第138話・吉報と災厄
ヒサメが子どもを身ごもったというニュースは、あっという間に島中に広まった。それは誰もが心から祝福する出来事だった。島で一番力の強い男と、島で一番美しい女の子ども。将来は必ず素晴らしい人間になるだろうと、まだ生まれる前から誰もが予想し、長老や老人衆は、防人同士が子を成すという了解が無事に成功したことに胸をなでおろした。
だが、誰も真実を知らなかった。ヒサメの胎内で徐々に膨らむ小さな命は、防人テンセイではなく来訪者ベールが発した種だということを。そもそもベールの存在自体がまだバレずに済んでいた。――そう、村人たちは誰一人、その最期を終えても真実には到達できなかった。
「それじゃあ、行ってくるね」
「おう、しっかり頑張って、元気な子どもを産めよ」
「ふふ。産まれるのはまだ先のことよ。まだ半年近くはかかるんだって」
妊娠したとなると、塔の中でこれまで通り生活するのは困難になる。ヒサメは、子どもを出産するまでの期間だけ防人の任を免れ、集落で過ごすことになった。その間テンセイは一人で防人を務め、妻と子どもの帰りを待つ。表面的にはそういうことになった。
「ごめんね、ヒサメ。本当は父親の僕が傍について助けなきゃいけないんだけど……」
ヒサメが塔から集落へ引っ越す直前、ベールはヒサメの手を握って言った。
「大丈夫よベール。その気持ちだけでも嬉しいわ」
「そうそう。男は黙ってドーンと構えてればいいんだよ」
テンセイが笑った。
「それだけなのはどうかと思うけど」
ベールとヒサメも笑った。ヒサメが無事に子どもを産んで帰ってくれば、また三人で笑うことができる。この時は、誰もがそう信じて疑わなかった。
ヒサメが出て行った日の晩、ベールはテンセイに向って言った。
「テンセイ、ありがとう」
「なんだよ急に」
「……初めてこの島に来た日。翼でここに飛んでくる途中に、自分はここで死ぬんだなって何度も思った。だけどテンセイに助けられて生きているし、ヒサメにも出会えた。あの時君があそこにいなかったらどうなっていたか……」
「いいんだよそんなことは。それに、お礼を言うのはオレとヒサメもだぜ。外の世界のことを色々教えてもらったし、ヒサメはお前の子どもを産めることを本当に嬉しがってる」
「ヒサメが喜んでくれるなら……僕も同じぐらいに嬉しいよ」
「オレもな」
テンセイはベッドに寝転がり、軽く目をつむった。一年以上もの間樹上で寝ていたせいか、久々のベッドの寝心地に違和感を覚えているらしく、しきりに背中を浮かせてもぞもぞと動いている。
「ヒサメがあんだけ喜んでくれりゃあ、オレとしても本望だ」
少しだけ、時間が止まった。やがてベールがおずおずと口を開いた。
「テンセイ……?」
「オレもヒサメのことが好きだったからな。アイツが喜ぶのはオレも嬉しい」
「えっ」
「最初にお前と会った日には、なんとなく……その、直感みてーなのが働いたんだよな。ヒサメは、オレじゃなくてお前とくっつく方が嬉しいって、そんな気がした」
「そんな……。それで、わざと僕とヒサメを二人きりにしたのか?」
「まぁ、結果オーライだ」
テンセイは笑っていた。薄く開いたその瞳には、一点の曇りもなかった。
間をおいて、ベールもかすかにほほ笑んだ。
「強引なやり方だね」
「オレは昔っから強引だぞ。なんだ、今ごろ知ったのか?」
男たちの笑い声が室内に響いた。
「なぁ、ベール。お前やっぱりこっちのベッドで寝ろよオレがそっちで寝るから」
「何で? 僕はいつもこっち側のベッドなんだけど……」
「ここ、ヒサメのにおいがする」
「そういうことか」
それから、さらに数か月の月日が過ぎた。
「たった一人で塔にいるのって、辛くないか? 話し相手が欲しいなら遠慮せずに言ってくれよ。塔の中には入れないから昼間だけだけどな」
食糧を届けに来た村人は、みなそう言ってきたが、テンセイは適当に言葉を濁してその場を切り抜けた。実際には二人なのだからそんな問題はない。それでも退屈なことに変わりはないのだが、そんな時、テンセイとベールは塔の上部へあがることにしていた。
この塔は一階部分の居住区にだけ天井があり、はしごを使って天井の上に登ると、そこから先は無限に続く螺旋階段になっている。この塔がいつ、誰の手によってつくられたのかは長老でさえも知らないらしいが、人のつくったものならば必ずどこかに終着するはずだ。しかし、この階段はどんなに上っても頂上までたどり着けない。上を見上げても、壁に囲まれた闇以外に何も見えない。
「はっ……はぁ……どこまで行きゃあ天辺に着くんだ、ここは……」
「もう、戻ろう、テンセイ。これ以上上ると後で帰るのが面倒だよ」
伝承では、この塔の頂上にフェニックスがいるということになっている。テンセイは本気でそこを目指して上っているわけではない。ただのトレーニングの一種のようなつもりであった。
「本当にいるのかな、フェニックス」
「なあベール。お前の翼なら、一気に飛んで行けるんじゃあねぇか? オレのことは気にせずに行ってみろよ」
「いや……いいよ。一人で得体の知れない場所に飛び込むのはもうこりごりだ」
二人はそんな会話をして塔を降りた。
ある日のこと。テンセイは村人からヒサメが出産間近だという情報を得た。テンセイとベールは心から喜び、村の人間も新たな住人の誕生を祝福した。
だが……。この日、またしても島の常識が覆された。島の北端の崖下に、一艘の船がたどり着いていたのだ。船の内部には複数の人間の気配があり、その中の二人が甲板に出て島を見上げていた。
「クケ、クケ。ようやく、やく、辿り着きましたなぁ。しかし、ここまでは、は、以前も到達できた。問題はここ、ここから」
「クケケ。そうだねぇ。ここを登るのが、が、一番大変」
薄汚く笑う二人の白衣――。Dr・サナギとサナミであった。
「グダグダしゃべっている場合か。今の我々にとっては大した問題ではない。さっさと行くぞ」
二人の背後から一人の男が現れた。その男は、海のように青い髪をしていた。