネズミってのはオレのことか? オイ」


 ノームも言葉を返しはするが、リークウェルへ敵意は向けていない。口では罵り合うが視線は互いを向いていない。視線はアフディテに釘付けになっていた。ついさっきまで絶望の淵に沈んでいた少女。その気になればすぐに始末できたはずの標的。それが、急激に強大な”敵”へと変貌していく。


「……協力などしない。だが言っておく。あれを止めるのが最優先だ。あれはヤバ過ぎる」


「てめぇが命令すんなよ。けど、同意だぜ」


 アフディテの青白かった頬に、瑞々しい赤味が差していた。そこにだけ朝日が先走りしてきたかのようだ。そこに立っているのは気弱な少女ではない。リークウェルを見返す眼差しの奥には戦士の炎が宿りつつあった。


「ふ、単純な奴よのアフディテ。だがそれで良い」


 サダムは再び笑みを浮かべた。途端に周囲の緊張が解かれる。そのため耳障りな雑音も復活した。


「王様! 早く、く、ベールに乗って! ここはアフディテ嬢に任せれば、れば、いいでしょう!」


「そう、そう! リークウェルは、は、すでに疲労し始めてる! それにたかがザコ一匹増えただけ、だけなら何も問題ありますまい!」


 この二人は、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。自分の最優先目的以外は本当に眼中にないのだ。もはや呆れるを通り越して感心するべき徹底姿勢だが、意外にもこの場違いな意見に賛同の意を述べる者がいた。


「王、アフディテ様のことはもう心配ありませぬ。ここはサナギ達の案を受け入れた方が良いかと……」


 サナギとサナミが暗闇の中であまりに目立つ白衣を着ているせいか、はたまたその男の衣装が地味な濃茶色で背景の闇に紛れていたせいか、サナギの後ろに控えていたグックの存在をようやく全員が知った。


「アドニスも討たれ、事態は当初の予想より切迫しております。ここはアフディテ様に任せて先へ進むべきでしょう。何があっても()の力を手に入れると申されたは王ご自身ですぞ」


 グックは最もサダムに強く進言できる立場の人間。だが、もはやサダムの意思を変えることは人間には不可能であった。


「黙れ。それ以上余計な口を叩こうものなら、余はぬしらを斬り捨てるぞ」


 半分冗談、と普通なら取れる言葉もサダムが言うと冗談に聞こえない。結局、年寄り三人は黙ってベールの背中にしがみつくばかりとなった。


 サダムはアフディテに顔を向け直した。満足げに口の端を釣り上げ、目を細める。


「ふふふ。小うるさい輩は余が抑えておいてやる。ぬしは思う存分、全身全霊を持って戦いに挑むが良い!」


 アフディテは視線を返さない。が、小さく首を縦に振った。


 アフディテの『紋』が、新たに蝶を吐きだす。蝶はすぐに攻撃には向かわず、アフディテの周囲を旋回しながら後続の蝶が出てくるのを待っていた。この蝶の動きを見て、わずかな変化を感じ取れたのはリークウェルとサダムだけであった。蝶の飛行速度が、先ほどまでと比べて格段に速く、そして力強くなっている。


「ありがとうアドニス。……この風は、あなたが吹かせてくれた風」


 蝶が渦を巻きながら集合し、一つの型を形成し始めた。

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