第153話・悪魔誕生
この物語の中で、最も悲惨な目に遭わされた人物。それはベールという男に他ならないだろう。彼の最初の不幸は、あの恐ろしい男の弟としてこの世に生まれてきてしまったこと。第二の不幸は、彼の能力や精神が兄の狂気を止められるほどの強さを持っていなかったこと。
「クケ、クケ、お帰りベールや。奴らに少しは手傷を負わせた、せたかい?」
サイシャの島の西端に、小さいが自然につくられた洞窟があった。黒翼のベールはその洞窟の入り口に降り立ち、中から現れたサナギに迎えられた。
白銀に輝いていた翼は漆黒に塗り替えられ、男としては華奢だった肉体は常人の何倍にも膨れ上がり、角や尻尾など、人間であった頃にはなかった”付属品”の装飾が施されている。朝露のように静かな光をたたえていた瞳は、無機質な光源と化していた。
この醜怪極まる悪魔の姿から、いったい誰がかつての青年ベールを思い起こすことが出来ようか。彼がこんな姿になってしまった理由はもはや言うまでもない。彼の兄と、サナギ、サナミの三人による改造の結果である。彼の兄が使ったフェニックスの力により、彼の肉体は蘇った。だが、そこに彼の魂はない。代わりにあるのは、彼の『紋』を構成していた魂のみ。この条件がどのような現象を起こすのか、それはサナギ達にも想像出来なかったが、結果だけを述べるならば、彼は半ば人形として蘇った。
生きてはいるが、生きているだけ。『紋』を構成していた魂が彼の肉体を支配するという可能性もあったが、どうやらその様子はない。餌を与えれば、獣のような仕草で食う。それ以外の時間は無感情な目でうつむいているか、眠っているだけだ。生きた屍という言葉が何よりも似合う彼に対し、彼の兄はさらに残酷な実験を試みた。
『翼……。フェニクスは紅蓮の翼を持っていたな。その力を手に入れた私も当然同じ翼を持っているはずだ。が、せっかくだ。こいつの唯一の利用価値であった翼を、もっと有効に使いこなしてみせようじゃないか』
彼の兄は膨大な生命力を発生させ、彼の肉体へ注入した。一人の人間が生きるにはあまりに過多な量のパワー。それは、コサメが六年の歳月をかけてテンセイの肉体を強化させていたのと同じ現象を、短時間でやってのけた。膨大すぎる力は肉体に急速な進化を促し、驚異の変貌を遂げさせた。
肉体は変化しても、精神は戻らない。彼の兄やサナギ達は、彼を家畜のように扱うことに決めた。餌を食うからには、ごくわずかな本能らしいものは残っているようだ。それを上手く調教してしまおうと企てたのだ。
『フッ、よかったなベールよ。と言ってもお前の魂はここにはいないのだがな。慈悲深い兄からのせめてもの手向けだ。これからもお前のことをベールと呼んで傍に置いてやる』
これ程の屈辱があるだろうか。死してなお肉体を弄ばれ、名を汚される。彼の魂がここに存在せず、故に屈辱を感じることすら出来ないことだけが救いか。
しかし、彼への侮辱はまだ続く。研究所に戻った後、今度はサナギとサナミによる改造が待ち受けていた。
『ベールはお前たちに預ける。私は他にやらねばならないことがあるのでな。……フフ、これから大忙しだ。神にふさわしい力は得た。次は名だ。人々が私を神と認めるようになるまでには少々時間を要する。舞台もこしらえなければならない。無計画に力を振るうだけでは過去の暴君と同じで、品がないからな』
彼の兄はそう言い、己の計画のために行動を開始した(後にサナギがゼブ国と手を組むのもこの計画の一端である)。それまでの間、サナギとサナミは彼の肉体を好きなだけ改造する権利を与えられた。道徳心の欠片もないこの姉弟にとってはこの上ない玩具だ。
『クケ、ケケケ。どうせなら、なら、もっと最大出力を上げたい、たいね』
『クケケ、そうだねぇ。せっかくあの方から、から、膨大な生命力を与えられてるんだ、だ。今の人間の格好では、では、それを存分に活かし切れない、ない』
『全身をもっと巨大に、に、するのはどうかね? 空を飛んで何かを輸送するにも、も、その方が都合がいいだろう』
『いいね、いいねぇケクク。元の姿かたちにこだわる必要は、は、ないね。あたし達やあの方のお役に立つように、に、機能性を重視しよう』
『いやいや、ここはあえて……クケケケケ! 我々の神に背いた愚か者として、して、思いっきり醜い格好にしてやろうじゃあないか』
『ケクケケケケッ! 素晴らしい、素晴らしいアイデアだよ、クケケ! そうだ、だ、童話か夢物語に出てくるような、な、悪魔を連想させる姿にしてやろうか』
『クケ、クケ、ケーッ!』
悪魔。この二人こそが人の皮を被った悪魔だ。悪魔の手の中に落ちた彼の肉体はなすすべなく黒に染められていく。
『おっと、大事なことを忘れちゃあいけない。我々の言うことを、を、ちゃんと聞くように、教育してあげなくては』
『それもそうだ、だね。全く言葉が通じないというのも、のも、不便だ。……犬ですらお手やお座りを覚えるんだ、だ。肉体のベースが人間ならば、ならば、やりやすいだろう』
全ては姉弟の意のままであった。彼の兄もまた、この改造計画を絶賛した。不幸な敗者に、剥き出しの悪意が容赦なく突き刺さる。そして計画は恐ろしく順調に進行していった。
――こうして、黒翼の悪魔ベールが誕生した。鉄の柱をもへし折る怪力、三日三晩飛行を続けても速度の落ちない翼。銃弾をたやすく跳ね返し、刀を当てれば刃の方が砕けるボディ。サナギ達の命令だけを聞き入れ、その身を守ることを何よりも優先するようにプログラムされた生物兵器。彼の兄が己の計画に没頭し、弟への興味をほとんどなくしてしまったため、結局彼はサナギの研究所で護衛兼運搬具の名目で飼われ続けた。
六年の歳月が経過し、彼は、実の娘コサメ、そして親友テンセイと再会した。だがそれでも黒い仮面が剥がれることはなかった。かつてベールと呼ばれた青年の魂は、もうそこにはないのだから。