第187話・執念の女王
女王と侍女、そして侍女に扮したアフディテを乗せて馬車はフォビアの町を出発した。馬車は王族専用として特別に設計されたものであり、通常の馬車より遥かに大きく、女王と侍女合わせた五人が箱に入ってもスペースに余裕があった。
「今日、私はとても大事な用を果たさなければなりません。その用は、あなた方の協力があればより大きな成果をあげることが出来ます。手伝ってくれますか?」
馬車が動きだすなり、女王は座席に腰掛けたまま侍女達に問うた。生まれつきそうなのか、それとも性格が滲み出ているのか、女王の顔はキツネのように細長く、肌が青白くていかにも狡猾な印象を与える。が、記憶力はあまり大したことはないらしく、見慣れぬ侍女が一人増えていることには気づいていないようだった。
(大事な用? 協力するも何も、その内容がわからないと……)
とアフディテは一瞬思ったが、他の侍女たちが一斉に頭を下げて協力の意思を示したため、慌ててそれに従った。
馬車は砂漠の荒野を走り、やがて目的の町へ到着した。女王の用件が何かは知らないが、馬車が停まりしだい、アフディテは一行から離れることになっていた。グックから頼まれた別件である人に手紙を渡さなければならない、という言い訳を使うのだ。無論、偽の手紙をこしらえて懐に忍ばせてある。
(この町には特別な軍事機構や政府の建物はなかったと思うけど、もしかしたら女王様の私的な用事なのかしら)
侍女を装うために極力目を伏しているが、時折ふと顔を上げると、窓の外に懐かしい景色が見えた。古ぼけた建物、埃っぽい空気、植物。子どもの声が聞こえないのは、女王の車が通っているため大人たちが黙らせているのだろう。
アフディテがこの町を出たのはほんのひと月ほど前のことであったが、子どもにとってのひと月は大人にとっての半年に感じることもある。初めのうちは懐かしさに胸が一杯になっていたが、いくつかの路地を曲がるにつれ、徐々に妙な胸騒ぎを感じるようになってきた。
(この方向……。こっちは、私の家がある方向だわ。あの辺りはただ住居が点在してるだけなのに……)
胸騒ぎは次第に強くなっていく。不安に駆られて顔をあげた拍子に、女王の口元がニヤリと醜く歪むのが見えた。眼前に刃を突きつけられる以上の恐ろしさを感じ、背に冷たい汗が流れた。
やがて馬車が停止した。およそ王族の人間が立ち入るには相応しくない、さびれた居住区の通りに、場違いという言葉など忘れたかのように荘厳な箱と馬が取り残された。
「行って来なさい。くれぐれも勝手な傷をつけないようにね」
女王が冷たい笑みを浮かべて言った。と、箱の外から「はっ!」と威勢のいい男の声が聞こえた。どうやら馬を操っていた御者への言葉だったらしい。屈強な体つきの御者が馬車から飛び降り、近くの民家へ向かって行った。
アフディテの心は掻き乱れていた。手紙を取り出して馬車から降りることなど頭の中から消えていた。その必要はなくなったからだ。御者が向かった家は、間違いなく母の住む家だったのだから。
心臓が破裂しそうなほどに高まる。頭から血の気が引いていく感覚はするくせに、呼吸は荒くなって頬が紅潮しそうになる。周りに悟られはしないかと焦るが、女王は笑みを浮かべるばかりであった。
「女王のご命令だ。よもや逆らうつもりはあるまい」
気がつけば御者が戻ってきていたらしく、急に箱の扉が開かれた。御者に背中を押されて強引に車内へ入れられたみすぼらしい女性は、ああ、もはや言うまでもあるまい。アフディテの母親であった。
「さぁ、それでは次の場所へ!」
女王の一声とともに再び御者が運転台に戻り、馬車を走らせはじめた。
「ホホ……。あなた方もよく見ておきなさい。この女は、私から大事な物を奪った罪人です。本来なら裁判を通じて公式の場で裁きを下すべきなのですが、この女は魔性。男の執り行う裁判では公正な裁きが出来かねない恐れもあります。そのため私自らが裁くことにします。良いですね?」
母は、肩を震わせながら黙ってうつむくばかりであった。格好は出来るだけ清潔な状態を保っているが、豪華な装飾が施された女王の前にいるといかにも貧相な印象を受ける。女王がさらに辛辣な言葉を吐きかけても、母はただ黙って耐えていた。
(どうしよう、どうしよう。このままじゃ絶対に悪い事が起きる。でも、どうしたらいいの……?)
うつむいているせいで、母はアフディテの存在に気が付いていないようだった。何度もどうしよう、どうしよう、と逡巡している間にも馬車は進み、町から離れたところで停止した。
「全員降りなさい。そして、この女をあれに縛り付けて」
そこは、砂漠の深い亀裂の淵につくられた処刑場であった。数年後にテンセイやノームが処刑されることになった、死体を崖に突き落として処分するための裁きの地であった。
「私自らが処刑を執り行う! さぁ、罪人を処刑台へ!」
侍女たちが動き、母を引っ張って台座へと上がらせた。そして何のためらいもなく柱にくくりつけていく。母は抵抗しない。
「何をしておるのです。あなたも協力しなさい」
アフディテも女王に声をかけられ、弾かれるように台座へと走った。そのあとについて女王も台座にあがってきた。その手に短剣が握られているのをアフディテの瞳は捉えていた。
(このままじゃ……そうだ! 一か八か……!)
アフディテには切り札があった。本格的な訓練はまだ積んでいないが、『紋』という力があった。
(混乱を起こして、お母さんと一緒に逃げるしかない!)
緊縛を手伝うと見せかけて母の傍に寄り添い、『紋』に意識を集中させる。――きっと、女王は執念深い。言葉で説得など出来るわけがないし、そんな権限もない。強引に紛れを引き起こす以外に手段は思いつかなかった。
衣服の胸部を破り、光輝く蝶が出現する。それが悲劇の最後の引き金であった。