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第135話・荒波を越える翼

 海を見させてもらえなかったから、せめてもの抵抗に空を眺めていた。サイシャの空は昼夜を問わず雲に覆われ、じっと見ていると天から蓋を被せられているような気分になってしまう。外の世界は違うはずだ。開けた雲の奥に青が輝き、太陽の光が直に射し込んでくる。いつかこの空も晴れることがあるのだろうかと思っていた。


「待ってよ、テンセイ! 勝手に離れたらいけないってば!」


 ヒサメが後を追ってくる。神の住処を守る防人が何の断りもなく持ち場を離れることは大罪だ。ましてやテンセイはこの任務を与えられてまだ二日目。もしこの事が長老に知られたら、どんな処罰を下されても文句は言えない。


 だがテンセイは一向に構わなかった。


 今日の空は何かが違う。一見しただけではわからないかもしれないが、毎日空を眺めていたテンセイには少しだけ違った空気に感じられていた。何かが来る。空をわたって、これまで知らなかった何かがこの島にやってくる。そんな予感がしていた。


「テンセイ……! 待って……っ!」


 ヒサメの声が遠のいていく。ヒサメは女の中では体が丈夫な方だが、テンセイの速度には及ばない。徐々に二人の距離が広がっていく。


 テンセイはひたすら走った。丘を下り、耕作地を突っ切り、森を駆け抜けて――。子どもの頃に一度見たきりの、海へたどり着いた。断崖絶壁の頂上に。


 予想に反して、空は少しも晴れていなかった。島の中央にはあまり雨が降らないが、崖の近くは常に雨が降っている。その雨に濡れながら、テンセイはぺたりと崖縁に座り込んだ。遥か眼下に見える海面は、壁面を削らんばかりに荒だっていた。


「気のせい……だったのか? 何かの気配みてーなもんがあったんだけどな」


 急激に気力が萎えていくのを感じた。爆発するかのようにやってきた熱が、雨に打たれてあっという間に冷え切っていく。


「……戻るか。こんなとこにいるのを誰かに見つかったら面倒だ」


 自分に言い聞かせるようにつぶやき、ノロノロと立ち上がる。そのまま後ろを振り向いて立ち去ってしまえば、きっと違う運命が待ち構えていただろう。しかし、テンセイはもう一度あたりを見回した。本当にただの気のせいだったのか、最終確認を行ってしまった。そして見た。テンセイの位置から十五メートルほど南の崖縁に、何かが引っ掛かっている。


「何だ? ありゃあ」


 目を凝らしながら近づく。それはかすかに動いていた。


「だっ……誰かいるのか! おい!」


 それは、人間の指であった。雨に痛々しく打たれた指が、崖縁の草を掴んでしがみついていた。ならば当然、崖下にその指の持ち主がいるはずだ。


「大丈夫か!?  しっかりしろ!」


 テンセイは急いで駆け寄り、今にも剥がれ落ちそうな手を掴む。相手の顔を見る暇もなく一気に崖の上へ引っ張り上げる。重い手応えで、相手が成人男性であることが第一にわかった。


 男は、半ば意識を失いかけているようだった。顔立ちは若い。この当時のテンセイと同じ、二十代前半といったところだろう。


「……あんた、人間か?」


 テンセイは男にそう言った。その主な理由は二つある。一つは、男の髪がテンセイ達のそれと違っていたことだ。サイシャの島の人間は例外なく髪が黒いが、男の髪色は海を連想させる鮮やかなブルーであった。海の色。サイシャ周辺の海は荒れているために灰色にしか見えないが、テンセイはその男の髪を見て本能的に海のようだと感じた。あるいは、雲の向こうにある空の色。


 もう一つの理由は、男の背中にあった。男の全身は雨に打たれてかなりみすぼらしい格好になってしまっているが、雨に濡れていなくてもあまり上等な服とは言えない。少なくとも、嵐を乗り越えるにはふさわしくない軽装であった。祭りで女が踊る時の衣装のように、背中から肩口にかけてが大きく開いている。それもそのはず、そこに衣服があっては困るのだろう。なぜなら男には翼が生えているのだから。


「それは本物か? 本物の羽か?」


 背中に翼の生えている人間など、テンセイは見たことがなかった。おそらく誰もないだろう。だから目の前にある白銀の翼をすぐには真実と認められなかった。よく見ると、その翼の付け根に赤いものがある。それを見てテンセイは納得した。


「『紋』か。あんた、『紋付き』……」


「う……」


 男はテンセイの質問には一つも答えず、うめき声をあげるばかりであった。その薄く開いていた目が、徐々に閉じられていく。やがて何も言わなくなった。気を失ったらしい。


「この翼で海を越えてきたのか。……どこから?」


「テンセイ!」


 ヒサメの声がした。どうやらようやく追いついたようだ。


「もう、本当に海に来ちゃうなんて。早く戻るわよ。他のみんなには黙っといてあげるから」


 と、初めは怒った口調だった。


「ああ、戻ろう。とりあえずこいつを介抱しなきゃいけないみたいだ」


「え? ……え、ええ!? テンセイ、その人は一体……?」


「塔に戻るぞ。目が覚めたら、色々聞きたいことがある」


 テンセイは男を抱きかかえて立ち上がった。意外に軽い。随分とやつれているようだが、その理由は風雨のせいだけではないような気がした。


 男を連れてテンセイとヒサメは塔に戻った。途中で誰にも見られなかったことは幸いであった。……いや、見方によっては、災いであったとも言えるのだが、この時のテンセイにとっては幸いなことであった。


「この人、もしかして海の向こうから来たの? 時々、海の遠くに見える小さな島。あそこから飛んできたのかもしれないわ」


「そうとしか考えられねぇな。しっかし……なるほどな。『紋』を使えばあの波を越えられるのか」


 それから一晩、男は目を覚まさなかった。ベッドは二つしかなかったから、テンセイは床で寝た。


 男が目を覚ましたのは翌日の昼。自分の置かれた状況を理解するのに少々時間がかかったようだが、テンセイとヒサメに救われたということはすぐにわかったらしい。


 男は二人に言った。


「助けてくれてありがとう。……僕の名前はベール。ウシャスという国の出身だ」

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