第124話・間合い
ナキルが跳んだ。跳ぶと同時に、射程内にいるラクラへ狙いをつけて鎖を振るっていた。
ラクラは反撃しようと身構える。が、この時ラクラは、室内に侵入していたナキルが何故わざわざ甲板に逃げて出たのか、その理由を半分だけ思い知らされた。
(見えない――!)
時刻は夕方、本来ならまだ明るいはず時間帯のはずだが、世界最大の難所と言われる暴風海域の上空には分厚い黒雲が圧し掛かっており、太陽の光をほぼ遮断している。加えて激しい雨のせいで視界が悪い。暗闇の中を、漆黒の鉄鎖が走る。それはまるで洞穴の闇に紛れる蛇のように、視覚では捕えがたい暗殺者であった。
(外に出たのはこのため……?)
ラクラの光を制限し、自身は闇の有利を得る。屋外の方が鎖を振りまわしやすいということもあるだろうが、ナキルが外に出た大きな理由はこれだ。
おまけに、鎖は複雑な軌道を描いてラクラに迫ってくる。闇に紛れつつ、さらに空中で三度、四度うねり軌道を変える。仮に明るいところで戦ったとしても、この鎖を完全に見切ることは困難。ラクラはそう感じた。最小限の動作で攻撃をかわし、素早く反撃するというのが理想の展開だった。だが攻撃を見切ることが出来ない。ラクラは大きく後方へ退いた。鎖の射程から逃れなければ喰らってしまうと判断したのだ。
重い金属の塊が、ラクラの前髪をかすめた。ガツリと鈍い音を立てて分銅が甲板を叩いた。
(射程外へ逃げたはずなのに……紙一重のところまで追い付かれている。この間合いでは不利かもしれません)
反撃に転じる暇はなかった。落ちた分銅は再び宙に持ち上げられ、ナキルの手元に戻っている。反撃をして、もし失敗した場合。銃を撃った衝撃で硬直している隙に、もう一度あの分銅が襲ってくるだろう。次もかわせる保証はない。それ以前に、激しく揺れる海上で狙いをつけるのは難しい。少なくとも、鎖の攻撃射程――鎖そのものは三メートルほどだが、ナキル自身が素早く移動して攻撃すれば当然射程は伸びる――の外からでは、回避と同時に狙いをつけることは不可能に近い。どうしても一瞬の遅れが生じてしまう。
「どちらへ行かれるのですか? あまり扉から離れますと、大事な弾丸が補給できなくなりますよ」
ナキルが無機質な声を発した。
この攻防が行われていた間、ノームは何をしていたのか。無論、ただ黙って見ていたわけがない。ナキルの最初の攻撃がラクラに向いたとわかった瞬間、ノームはナイフを握りしめて駆け出していた。
相手の武器はリーチを活かした鎖。自分の武器はナイフ。ならば、接近して相手の懐に潜りこんだ方が戦いやすい。
が、ナキルへ走りだして数歩のところで、ノームは立ち止まらざるを得なくなった。前方に突き出した脚が何かに引っ掛かり、危うく転んでしまいになったからだ。いったい何に足を引っかけたのか。
「氷! クソ、こいつダラダラしゃべってる間に小細工するタイプだな!」
腹立たしげに叫んでみたが、それで小細工が消えるわけもない。――暗闇に紛れていたのは鎖だけではなかった。雷が閃いた一瞬に見えたそれは、氷の柵であった。公園などによくある、鉄の棒を立体的に組み合わせた児童用遊具のように、棒状の氷がナキルを囲む柵を形成していた。絶え間なく降り注ぐ雨のおかげで氷の核となる水はいくらでも供給できる。ナキルの『紋』が発生させる冷気が雨粒を凍結させ、それを次々に連結させて思い通りの形に氷を張り巡らせていた。
「けっ、だがよォ! 狭い隙間をくぐり抜けるのはムジナの専門分野だぜ!」
今度は肩に乗せていたムジナを走らせる。よくよく眼を凝らせば、かろうじて氷を視認することは出来る。その隙間をムジナが軽々と走り抜けていく。
「君は止まっていろ。その位置がいい」
視線をラクラに向けたまま、ナキルがつぶやいた。何の事かとノームが理解するより先に、ムジナに異変が起こった。
「はっ……。てめぇ、いい加減にしろよ!」
ムジナは、甲板と水平な向きになっていた氷に足を乗せ、すぐ目の前のナキルへ飛びかかろうとしたところだった。だが、足が氷にぴたりとくっついて離れなくなっている。
「……この雨だ。君も、ムジナもびっしょりと濡れている。全身が水を纏っているんだ。つまり……いいか? 一度だけ忠告してやるぞ。私の能力に触れることは、自身を氷像と化させることに等しい」
ムジナの足についていた水が凍りつき、踏んでいる足場の氷と一体化してしまったのだ。しかも、凍結はムジナの足だけでなくその全身に及び始めていた。氷が足元から上へ這い上っていく。
「チィッ!」
ノームが派手な舌打ちを鳴らし、腕を振るう。振るった腕はムジナの背中に転送され、その手に握ったナイフで足場の氷を砕いた。
「こんなのウザッってぇだけだろ! 凍ったそばから砕いて進めばいいだけのことだ!」
「そう貶すな。正面切って敵の集団に突っ込んできているのだから、このぐらいの策は大目に見てもらおう」
パチン、とナキルが指をならした。少々格好をつけたキザな仕草だが、これも攻撃の一つだった。
「上です!」
ラクラが叫んだ。反射的にノームがムジナの頭上に視線をやる。そして顔を引きつらせた。
「戻れムジナァアアああ!」
氷の柵は、ただの防御壁ではなかった。柵はマストの頂部にまで至っており、そこである物を支えていた。それは、巨大な氷の塊であった。
柵を構成していたいくつかの氷が、ほぼ同時に折れた。途端に柵が崩壊する。必然的に、柵の上部に支えられていた塊も落下してきた。
「うおおおおッ!」
声を張り上げてノームが退く。ムジナが半ば進んだ柵の中から、必死にノームの元へ逆戻りする。氷の落下を受けてムジナが負傷すればノームは再び戦闘不能となってしまう。雷光が、降り注ぐ氷と逃げるムジナを残酷に輝かせた。