第146話・断罪の聖光
歌い手が数を増やし、歌声は徐々に大きくなっていく。悪夢の賛美歌が赤い空間をドス黒い空気で埋め尽くしていく。
影の人物が、右の手のひらに何かをのせている。やはり炎が邪魔でハッキリと見えないが、一辺三十センチの正方体のようであり、上部分が三角状に尖っている。家かなにかの建物を縮小したもののようだとテンセイは感じた。歌声はそこから聞こえてくる。
「このホテルは、全ての望みが叶う場所。他人に押し付けられたものではなく、純粋に己の本心が望む世界を描き出してくれる。魂を持つ者はどんな生物であろうと望みを持つ! 人間はもちろんのこと、家畜や魚、虫ケラの一匹一匹や植物、全ての生物は魂を有し、それ故に望みをも有する! お前とて例外ではないッ! フェニックス!」
影の声は、さすがに少ししわがれていた。炎に包まれているのだから、まともに声が出せるのがおかしい。いや、いまだに消し炭になっていないことがすでにおかしいのだが。かすかに肉の焼ける悪臭を漂わせつつ、男はまだ何事か叫んでいる。もだえ苦しむフェニックスに向けて、勝利の言葉を吐き続けている。
「望みの実現を目の前にしたとき、魂には隙が生じる。どうしても望みに目を奪われるッ! 我がホテルは、そんな魂どもを引きつけるのだ!」
男は、高々と勝利を宣言した。
「いただくぞフェニックス! お前の魂を!」
フェニックスが、悲鳴を上げた。
フェニックスの身を覆っていた炎が、弱まりはじめた。あたりを照らして赤の光が、その届く範囲を狭めていく。弱まり小さくなって消える炎の下から、フェニックスの肉体が現れた。それは実に貧相な印象を与えた。例えるなら、毛を刈り取られたばかりの羊のようだ。直接的な外見の変化はさほど見られないが、初めにあった神々しさが大きく削がれている。もしもフェニックスに表情があるとしたら、激しい疲労と憔悴の色を浮かべているに違いない。少なくとも、再生には失敗している。
(まさか……フェニックスが、死ぬ……?)
霞がかかったような頭で、テンセイはぼんやりと考えた。目の前の異常事態に状況の把握がついていけず、思考というよりも直感と予感で物事をとらえている。テンセイの瞳に写るフェニックスの姿は、不死鳥としての威厳が微塵も感じられなかった。
「……ウソだろ。神なんだろ? フェニックスってのは。……なぁ、そうじゃなかったのかよ」
幼い頃から聞かされていたフェニックスの神話。テンセイは心の底から信じているわけではなかった。しかし、今となってはフェニックスの存在だけが救いだったというのに。
「き……消えるなフェニックス! 頼む! ヒサメを助けてくれ!」
傍観者でいることに耐えられず、ついに叫んだ。心の奥からの懇願だった。
フェニックスが首を動かし、テンセイの方を見やった。そして……。
クアアアァァアアアアア。ひと際高く鳴いた。空間が震え、足元が揺れる。
「ぬうっ! おのれ……ッ!」
今度は、影の男が焦りの気配を発する。
フェニックスが両翼を限界にまで張り広げた。その瞬間、フェニックスの胸のあたりから、白い光が放出された。それは瞬く間に聖域に広まった。フェニックス自身が放った赤い炎をも飲み込み、再び白い光が空間を埋め尽くしていく。しかし、その光はもともとこの空間にあった光とは異なっていた。
「がっ……」
テンセイの口から、血の塊が吐き出された。重い。光が重い。光が広まったその瞬間、テンセイの肉体は凄まじい圧力に押しつぶされた。
「ぐぅ、おぉ……っ」
たまらずひざをつく。腕の力が急になくなり、ヒサメの体を足元に横たえさせることすら困難だった。ミチリ、と嫌な音が肉体の内側から響いた。間をおかず、全身のあちこちの血管が一斉に千切れだした。皮膚が裂け、肉が割れる。テンセイはもう、頭をあげることすらできなくなっていた。異常なまでの苦痛に圧迫され、ひれ伏すように頭を垂れているばかりだった。故に、これから後に起こったことは何も見れず、また耳を貸す余裕もなかった。
これは、神の反撃だった。無礼極まる人間たちの暴行に、フェニックスがその牙をむいたのだ。
(生命の神……フェニックス……! この世界に、新たな命を、産み出す……大いなる、存在。だって、そうやって、聞いてたぞ……?)
神は、いつまでも温厚ではない。人に裁きを下してこそこの世に君臨できるのだ。
彼の正義の前では誰もが罪人。彼の聖光の前ではいかな灯も闇。彼の法の前ではいかな理も嘘。神が神たりえる、絶対拒絶の光。
体温が異常に高まる。体中の水分が蒸発してしまいそうだ。血液が狂った獣のように暴れ、ところかまわず体外へ噴き出して行ってしまう。呼吸が詰まる。眼球が乾いてヒビ割れる。
「あ……ぅあ」
どこまでも惨い処刑だった。いっそ苦痛だけであれば、テンセイは早々に舌を噛み切って自決できたかもしれない。光はそれすらも許さない。全身がボロボロに打ちひしがれているのに、あろうことか! 脳へつながる神経には、ごく微量ながら快楽の刺激までもが与えられていた。肉体の崩壊に伴い、逆に精神は高揚としていく。抗うことの出来ない究極の勅命。死へ逃げることすら許されない。
骨がきしむ。細胞が老いて干からびていく。快楽の刺激だけが、強く、強く、脳へ突き上げる。全てが白く染まる。
テンセイは思った。
(ああ……。やっぱり、ここが天国か。限りなく地獄に近い天国だ)
影の男はどうなったのか、フェニックスの傷はどうなったのか、それら一切は関心の外に飛んでいた。
(ここは人間の来ていい世界じゃなかった。天国は死者の行く所。生きた者は立ち入ってはならない。神に近付くことは決して許されない)
ドロドロに黒く濁った涙が顔を濡らす。
(幻は……伝説は……。現実に出会っちゃいけなかった)
もう何も見えない。
――赤子の泣く声が聞こえたような気がする。それきり、テンセイの意識は途絶えた。