第144話・兄の務め
テンセイは、白い空間をひたすら走った。どうしたことか、これまでの疲労が消えていた。ヒサメとその子どもを抱えてずっと階段を上っていたというのに、この奇妙な空間に入った途端全ての疲れが癒えた。むしろ、今まで以上に力強く肉体が躍動し始めた。
「この感覚……まるで使ったそばから体力が供給されてくみたいだ……。ベールから聞いた自動車ってのは燃料さえあれば休みなく動き続けるらしいが、まさにそれだ。体力の燃料が体の中に送り込まれてくる」
フェニックスが近くにいることの証拠だとテンセイは判断した。ヒサメはまだ目を覚まさず、胸に抱かれた子どもも再びまぶたを落として寝息を立てている。フェニックスに力を与えてもらえば、ヒサメは完全に復活できるかもしれない。
期待を抱いて走り続けていると、遠くに仄かな灯りを感じた。白い空間の一角が、赤く滲んでいるように見えた。夕日にも似た赤の中に、二つの影が揺らめいている。そのうちの一つには翼があった。
「ベール! そこにいるのかッ!」
テンセイは赤へ向かって駆けだした。その先に待ち受けているものが希望か、それとも絶望か。テンセイは少しも考えなかったが、後に嫌というほどその答えを思い知らされることとなった。
「無様な弟よ。お前の持つちっぽけなナイフで、この私を止められると本当に思っているのか?」
まったくここまで来ると、無知だとか無謀だとか、私を侮辱する行為だとか、そんな言葉で表現することすら生ぬるい。あえて言うなら、ふざけた現実逃避といったところか。
弟は、翼で炎から身を守りつつ、両手にナイフを握っている。唇をぎゅっと噛みしめ、おそらくはありったけの殺意をこめて私を睨みつけている。
「似合ないことをするな。殺気だの殺意だのという類のものは、お前には向いていない。真に意志を持って人を殺めるには、それなりの精神力が必要なのだ。平穏を好むお前にはその力も資格もない」
弟が眉を潜めた。ほうら、見ろ。たったこれだけの言葉で容易く動揺してしまう。弟は何もわかっていないのだ。
「……それでも、僕はあなたを倒す! もう覚悟を決めたんだ」
「は、覚悟ときたか」
やはり、ふざけているとしか思えない。
「もう全てを覚悟してきた。僕の命がどうなっても……絶対に兄さんを倒す!」
「ふざけるなベール!」
せめてもの、兄の務めだ。世間知らずの弟に現実を教えてやらなければ。
「覚悟を決めれば希望が叶うのか!? 自分一人が犠牲になれば全てが救われるのか!? 違う! 弱者は所詮弱者のままだッ! 弱者の覚悟など塵にも等しい!」
私は短刀を構え直し、弟に躍りかかった。私の全身には炎がまとわりついているが、まだ皮膚を焦がすにも至っていない。弟もまたナイフの構えを変えた。……まるでなってない。私の一撃を防いで反撃を入れるつもりなのだろうが、重心の位置も、ナイフの持ち方も、素人が思いつきで取った構えにしか見えない。いっそのこと防御だけに集中していれば万が一の可能性もあっただろうに、次の反撃を考えているから気の入り方が中途半端だ。
「出来そこないめが……もうお前は私にとって必要ではない!」
私は短刀を振るった。刃は弟ごときには決して見切れないスピードで走り、男にしては柔らかなな筋肉に深く突き刺さった。確かな手応え。傷口から刃を伝って私の手に流れる、鮮血の温かさ。
「うっ……あぁ……っ!」
弟の口からうめき声が漏れる。どうだ? これが現実だ。付け焼刃の覚悟なぞ何の意味もないことを思い知ったか。
「ま……まだ……っ」
処分は終わった。私は弟の胸から短刀を引き抜き、服の端で血を拭った。便利な翼を失ってしまったのは残念だが、気にすることもないだろう。フェニックスの力と比べれば実に微々たるものだ。
「さぁ、待たせたなフェニックス! 姿を見せてみろ!」
逆巻く炎の中で、私は天を仰いで(今立っているこの場所がすでに天なのかもしれないが)声を張り上げた。神という奴は大体プライドが高い。この聖域に入り込み、これほどの炎に耐える人間の前に姿を現さないわけがない。
炎に焼かれながらあたりを見回していると、背後にドサリと何かが落ちる音がした。見ると、弟が倒れていた。どうやら今の音の発信源はこいつらしい。自分で殺しておいてなんだが、紛らわしい音を立てるな。
ふと、気がついた。階下で気絶させた弟がすぐに目を覚ますだろう、ということは予測していた。しかし、私は倒れた弟をベッドの下敷きにして、しばらくは動けないようにしていたはずだ。あの時に負わせた傷の具合と倒れた体勢では、あの大きさのベッドから逃れることは出来ないと思ったのだが。
「誰かが弟に手を貸したか。……まさか、な。これ以上余計な手間を取らせるな」
私は誰にともなくそう願ったが、聞き入れられなかった。こちらに近付いてくる人影が見えてしまったのだ。どう見てもフェニックスではない。炎に遮られて影しか見えないが、人間であることはわかる。
面倒極まりない。いい加減、周りの炎も息苦しく感じられて来た。とっとと邪魔ものを処分して早く本懐を遂げよう、と思った、その時であった。
頭上に気配を感じた。不覚ながら、全く接近されていることに気がつかなかった。気がついたらそれはもう真上にいた。
「そうか、神だからな。消えるも現れるも自由自在か?」
そう理屈つけては見たが、さすがに額に汗が流れる。身を焦がす炎も先ほどより一段と強まったようだ。奇妙なことだが、衣服は少しも焼けず、私の肌だけがチリチリと焼け始めている。やはり神というものは過剰な演出にこだわるものだな。
「やっと、やっと会えたな。フェニックスよ!」
私はその気配に視線をやった。近づいてくる人影などどうでもよくなった。
――いた。先ほどまで何もなかった空間に、幻の霊鳥が。紅蓮の翼を広げて私を見下ろしていた。