表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
147/276

第147話・天晴

 魂を統べる暴君と、生命を司る神。人智を超えた二つの力がぶつかり合い、世界の一部が乱された。生と死のサイクルが入り混じり、行き場をなくしたエネルギーが破壊の光となって放出される。


 無力な人間が光に潰され、聖なる領域から蹴落とされた。




 ――温かい。体が、柔らかな温かさに包まれている。ベッドに潜り込んだときの温かさでも、人と触れ合ったときの温かさでもない。だが、全く体験したことのないものでもない。ごくわずかだが、今までにもそれを感じたことはあった。


 ああ〜、あ〜、と叫ぶ声が聞こえる。閉じたまぶたの向こう側で、誰かが声を張り上げて泣いている。赤子の声だ。


「あっ……」


 テンセイは目を覚ました。まぶたを開けてまず視界に入ったのは、青い天井だった。どこまでも高く、遠い天井。それが空だと気付くのには少し時間を要した。テンセイの知っている「空」はいつも雲に覆われて灰色に染まっていたのだから、青く晴れた空を見るのは実に稀であった。


「空が……晴れてる」


 テンセイは、島の崖縁に横たわっていた。いつもは雨に濡れている土が、今はほのかな温かみを持ってテンセイの体を支えていた。緑の香りが鼻をくすぐる。波の音が聞こえる。崖に打ち付ける荒々しい波音ではなく、静かに寄せては退く潮のリズム。


「んあーっ」


 すぐ近くで、誰かが呼んでいる。その人物は、テンセイの胸の上に乗っていた。白い布に包まれてぎゅっと体を丸め、しきりに高い泣き声をあげる人物。


「お前……は、無事だったのか?」


 テンセイは上体を起こし、泣きじゃくる彼女を腕に抱いた。彼女は、ヒサメとベールの子ども。この世に産まれたその瞬間、悲劇の最中に身を落とされた哀れな少女。顔を真赤に染め、ありったけのシワを顔の真ん中に集めて泣いている。歯の揃っていない口が裂けんばかりに大きく開かれるのは、見ていて痛々しい。


「……泣くな」


 テンセイは言った。しかし、赤子は泣きやまない。


「泣くな」


 今度は口調をハッキリとさせ、命令であることを強調した。それでも赤子は泣いている。


 少しの沈黙の後、テンセイは再び口を開いた。


「泣くな、コサメ」


 泣き声が、止まった。コサメと呼ばれた赤子が目を開いてテンセイを見上げる。ベールから受け継いだ海色の髪。ヒサメによく似た大きな瞳。テンセイにとって、とても、とても大事な命。


 赤子が、コクリと首をもたげた。その首の後ろに何やら赤いものが見えた。テンセイは赤子をうつぶせに寝かせ、それを確認した。柔らかな白い肌に、堂々と居座る赤。それはベールの翼の付け根にあったものと同じ、『紋』であった。


「お前、『紋付き』だったのか? 全然気が付かなかったな」


 テンセイが何気なくその『紋』に触れた。すると……。


「生きるのはお前だ」


 声が聞こえた。耳の鼓膜を介してではなく、『紋』に触れた指先から、腕を伝い、胴を伝って脳に届いてくる。


「だっ、誰だッ!? 誰の声だ!?」


「人が人を救うには、必ず犠牲が伴う。人の命を救いたければ、別の命を差し出さなければならない。一人を救うには一つの命。それがこの世界の生命に関する掟だ」


 声の主は、どちらかというと女性のように思えた。しかし、若いようでもあり、年老いた者の貫録に溢れた声のようでもある。ともかく理解できることは、この声の主はただ者ではないということだけだ。


「私の聖域に近付いたお前は、裁きによって消える運命にあった。だがあの女がお前を生かそうとした。自らの命を私に捧げ、お前を救うように懇願した」


 ”あの女”。テンセイの脳裏に浮かんだ人物は、たった一人しかいない。


「私はそれを聞き入れた。あの状況下では、私も新たな力を欲していた。悪くない取引だった」


 声は、それきりで途絶えてしまった。潮騒を除いて、あたりからは何も聞こえなくなった。


 テンセイは体の向きを変え、島の中央へ目をやった。


「……ばか」


 青空を背景に、至天の塔がそびえている。その姿が幾分かすんで見える。まるで、全ての作物を収穫したあとの農地のような、役目を終えた寂しい哀愁が漂っていた。


「バカ野郎、ヒサメ。お前がいなくなってどうすんだよ。オレが、オレの方が、お前を助けたくて頑張ってたってのによ。オレは、お前たち夫婦に幸せでいてほしかったのによォ」


 テンセイの記憶の中。聖域で炎に包まれた影の人物の足元に、もう一つ影が横たわっているのを見たような気がする。それがベールの果てた姿であったのだと、テンセイはこの時確信した。


「ベールも、ヒサメも、バカだ。自分のガキを残して、勝手にいなくなりやがった。……オレが、一番バカなのに、生き残っちまってる」


 熱いものがこみ上げて来て、目頭に集まった。しかし、そこから目の外へは流れなかった。赤子に「泣くな」と言った以上、テンセイはもう絶対に泣かないと誓った。


 背後で物音がして、テンセイは海の方を見た。青い海の上を、一艘の船が滑っていくのが見えた。テンセイの村にはない、機械仕掛けの船だった。


「まさか」


 あの船に村を襲った人物が乗っているかもしれないと思い、テンセイは目を凝らして船の甲板を見る。だが、機械の船はテンセイの予測を越えた速度で遠ざかて行く。甲板に複数の人間が動いているらしい姿は確認できたが、みな黒い布のようなもので身を隠しており、顔は見えなかった。


 船が視界の外へ去っていく。それをじっと見ていたテンセイは、ふと思いついた。


「なぁ、コサメ。オレ達もこの島を出ようか」


 ずっとこの島にいたら、何が起こるかわからない。外の世界へ踏み込もう。テンセイは決心した。木を切り倒してイカダを作り、海に下ろした。とても粗末なイカダではあったものの、テンセイはそれで十分だと考えた。青く晴れた空と海を見ていると、全てが些細な問題のように思えた。


 そしてテンセイは赤子を連れて島を離れた。北へ、北へ。旅の途中、不思議に腹もへらず、のども渇かなかった。赤子も同様だった。ほとんど飲まず食わずで北へ進む。


 二人がウシャス領の小さな島にたどり着き、ラシアと名乗る老人に拾われたのは、旅立ちから十日後のことであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ