第178話・風と鉄
ユタの風は、アフディテの能力にとって天敵ともいえる存在であった。触れたものを破壊する蝶も、それ自身の飛行能力や馬力は並の蝶と大差なく、弾丸の軌道をも捻じ曲げる突風の前には紙屑も同然であった。
しかし、その紙屑を足場にして、アドニスは宙に立っていた。風を使われることなど初めから予測していたのだろう。『紋』の能力が絡む戦いでは、単純な強弱よりも能力の相性が鍵となる。ゼブの強みの要因の一つである。ゼブはウシャス、『フラッド』両方の手のうちを知り尽くし、事前に手を打つことが出来るのだ。
「さすが素早いな。リークウェル・ガルファ。姿をくらましてからの奇襲も防ぐとは……。でも、まぁいいでしょう。それなら先にあちらを狙うだけです」
アドニスがリークウェルへ鉄輪を投げたのは初めの一手だけだった。自分より遥かに素早く動けるリークウェルを連続で狙うのは不毛と捉えたのか、そちらへの攻撃は牽制程度に留めて真の標的を定めていた。
「アフディテの弱点は風。ならば、風の発信源を断つ!」
散り散りに乱れ飛ぶ蝶を梯子に見立て、地に足をつけることなくユタの方へ接近していく。一体いくつの鉄輪を用意しているのか、懐からさらに十枚近い数を取り出して両手に構えている。
ユタの立ち位置は変わらない。塔を背にして傍らにキツネを召喚して風を操っている。蝶を散らすことに専念していた瞳がハッと上空を見上げ、アドニスの姿を発見した。視線が交差する。
(こちらも、専門ではないにも関わらず気配の反応が早い。これほどの高さまで登ればすぐには見つからないと思っていたのですが……)
このまま鉄輪を投げても簡単に防御されてしまうだろうことは明確だ。ユタはいつでもシールドを展開できる状態にある。
しかし投げた。
「ハッ!」
わざと気合の一声まであげて、しっかりと正確に狙いを定めて二つの鉄輪を放った。蝶の放つ光模様をその身に映す鉄輪は高速で回転しながら空を滑り、弧を描くようにユタへ向かっていった。
アドニスの目にはハッキリと見える。ユタの唇が固く食いしばられ、意識を集中させているのが。と、傍らのキツネが鉄輪を睨みつけて牙をむいた。直後に猛烈な砂塵が舞い上がり、風の渦の逆巻く様が見えた。風はハエを払うかのように鉄輪を弾き、軌道を変えてユタの左右数メートル離れた位置に一発ずつ墜落させた。
風の渦は防御だけに留まらず、そのままアドニスの方へ飛んできた。防御をそのまま攻撃に変えられる威力を真正面から視認し、沈着なアドニスも舌を巻いた。散乱する蝶の群れに風がぶつかり、蝶を巻き込みながらさらに直進する。この風に飲まれてはたまらない。風自体の威力もなることながら、巻き込まれた蝶に腕や銅が触れてしまっては味方であっても肉体を削られてしまう。
風の力が一方向に集中した分、周囲の蝶の飛行が若干安定している。アドニスは蝶の配置からすぐさまルートを見出し、的確な足運びで風の軌道上からの退避を試みた。間一髪、風はアドニスの足下を通り抜け、蝶を巻き込んだまま夜の空へ消えて行った。
「あぁもう! 空中で動くのはあたしの特技なのにッ!」
ユタの叫んでいるのが聞こえた。己のお株を奪われて心穏やかでないのだろうが、蝶を足場に移動するには大きな制約が存在する、もっとも、それを教えてやる道義はないのだが。
通り抜けた風の影響を受けたのか、直撃を免れた蝶も再び飛行を乱して狂い舞っていた。蝶たちが不規則に動き、ほんの一瞬だけアドニスとユタの間に壁を築いた。いや、ユタが再び風を撃てば脆く四散してしまうのだから、壁とは言えない。カーテンだ。互いに互いの姿が見えなくなるだけのカーテン。
同じ「見えない」であっても、ユタとアドニスでは条件が違う。ユタの風は大雑把ながら広範囲を攻撃できる。しかし、アドニスの武器は正確に相手の位置を見定めてこそ真価を発揮する。
「ユタと申しましたか。あなたならきっと自分が優位であることに気付いておいででしょう。視界が遮られた状況なら私からの攻撃は不可能だと。そして、蝶のカーテンは飛行の乱れで”偶然”できたものであり、チャンスは短いと!」
視線はやらないが、リークウェルがアフディテの方に向かっているはずだ。蝶をバラ撒いておけばそう簡単には接近できないだろうが、何しろ百戦錬磨だ。実戦経験の乏しいアフディテを出し抜く手段などいくらでも講じられるかもしれない。
とにかくダラダラと時間をかける余裕はない。最速で、確実にユタを仕留めるための舞台はすでに整ったのだ。後はほんの少しの動作で完了する。
「ハァッ!」
今度は演技でなく、真に気合を込めて指を動かす。それで完了したはずだ。カーテンの向こうで一つの命が奪われたはずだった。
(さぁ……どうだ!?)
細い指に、確かな手応えが帰って来た。それを確認するのと、カーテンが破れて風が突っ込んできたのはほぼ同時だった。
「くっ、やはりしぶとい……!」
一瞬早く気配を感じたため直撃は回避したものの、バランスを崩して足を踏み外した。ここで慌てて体勢を整えようとするほど愚かではない。勢いに逆らわずあえて肉体を落下させ、途中で数回蝶を蹴って衝撃を緩和し地面へ着地した。
「危なかった。ほんのちょっぴりでも気を緩めていたらやられていたかもしれません。しかしそれはお互い様でしたね」
アドニスの指は、左右十本全てに指輪がはめられている。そして、肉眼で確認することは困難だが、それら一つ一つに細いワイヤーが生えていた。両手の人差し指から出たワイヤーは地面を伝い、先ほど地面に叩きつけられた鉄輪に繋がっていた。しかし、その鉄輪は今は地面にはない。
「これは落とさせるために投げたのです。一度地面に落ちてしまえば、それが再び動くなど考えにくいですからね」
視界を遮られ、ユタが追撃に出ようとした瞬間。それは同時に風の防御が弱まる瞬間でもあった。
「ユタッ!」
叫び声が響いた。視線をやると、リークウェルがアフディテに向かう足を止め、ユタを見ていた。
アドニスも今一度獲物の少女を見る。出来栄えは八割強といったところか。首を切断するには至らなかったが、その付け根付近に二つの鉄輪が突き刺さっていた。