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第189話・閉ざされた心

 その日、アフディテはどうやって城まで帰ったのかを覚えていない。記憶のページが空白に塗りつぶされており、次にページの中に文字が浮かび始めた時には、日が沈んで夜空に月が昇っていた。月光の差し込む城内のベッドの中で、アフディテは枕に顔をうずめていた。目を開けて枕から顔を離すと、酷い寝汗でもかいたかのように顔がベタついているのを感じた。意識を失いながら涙を流し続けていたらしい。


 後にグックから聞かされた話によると、アフディテは一人で馬車に乗って城に戻って来たらしい。馬車どころか一頭の馬すら操ったことのない自分にそんな芸当が出来るはずがない、と正常な状態なら思っただろうが、この時のアフディテにはどうでもいいことだった。


「お母さん」


 小さくつぶやき、横になったまま体を反転させて仰向けになる。窓の外に青い月が見えた。それは涙で滲んでいるはずの瞳にも鮮明に、そして冷たく映った。まるで月に見られているようだった。途端に恐ろしさがこみ上げてきた。


 自分の罪を咎められているような気がした。母を守るために生きていくつもりだったのに、母を殺してしまった。救うための力が全てを壊してしまった。――壊す。破壊する。胸に刻まれた『紋』は破壊の力しか生み出せない。破壊だけが目的の能力。そんな力を刻まれた自分が、誰かを守ろうなどとおこがましい事だった。努力も意思も無意味。ひと度風が吹けばそれまで。


「……いやっ」


 目を固く閉じる。だが、月を見なくても月に見られている感覚はなくならない。


「いや!」


 耐えきれず身を跳ね起こし、カーテンを掴んで力任せに引いた。月明かりが遮られ、室内が暗闇に包まれる。それでよかった。闇が心地よかった。誰にも見られたくない、何も見たくない。夜の闇は絶好の環境だった。時計の針も見えないが、深夜であるらしく人の訪れてくる気配はなかった。泥のようにベッドに倒れ、また眠った。


 翌朝、目を覚ましてもアフディテはベッドから起きられなかった。グックが訪れても部屋の鍵を開けず、扉越しに言葉を交わした。処刑場にいた人間は自分以外全員が死亡した、ということもこの時知った。事実を公にするわけにはいかないため、馬車の転落事故として発表するという話も聞いた。


「アフディテ様、どうかお気を取り直してくだされ。いくら悔やまれてもこれは天命……。仕方のなかったことでしょう」


 説教まがいの慰めには耳を貸さなかった。


「退け、グック」


 太い声が聞こえた。声の主はグックを扉から遠ざけ、入れ替わりにそこへ立った。


「アフディテ」


 名を呼ばれた。この男に話しかけられては耳をふさぐことも出来ない。どんなに辛い言葉でも聞かざるを得ない。


「立て。そうすれば支えてやる」


 サダムの言葉はそれだけであった。扉を開けるように要求もせず、説教もせず、慰めの言葉も与えず、この一言だけを残してすぐに立ち去って行った。そして翌日以降サダムがこの部屋を訪れることはなかった。


 アフディテの部屋には簡易ながらも手洗いや浴室があったため、食事の供給さえあれば外に出る必要はなかった。逆にいえば食事が運ばれてこなかったら外に出ていかなければならなくなるのだが、食事は以前と同じように与えられた。


 強制されて立つのではなく、自分の意思で立て。サダムはそう言いたかったのだろう。だから食事を与えるように指示を出したのだ。あえて引き籠れる条件をつくり、そこから出てこれるかを試したのだ。


(わかってる。立ち上がらなきゃいけないのはわかってる。でも……怖い。外に出るのが怖い。私の力は破壊の力。そしてまた風が吹いたら……)


 時が経つにつれ、アフディテの思考は重く、鈍くなっていく。牛が食物を反芻するように悪夢を思い返し、一日の大半をベッドの上で過ごす日々が続いた。


 やがて、給仕のか狩りがグックからアドニスという名の少年(アフディテよりはいくらか年上だが)に替わった。アドニスは年若い軍人であったが、サダムを深く崇拝しており、実直な態度と真面目な性格が評価されてこの極秘任務を与えられたのだ。ただし、アフディテの身分や閉じこもっている理由などは詳しく聞かされていない。


 アドニスは何度もアフディテの説得を試みた。それでもアフディテは動かなかったが、熱意は痛いほどに届いていた。


「私は絶対に外に出ない。出たくない」


 アフディテがハッキリと言葉に出しても、アドニスは退かなかった。


「大丈夫です。不安なら私がついています。風が吹いても私が守ります」


 それは、あの悲劇を知らないからこそ言えた言葉だったのかもしれない。自ら外へ出ることは出来なかったが、アドニスと言葉を交わすことだけが唯一の救いとなっていた。アドニスと話している間は闇に沈まないでいられた。


 だが、将軍アクタインの葬儀のためにアフディテが部屋を出た時、大聖堂で再会したサダムは、アフディテを一目見ただけですぐに顔を逸らした。声も掛けてこなかった。アフディテの顔を見て、まだ自らの意思で立っている状態でないと判断したのだろう。






 そして今、アフディテはサイシャの島へやって来た。いや、連れてこられた。やはりサダムは認めない。アフディテの瞳にはいまだに光が宿っていないのだ。


「立て、アフディテ! そうすれば王の血はぬしを勝利へと導く!」


 サダムが声を張り上げる。だが、アドニスさえも失ったアフディテはますます闇に落ちる一方であった。王の声を持ってしても罪悪の霧は晴れない。アフディテを立ち上がらせるには別の力が必要であった。


「いや。私は、もう……」


 そう言いかけた瞬間、一陣の風が吹いた。ユタはまだ目覚めておらず、自然に吹いた風であった。一瞬アフディテの身が震え、瞳が怯える。だが震えはすぐに収まった。


(風が――)


 アフディテの髪が舞う。長く垂れた後ろ髪が、顔の前に向ってたなびく。風はアフディテの背後から吹いていた。

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