第141話・天国への階段
ベールは酷く取り乱していた。突然の襲撃者の正体と、ヒサメの死体(ベールの目にはヒサメが死んでいるように映った)。これまでの平穏な二年間を砕く二つの衝撃が、ベールの精神を圧迫して追い詰めた。
「落ちつけベール! いいか、よく聞け!」
テンセイはベールの両肩を掴んだ。しかし、ベールは耳を貸さない。
「僕は……行かなくてはならない」
「おいッ!」
「僕が兄さんを止めなくては!」
『紋』の輝きが増し、ベールの背中に白銀の翼が生え出した。ベールが天井の一角を睨みつける。そこには塔の上部へつながるはしごがあった。
「兄さんはフェニックスの元へ行った……! 僕でなければ止められない!」
「うおっ!?」
ベールがテンセイの手を払いのけた。凄まじい勢いだった。
「待て! 一人で行くなベール!」
テンセイは叫んだ。しかし、遅かった。ベールは止まらず、はしごに駆け寄ってあっという間に天井裏へ上った。すぐにテンセイはヒサメを抱き、その後を追ってはしごを上った。
「ベール!」
無限に天へと続く螺旋階段。上を見上げたテンセイの顔に、視界を遮るようにして一枚の羽が舞い落ちた。白銀の羽を払いのけると、羽の落とし主の姿が見えた。
ベールは翼を広げ、真っ直ぐに上へ向って飛んでいた。灯りのない塔の中で、その翼だけが光を放っているように見えた。光がどんどん遠ざかっていく。徐々に光が小さくなり、やがてテンセイの視界から消えた。ベールの翼はテンセイの予想以上の速度だった。
「……クソォ、待ちやがれベール!」
テンセイはヒサメを抱いたまま階段を上りはじめた。それは、どこまで上れば頂点なのか見当もつかない、ひょっとしたら何も報われないかもしれない、不毛の挑戦であった。だが挑まないという選択肢はあり得ない。止まってしまえば全ての可能性がゼロになるからだ。この瞬間からテンセイは、物事を途中でやめることを自ら禁じた。
階段を上りはじめて、どれぐらい経っただろうか。周りの景色は少しも変化しない。先を見上げても相変わらずの摩天楼が続くばかりであり、下を見ても同じような闇が広がっているだけだ。もう入口すら見れないほどに上っているのだが、一向に頂上へ近付いた気配がしない。呼吸が切れ切れになる。自分一人の体重で上っても頂上へたどり着けなかったのに、今はヒサメとその子どもを抱えて上っているのだ。しかもここに来る前にも散々走り回っている。疲労はとっくに限界にきていた。
「なぁ……ヒサメ。聞いてるか?」
疲労をごまかすためか、それとも長く無言だと不安になってしまいそうだからか、テンセイはヒサメに声をかけた。ヒサメはまだ目を覚まさず、というよりも、まだ生きているのが奇跡的な状態なのだが、テンセイは構わず言葉を続ける。
「オレさ……。ただ、我儘言ってただけなんだ。本当は……」
話しながらも、足は動かす。
「ベールの存在が長老達にバレたら追い出されるかもとか、本気で考えてたわけじゃあないんだ。ただ……独り占めしたかっただけだ。外の世界の話。村の誰も知らない世界の話を、オレが独りで聞きたくてベールを引きとめたんだ。もしベールが村のみんなに会ってたら……追い出されはしないだろうけど、少なくとも、塔には来れないだろ……? 掟だからな。それが嫌だったんだ」
運動をしながら会話をすることは余計な疲労を招くが、この時のテンセイは、逆に話をすることによって己を奮い立たせていた。
「それとさ。お前がベールのことを好きになるだろうってことも、最初から知ってた。ヘヘ、驚いたか? ベールを見るお前の目を見てたらすぐにわかったぞ。……オレはお前のことが好きだったから、すぐに気づいた」
笑顔すら浮かんだ。とても悲しい、そして寂しい笑顔ではあったけれども。
「気づいて、それで……利用しちゃってたんだよ。お前とベールをくっつければ、ベールを塔から外に出さない理由ができるってな。……本当、我儘だよオレは。そんでバカだ。自分でも自分が何をやってんのかわかんねぇぐらい、バカだ」
ヒサメの顔を見る。人形のように美しい顔は、かすかに呼吸をしていることに気づかなければ本当に死体のようだ。
ヒサメの抱いている子どももまた、眠っていた。たった今産まれたばかりの小さな命。テンセイは、ふと思いついて、子どもを包んでいる布を少しだけ払いのけた。布の下から安らかな寝顔が現れる。
「見ろよヒサメ。こいつ、髪の色が青いぞ。ベールと一緒だ。間違いなくお前とベールの子どもだ」
幼児の顔は男女の区別が難しいが、テンセイは直感的に女の子だと思った。鼻の形や目の位置が、ヒサメによく似ていたからだ。
「そうだ、ベールの奴、まだ子どもの名前決めてなかったんだよな。もう産まれちまったってのによォ。このまんまだと、オレが勝手に決めちまうぞ。一個だけ候補考えたんだけど、女の子だから丁度いいな」
話せば話すほど、テンセイの心が軽くなっていく。それに同調するかのように、歩調が徐々に速まっていた。
「コサメ、っていうんだ。どうだ? ベールはダメだっつってたからな。代案が出ない以上はこれで決定するぞ。……ベールに会って、ちゃんとした名前をつけてもらわなくちゃな」
もう一度、子どもの顔を見つめる。
「なぁ、お前はどっちがいい? オレの考えたコサメって名前か、ちゃんとお父さんに名前をつけてもらうか。へへ、もしかしてコサメでもいいのか?」
なぁ、コサメ。テンセイがそう言った瞬間だった。突然、子どもがまぶたを開いた。二つの丸い瞳が、テンセイの目をまっすぐに射抜いた。
「……え?」
気がついた時、テンセイは光に包まれていた。暗い階段にいたはずが、一瞬にして真っ白な空間に飛ばされている。果てが見えない。足元に固い素材の床があることは感じるが、それ以外には何もない。ただただ白い空間が広がっていて、テンセイはヒサメと子どもを抱いたままそこに立っていた。
「ああ、そうか……」
テンセイは理解した。頭の中に声が聞こえたような気がした。
ここが天国なのだ。