第176話・小細工
私情を極力押しとどめ、リークウェルはあくまでも客観的に思考を回転させる。
――サダムがいったん退いたことは、どちらかと言えば吉だ。ただ一回の攻防をかわしただけだが、サダムに底知れぬ力が秘められていることは十分にわかった。その力を加えた三人を同時に相手するより、将軍二人を先に片付けたほうがずっといい。相手がさらに増援を呼ぶ可能性もあるが、予想ではそろそろダグラスも追いついてくるはずだ。ダグラスが来れば戦略が広がる。
(問題は。今オレが最も問題視しなければならないことは……。目の前のこいつらがどれほどの実力者なのかということだ)
アドニスとアフディテ。どちらも若い。年齢のことを言うならばリークウェルやユタのほうが年下になるのだが、今まで戦ってきた相手の中では最も若い。
(アドニスの武器はあの飛び道具だな。夜闇の中にしてはかなり狙いが精密だ。威力は……一撃で骨を断つほどの重さはないが、遠距離から肉を裂く程度の鋭さは持っているようだ。隙を突いて急所を狙うタイプだな)
皮肉にも、リークウェルも似たようなものであった。飛び道具をかわし、接近出来るか否かに勝敗がかかっていると判断した。
(しかし、女の方は何者だ? 武器らしいものは持っていないからおそらく『紋付き』なのだろうが、それ以前に戦う意思があるのか?)
アフディテの姿を見ればリークウェルでなくともそう思うであろう。『紋』の能力と使い方次第では女、子どもであっても戦場に立つことは出来るが、アフディテからは戦意や殺気が微塵も感じられない。砂漠の国で育った割には青白い肌。光の弱い、どこか虚ろな眼差し。戦場よりも病院のベッドにいる方がよっぽど似合っている。
(逆にいえば、あの状態でも戦えるほど強力な『紋』を持っているということか。じっくりと正体を見極めてから叩きたいが……後にサダムが控えている。早めにつぶしたほうがよさそうだ)
リークウェルは意を定め、ユタに視線を落とした。視線に気づいたユタが目を合わせ、再び前方の敵に向き直るまでわずか二秒。この間に無言のコミュニケーションは完了していた。
薄く口を開いて外気を取り込み、唇を軽く結んで閉じ込める。足裏に力を込めて助走をつけ、湿りのある空間を裂いて跳躍した。人間一人を軽く飛び越せるほどの跳躍だが、このままではアドニスまでの距離が遠くあまり意味がない。
「いくよ! リク!」
ユタの気合が響くや否や、突風が吹いてリークウェルの背中を強く押した。背後だけでなく下方からも風が突きあげ、飛距離と速度を飛躍的に増加させた。巧みに風に乗ったリークウェルは高く舞い、アドニスとアフディテを見下ろしながら越えていく。
「シッ!」
当然それを黙って見過ごされるわけもなく、銀に輝く二つの鉄輪がリークウェルへ放たれた。海鳥が水面際の魚を捕える様を上下逆にしたかのように、刃が獲物へ滑空する。だがリークウェルは魚ではなく、サーベルの一振りでたやすくそれらを弾き飛ばした。
刃はユタへ向けても放たれていた。リークウェルへ投げたのは別に、しかし同じタイミングで。こちらも二つが並んで飛んでいたが、ユタの体へ届く前に地面へ叩きつけられた。風のシールドはとっくに展開されていたのだ。
「どうした、将軍。背後は取ったぞ」
靴が土を踏み、リークウェルは着地した。着地点は狙い通りアドニスの背後、かつサーベルの射程範囲内だ。
戦慄の背中合わせ。二人の男が同時に互いを振り向く。スピードはやはり若干ながらリークウェルの方が早い。振り向きざまの目にも止まらぬ一閃がアドニスを襲う。
(むっ……)
リークウェルがかすかな違和感に気付いた一瞬あとに、サーベルの刀身が何かにブチ当たった。当たっただけで斬ることが出来ない。鉄の円盤で防御されたことは目で確認せずとも理解できる。そして、リークウェルの足は地表を滑るようにアドニスから遠ざかった。
ここまでは概ね、リークウェルの予想通りであった。左手でサーベルの刀身に触れると、そこに違和感の正体を発見できた。やはり、小細工だ。刀身に巻きついていたのは、透明の細いワイヤーであった。アドニスが投げたのはワイヤーのついた鉄輪であり、サーベルで弾くとワイヤーが巻きつくように計算されていたのだ。
(この程度でオレの剣を封じたつもりか? 今の一撃は糸を引っ張ってどうにか防げたようだが、糸を外してしまえば問題はない)
左手でワイヤーをつまみ、素早くサーベルを引く。あっさりと束縛は解除された。
「く……っ!」
アドニスが両手を広げ、刃を飛ばしてきた。こちらにも同じワイヤーがついているのだろうが、そうだとわかっていれば対処は出来る。リークウェルは狼のように身を低く屈め、そのままの姿勢で地面をなぞるように跳んだ。頭上スレスレのところで刃をかわし、一気に再び距離を詰める。
接近戦なら分はリークウェルにある。後は押しの一手だ。
「ハッ!」
息をもつかせぬ突きの連打。アドニスは懸命に両手の鉄輪で防ぐが、徐々に速度が追い付かなくなってきている。サーベルがその手首をかすめたとき、たまらずアドニスは後方へ跳んで退いた。リークウェルは逃がすまいと距離を詰める。が、その前にほんの一瞬だけ頭を下げた。直後に風を斬る音がリークウェルの背後から迫り、放たれた際を再現するかのように頭部をかすめてアドニスの手元へ帰っていった。
「糸自体は細くて見えずとも……貴様がそれを繰る指の動きは十分読める」
アドニスに反撃の隙を与えず、全霊をかけて攻める。
(今だ……。『押せ』)
心の中で小さく命じる。と、遠ざかろうとするアドニスの体が逆に近づいてきた。その涼しげな顔に巨大な汗が流れているところを見ると相当有効だったようだ。ユタの風でアドニスを押し戻すのは。
風のタイミングは完璧だった。虚を突かれて無防備に近いアドニスの首へとどめの一撃を放とうとした、まさにその瞬間であった。
「……風が、吹いた」
小さな言葉が、横からそっと届けられたのは。