第165話・若き将軍の悩み
雨は降っていないが、あたりの湿気は高く、洞穴内の壁や天井は霧を吹いたかのように濡れ、いたるところから露が滴っていた。季節の割に涼しいと言えば涼しいのだが、高い湿度のせいでそれほど快適とは言えない環境だ。
この洞穴は奥に進むほど地下に潜っていく構造になっており、その最深部は作物の貯蔵倉庫になっていた。なるほど、湿度の高いこの島では、生鮮物の保存が難しいのだろう。地下深くは気温も湿度もほぼ安定しており、洞穴の入り口付近と比べれば遥かに快適だ。だが、そこは今サダム王と宰相グック、科学者サナギ、サナミの仮眠室と化している。
(しかし……)
アドニスは、傍らに横たわる木箱を見下ろして小さくため息をついた。木箱というより、それはまるで棺桶だ。人が入れる大きさで、蓋の上に空気穴が数か所空いている。しかも、この中には本当に人が眠っているのだ。ただし死んでいるわけではない。そっと近付いて空気穴に耳を当てると、かすかに寝息を立てる音が聞こえる。
(こんな所に閉じこもっては、さぞ不快でしょうに)
アドニスの纏っている狩衣でさえ、たっぷりと夜露を含んで重くなっている。通気性の悪い箱の中に閉じこもろうものなら、さぞ内部は苦しいだろう。よほどの事でもない限り遠慮したい。そんな所に自ら入っている人間の心境が、アドニスには理解し難かった。
「”向かい風が吹くなんて気のせいです。”……まったく、あの言葉が裏目に出ましたね」
わざと怒ったかのように語気を強め、箱の空気穴を睨みつけるが、そこに本当の怒りの色がないことは誰の目から見ても明らかだ。
「アフディテ。そろそろ起きてください。私たちは見張りのためにこんな蒸し暑い所にいるのですから。もうすぐ王や宰相殿が起きてこられる時間ですよ」
そう言って軽く箱を揺すると、さすがに深くは眠っていられなかったのか、箱の中でもぞもぞと動く気配がした。
「ん……」
「起きましたか。……どっちみち、その格好では起きていても寝ていても見張りの役には立たないと思いますが。ともかく王の仮眠中にこの場所を見張っておくのが私たちの任務です」
「……どうせ、誰も来ないよ」
弱々しい声で反論が返って来た。
「誰も来ない、確かにそうですよ。私はずっとここであたりを警戒していましたが、人の気配はまったくありませんでした。ですが、それは逆に問題でもあるのですよ。ウシャスの船を襲いに行ったナキルも、『フラッド』の撲滅に向かったヒアクも帰ってこないのですから」
箱は再び沈黙した。アドニスは構わず続ける。
「もちろん、彼らの強さは重々理解しています。五将軍の中で最も年若な私たちがこんなことを言うのは無礼かもしれませんが、彼らは一人一人が武装した騎兵隊をも上回る強さを持っていると思っています。ですが、アクタインの例もあります」
「……」
「我らがゼブ国に豪傑がいるように、ウシャスにも常識を越えるような兵がいるということです。『フラッド』の方は言うまでもありません。我が軍の大隊を一夜もかけずに葬ったほどの実力者です」
ゆっくりと、再び反論が立ち昇った。
「それなら、なんで一人だけで倒しに行かせたの? 少ない人員をむやみに分散させることは愚かな兵法だって、前に言ってなかった?」
「……海上での戦闘なら、ナキルとその信頼する部下の二人だけのほうがやりやすい、と本人が言っていたのです。ヒアクの方は、そもそも刺客を送るつもりはありませんでした。しかし、ヒアクがどうしても『フラッド』と戦わせてくれと言いだし、王がそれを許したのです」
「ヒアクが、どうして?」
「お忘れですか? かつて『フラッド』に壊滅させられた大隊を指揮していたのが、ヒアクだったのですよ」
「ああ……」
「あの人は一見、努力や苦労を嫌い楽をしたがる性格のように見えますが、それでは将軍など務まらないことはよく知っています。彼が今回用意した武装は、対『フラッド』用に自ら開発したものらしいです」
「私は、何も努力なんかしてない。アクタインやナキルみたいな鍛練なんかしてないし、ヒアクみたいに自分で武器をつくったりもしてない。それなのに私は将軍だなんて呼ばれて、この島にいる」
「アフディテ! もうそんなことばかり言うのはやめてください!」
今度こそアドニスは本当の怒りを見せた。ただし、それは半分以上が悲しみに覆われた怒りだった。
「あなたが将軍の位を授けられたのにもちゃんとした理由があるのです! この状況でこれ以上文句を言っている場合ではありません!」
そこまで言い切ってしまってから、アドニスは必死に口を閉ざした。このような言い方ではますますアフディテを追い詰めてしまうことを知っていたのに、仲間が戻らないという焦燥とうだるような湿気も相まって、言葉の刃を抜いてしまった。
(……仲間の強さを信じていると言っておきながら、この焦り。私もまだ未熟者だ。アフディテに強く言える立場ではない)
そうは思っても出した言葉は口には戻らず、とっくに空気穴を通って箱の中に届いている。
「ごめんなさい……」
抑揚のない一声だけが空しく返って来た。
ざわっ、と木の葉の擦れる音がこだまし、アドニスは洞穴の外に目を向けた。人の気配はなく、ただ風が吹いて木を揺らしただけだ。風は洞窟内にも柔らかに吹き込み、湿ったアドニスの頬を静かになでた。そして肌に張り付いた汗とも露ともつかぬ水分を飛ばし、ほんのわずかではあるがアドニスに心地よさを与えた。
(この程度の風なら、人は喜んで迎え入れる。なのに彼女は風を嫌い、自らより劣悪な環境に閉じこもっている。……私では、彼女を救えないのでしょうか)
アフディテに聞こえないよう慎重に、しかしその範囲内で可能な限り大きなため息をつき、アドニスは軽くまぶたを閉じた。が、まぶたはすぐに開かれた。
アドニスの君主、ゼブ王サダムが、二人の会話が聞こえる位置に立っていた。