第139話・襲来
青い髪の男が、ハーケン(鎌のような形状をした崖登りの道具)を壁面に打ち込んだ。丹念に壁面の強度を調べ、己の体重を十分に預けられる足場を確保しながら、少しずつ海面から崖の上部へ登っていく。肩には束になったロープを担いでいる。
「私が上についたらロープを下ろす。お前たちはそれを伝って登ってこい」
出発前にそう言ったきり、男は下を振り返りもせずにぐんぐんと登る。早い。かなりのハイペースで登っていく。周辺の荒れた天候を考慮すれば、体力のあるうちにさっさと登ってしまいたいのは当然だろう。しかし、一手間違えて落下してしまえば、通常の人間ならば命の保証はないはずだ。が、男は少しも躊躇しない。力強く、それでいて正確な動作で体を運んでいく。修練を積んだ登山家でもこうは鮮やかにいくまいと思えるほどであった。
「いやはや……。さすが、が、万能だねぇ」
「クケ。この程度、あのお方にとっては、は、たやすいことなんだろうねぇ」
双子の科学者・サナギとサナミが男を見上げて話す。二人は船上に残っており、その船は壁面に杭で固定している。
「万が一、一、落ちたとしても、助ける手段は用意してたけどね、ね」
「必要なかった、たね。ククケ」
「あのお方は、は、全てを可能になさる。クケ。本当に、に、あのお方に会えてよかった」
「クケケ。やはり、私らは天に選ばれ、ばれたんだね。あの日、ここであのお方と出会うことができたのは、のは、ただの偶然とは思えない、ないね」
この科学者と青髪の男が出会ったのは、この時点から見ておよそ二年前。……ベールがテンセイに助けられた、あの日のことであった。サナギはゼブと手を組む以前から独自に『紋』の研究を行っているが、まだ『紋』と魂の関係までは知りえていない。その代り、『紋』の出現とともになりを潜めたフェニックスの伝説に興味を持ち、『紋』とフェニックスの間に何か関係があるのではという仮説を打ち立てていた。仮説を持ったなら確かめずにはいられない。サナギは早速サナミと共に船に乗り、サイシャの海域へ近付いたのだ。しかし、波は想像以上に酷かった。さすがの科学者も体力は人並み。また、それを補えるほどの装備もなかった。
「クケ、あの時は、本当に困った、たねぇ。せっかくここまで来れたのに、のに、崖を登る手段がなくて、くて、どうしようかと思ってた」
「そうしてたら、たら、あのお方を見つけたんだよね」
サナギが見つけたのは、崖と海面の交わる位置にうごめく男の姿だった。男は激しく衰弱している様子だったが、ヨロヨロと動いていた。どうやら素手で崖を登ろうとしているようだった。壁面の小さな亀裂に指をかけ、懸命に上を目指していた。風が吹き、壁面から引きはがされて海に落ちても、男は再び挑んだ。指先の皮膚が裂けて血に染まり、爪もはがれている。男は幾度も挑み続け、やがて元々鈍かった動作がさらに遅くなり、ついには壁面にしがみついたまま動かなくなった。
サナギとサナミは男を救助し、自身の船に乗せて連れ帰ったのだ。
「クケ、私はいまでも覚えとる、とるよ。あのお方の体に触れた瞬間に、に、感じた凄まじいエネルギーの流動を」
「ククケ、私もさ。まるで、で、このあたりの暴風を体の中に飲み込まれたかのよう、ように、憎悪と怒りのエネルギーが渦巻いとった。あのお方の肌に触れた瞬間、瞬間、自分の身が、がバラバラび切り裂かれるような気が、が、したね。思い出すだけで、けで、体が震えるよ」
そして、二人は男を伴って再びサイシャの地へ挑んだのだ。
二人が話している間に、男の姿は崖の上へ消えて行った。と、代わりに何かが崖の上から落ちてきた。ロープだ。
「クケ、もう、もうお着きになられたのかい。予想以上だよ」
「さぁ、私たちも、も、行こうか。……ほら、出てきな!」
この言葉に呼応し、船室の扉が内側から開かれ、五つの人影が出てきた。五人とも無地の黒いマントを纏っている。また、これまた黒いフードを被っており、その顔は影になってよく見えない。その姿は呪術師のようだ。だが、みな一様に背が低い。個人差はあるが、一番背の高い者でも、小柄なサナギと同じ身長ほどしかない。――それは、五人の子どもたちだった。
「しっかり、り、サポートするんだよ」
「お前たちを育ててやった、やった、恩義に報いる時だよ、よ。ちゃんと働きな」
先にサナギが、続いてサナミがロープにしがみつく。子どもたちは船の上に残っている。
そして、風が吹き始めた。あたりの暴風を押しのけるように発生した上昇気流が、二人の科学者を上へと登らせていく――。
「そういえば」
手持無沙汰に窓の外を眺めていたベールが、ふと思い出して言った。
「ヒサメに頼まれてたんだ。子どもの名前を考えておいてくれって」
「で、考えたのか?」
「考えはしたんだけど……まだハッキリと決まらなくて。男の子か女の子かもわからないしさ」
「ふ〜む」
昼寝から覚めたばかりのテンセイが、ベッドに寝転んだまま腕を組んだ。
「ヒサメの子どもだから、コサメでいいんじゃねぇか?」
「はは。もっとマジメに考えてくれよ」
ヒサメの出産はもう目前らしい。もしかしたら明日にでも産むかもしれないと村人が話していた。
「もうすぐでヒサメが帰ってくるのか。……そう意識したら、今すぐ会いたくてたまらないな」
「これからは四人生活だな。オレとお前と、ヒサメとコサメ」
「って、なに勝手に名前決定してるんだい」
「ハハッ」
と、その時だった。窓の外を見ていたベールが、ある物を発見した。
「あれ? 村人がやってくるよ。なんだか急いでるみたいだ」
「今日は食糧の配達日じゃねぇ。……ってことは、まさかもう産まれたのかもな! それで急いで報せに来たんじゃねぇか!?」
「と、とりあえず、僕は隠れておくよ」
テンセイが塔の外に出、村人を出迎えた。ベールの言った通り、村人(テンセイと幼馴染の狩人)は酷く慌てた様子だった。
「おーい、どうしたー?」
村人は応えず、ひたすら走って近寄ってくる。走り方がおかしい。背中を妙につっぱらせ、今にも倒れそうに走っている。
「村……が……ッ……」
村人がすぐ近くにまで迫った時、ようやくテンセイは気がついた。そして遅かった。村人は切れ切れの言葉を残したきり、大地の上にバタリと倒れた。その背中には大きな刃物傷があった。