第182話・満足
「ほ、見事よのう。己の足を犠牲にして敵を討つ、か。若造にしては大した根性よ」
大仰な手振りで手のひらを打ち合わせ、サダムは大いに笑った。
「じゃが、よく考えれば犠牲とは言えんかもしれんのう。あれの持つ力なら……。フフフ。それにまだ決着はついておらん。これから何が起こるか、楽しみじゃ」
口では笑っているが、目は笑っていない。無理やりに筋肉を動かして目尻を下げているものの、瞳の中に穏やかな色はない。かといって怒りでもない。山のような巨躯の中に海のような深さが見えるばかりだ。サダムの肉厚な耳に、甲高い悲鳴が届いてきた。
「ア……アドニスーッ!」
サダムでさえも滅多に聞きなれない声。これまで人形のように沈黙を続けていたアフディテが、顔をあげて悲痛の叫びをあげている。サダムも再び上空に視線を移した。アフディテの動揺からか蝶の統率が乱れたため壁が崩れ、サダムの位置からもハッキリと男の姿を確認できる。
「ふむ」
アドニスは、かろうじて立っていた。そう言っている間に倒れてしまいそうなほどフラついているが、それでもしっかりと立ち、墜落を免れていた。
「これでお前は終わりだ。トドメを刺したいが今のオレには出来ない。楽に死にたければ自分でやれ」
リークウェルが勝者の言葉を紡いでいる。従来の『フラッド』ならば言葉などかけず本当にあっさりとトドメを刺してしまうのだが、両手がふさがっているのはもちろん、足を片方失ってはこれ以上攻撃のしようがない。一本足で立っているだけが精一杯だ。
男二人、どちらも今にも倒れそうな格好で、それでも立っている。サダムはそこに何かを感じた。
「……ふっ」
そして、今度は本当に笑った。瞳の奥から真実の笑みを浮かべた。
「何やらやってくれそうじゃな、アドニスよ。よかろう。ゼブ国五将軍の意地、見せてみよ!」
「くあっ……カァアアッ!」
アドニスが奇怪な雄たけびをあげた。首の中心近くまで裂かれたというのに、気力で生命を繋ぎ奮わせてる。
「無駄だ。いくら脳が命令しようと、お前の肉体はすでに限界……」
リークウェルが言葉を吐いた、その瞬間がアドニスの最後の舞台となった。アドニスのやったことは二つ。叫び、右手をあげた。ただそれだけであった。振り上げた右手は蝶に触れた。壁を形成していた隊列が乱れ、乱舞していた蝶の塊に自ら突っ込んだ。
「ぐうぁぁ……あ」
蝶が、アドニスの腕を削り取る。鉄輪を操る繊細な指が瞬く間に消滅し、オリハルコンの指輪が地へ落ちていく。残された手首から噴水のごとく血が溢れだす。アドニスは腕を振り、周囲に血をまき散らしたのだ。
「う! くっ……貴様ッ!」
リークウェルは片足。一点を狙った鉄輪の攻撃から急所を守ることは出来るが、まき散らされる血飛沫を回避することは不可能。背を向けることすら出来ない。咄嗟に目蓋を閉じ、目に血が入るのを防ぐのが限界であった。
両腕を封じ、足を削り、一瞬だけであるが視界をも奪った。そうしてとうとうアドニスはリークウェルを上回った。
「ゼブ国……万歳っ……!」
アドニスの左手が動き、最後の鉄輪を放った。渾身の力を込めた一投はこれまで以上の速度と回転を伴って空を斬り飛んでいく。
「見事、アドニスよ。死に落ちる直前、肉体はもう動かぬように思えるがそうではない。真に丈夫として生きてきた者ならばこの瞬間にこそ最高の力を発揮することができる」
サダムの声が届いたのか、否か、アドニスの瞳は穏やかだった。
鉄輪が飛ぶ。リークウェルは避けられない。鉄輪が狙っているのは顔面だった。
回転の刃が、肉を裂いた。皮を破き、肉を裂き、血を纏いながらなおも深く食い込もうと回転する。
「……くっ。見事、見事よのう。魅せてくれるわ。『フラッド』とやらも大した根性を持っておるのう」
リークウェルは何もしていない。何も出来なかったのだ。動いたのは別の『フラッド』。それも、一度消えかけた息をようやくふき返したばかりの少女であった。
「なっ、何をしているユタ!」
リークウェルが叫んだ時には遅かった。抱かれていたユタが咄嗟にリークウェルをかばい、上半身を上げて自身の胸に鉄輪を受けたのだ。心臓をそれてはいるが、傷は深い。
「お前、もう少しでさっきの傷が完治するというのに」
「あれ? へへ、そうだったね」
開いたユタの目が再び閉ざされる。
そして、アドニスの足が蝶から離れた。リークウェルを仕留めることは出来なかったが、ユタに再び深手を負わせた。ユタが戦力に加わるまでの時間をさらに稼げたのだ。風を操る『紋』さえなければアフディテの蝶の前に敵はない。奪った鉄輪でガードを試みても無駄だ。アフディテがその真骨頂を見せさえすれば……。
アドニスは落ちる。頭から、地面へ向けて一直線に。肩や脚が蝶に触れ、さらにその身を削る。顔のすぐ横を光がかすめ、耳を失った。それでも両の瞳が削れずに残ったのは偶然だろうか。死を覚悟した瞳は、最後に己の心酔する王を見た。王もまたアドニスを見返し、口を開いた。
「大義であった」
唇の動きがそう告げているようにアドニスは感じた。王が、天下を治めるに相応しい屈強なる人物が、自分の最期にこんな言葉を添えてくれた。アドニスの唇も自然に笑っていた。そして、王に向けて声にならない想いを放った。――最後の気がかり。アフディテを頼みます、と。
若き将軍の頭蓋が地に触れ、重力と衝撃に挟まれた。下手に飾った女などより美しいと言われた顔が、細いながらも鍛えられた肉体が、無残に砕ける。飛び散った血や骨肉の欠片が蝶に触れて消え失せる。
「降りるぞユタ、オレもお前も、ここでは治療が……」
リークウェルが物言わぬユタに声をかけ、片足で巧みに蝶を下りはじめた。動揺する蝶たちの動きを冷静に読み、バランスを保ちながら着実に降りていく。
リークウェルが地上に達すれば、治療に意識を集中することが出来る。ユタの治療にはやはり時間を要するが、自身の足を再生するのは早い。
残るアフディテは、いまだ混乱の中にいた。