第130話・舞台裏にて〜Welcome to my Hotel〜
扉を開けると、多くの使用人達が頭を下げて私を迎える。ホテルのロビーは、いつもと変わりない様子だった。いつも通りの照明。いつも通りの装飾。レコード・プレーヤーが私の一番好きな音楽を奏でてくれている。
「お帰りなさいませ、オーナー」
ボーイ長が傍に来てあいさつをする。彼はとても真面目な男だ。
「変わったことはないか?」
私は彼に尋ねた。何の意味もない質問であることを知りながら。
「普段通りでございます」
彼は何の意味もない答えを返した。ここに変化などありえない。このホテルはいつだって同じ姿のままだ。
「巡回をしてくる」
とだけ言い、私はボーイ長と別れた。ロビーを突っ切って奥へ進む。客室のある方向へだ。途中ですれ違った数名の宿泊客が、私に笑顔であいさつをしてくれた。彼らの笑顔は、みな子どものように純粋で屈託のないものだ。私の心を癒してくれる。
一つの客室の前に立ち、軽くノックをする。
「はい、どなたかね?」
しわがれた声が中から聞こえてきた。私はいつも通りの言葉を唱える。
「オーナーでございます。ビッフさん、お変わりありませんか?」
「おお、オーナーかい。どうぞいらっしゃい」
許可が出たので、私は扉を開けて室内に踏み入った。
奇妙な部屋。ここを始めて訪れた人はそんな感想を抱くかもしれない。部屋に入ってまず目につくのは、一面に広がる花畑である。ホテルの客室内であるにも関わらず、春を彩る花々が盛んに咲き誇っている。その花畑の中央に、キャンバスと向き合う一人の老人がいる。彼がビッフ。私の友人。
「やあ、オーナー。御機嫌よう」
ビッフが振り向いてニコリと笑いかける。ふっさりとした白いヒゲは彼の温厚な人柄を表わし、細い目は彼の年齢の重みを表わしている。
「ちょうど、新作が出来たばかりなんだ。見てくれるかい?」
彼が立ち上がり、キャンバスを私に見せる。生き生きとした花畑の絵。私は絵画の技巧には詳しくないが、彼の絵は本当に素晴らしいと信じている。もしも彼に少しの功名心があれば、たちまちのうちに至高の画家として有名になったであろうと思う。
「とても美しい。花の生命力が伝わってくるようですね」
「そうかい。そりゃあ嬉しいね」
彼との会話は心が安らぐ。しかし、今の私にはあまり時間がない。別れを告げ、次の部屋へ向かうことにした。
次の扉を開ける。今度はノックはしない。しても恐らく返事はないだろうから。元々入室に許可を取る必要などない。私はオーナーなのだから。
扉を開けると、凄まじい歓声が耳に飛び込んできた。この客室は、球技の試合を行うスタジアムになっていた。客席は満員。老若男女、様々な人間が、御贔屓のチームに一生懸命エールを送っている。
行われている試合は、ボールを奪い合ってゴールに入れるというシンプルなものだ。手を使わずに蹴りのみでボールを運ばなければならないらしい。ユニフォーム姿の選手たちが目まぐるしくボールを追って走っている。その中に、ひと際飛びぬけた技術を披露する青年がいた。あの青年が、この部屋の宿泊客だ。彼が一度ボールを得れば、もう誰も彼に追い付けない。彼の放ったシュートは虹のようなカーブを描いて飛び、ゴールネットに深く突き刺さった。
ワアァァァ……と歓声が響く。雷のような拍手と熱狂の雄たけびが客席にこだまする。私も、顔のない観客の中に混じって拍手をしてみる。彼はフィールドの中央で両手を広げ、勝利の笑みを満面に浮かべていた。
「試合終盤……今のプレーが決定打となり、君はチームを勝利に導いた。それが君の望むドラマか」
私は彼に向って小さくつぶやき、この部屋を後にした。
「オーナー、こんにちは!」
「こんにちはー」
廊下の向こうから子どもたちがやってきた。私があいさつを返すと、子どもたちはそのままどこかへ消えて行った。
このホテルには子どもの客もたくさんいる。ただし、彼らが本当に子どもなのかどうかはわからない。望みさえすれば、このホテルの客は誰でも少年少女に戻ることが出来る。好きなだけ絵を描きたいと願えば、描きたい風景や画材道具がいつでも手に入る。スポーツで活躍したいと思えば、瞬く間にトッププレイヤーに変身できる。ここは、全ての望みが叶う場所。
階段を上って二階へ行く。二階にも客室があり、たくさんの扉の中で、たくさんの夢が描かれている。だが中には例外も存在する。
「ミュイさん、いかがなされましたか?」
その部屋の中は、真っ白だった。ホテルの廊下と扉一枚を隔てて、家具も壁も天井もないただ真っ白な空間が広がっていた。その空間に一人の少女が座っている。ヒザを抱えて顔を伏せている。外見は十五〜六歳だが、私は知っている。彼女が初めてこのホテルを訪れた時、その姿は四十前後の女性だったことを。
「……夢を、見飽きましたか」
このホテルの客室は、ビッフ老人のキャンバスと同じ。望みを持てば全てが描かれるが、何も望まなければ何も描かれない。空虚な世界だけが広がる。彼女がまさにそれだった。望みを叶え、夢を見続け、あらゆる欲を満たし……精神が疲労して何も望まなくなってしまっている。望みや欲を失った『魂』は急激に弱まってしまう。
私がわざわざホテルを巡回している理由がこれだ。宿泊客の『魂』が弱まることがあってはならない。
「そろそろダンス・パーティーが始まる時間ですよ。私が相手になります。あなたの好きな音楽をかけてもらうよう、ホール係にお願いします。さぁ、行きましょう」
彼女は何も言わなかったが、弱々しく手を差し出した。私はその手を握って彼女を立ち上がらせ、一緒に部屋を出た。
ホールではすでにパーティーが始まっていた。彼女をホールの中央まで連れていくと、突然彼女は私から離れ、別の男の元へ歩いて行った。目標達成だ。彼女はダンスパーティーという言葉を聞いて、自分と踊る理想の男性を思い描いた。それが刺激となって新たな「欲」を生み出してくれる。もう、彼女の部屋は白い空間ではなくなっているだろう。
ダンスに興じる人々の、爽やかな笑顔と汗。
玄関の扉が開き、一人の男がやってきた。ダンスの響きに招かれたのだろう。その男はとても疲れた顔をしていた。孤独に苦しんできた顔をしていた。
私は彼に近付き、ダンスへ誘った。彼は笑顔になった。そして、宿泊客が一人増えた。