第123話・恐るべき事態
足元には冷気がまとわりつくが、上半身、特に顔のあたりは逆にむっとした暑さに覆われている。雨が降って湿度が高い上にいくつもの室内灯が狭い間隔で並んでいるためだ。廊下の天井が低く、室内灯の熱が近いため、あたりは蒸し暑い空間となっていたのだ。そこにナキルの冷気がじわじわと侵食している。
「さて、私はこれからどうするかな。ラクラの銃を無効化することから始めようか?」
ナキルは両手に鎖を構えたまま口を動かす。独り言とも、二人に聞かせるためともとれる曖昧な声量で淡々と言葉を放つ。
「その銃は光を吸収して弾丸に変える。ここは室内灯があるから光は十分。いくらでも弾切れなしで撃ち続けられる理想の銃なわけだ。それはマズい。私にとって非常に都合の悪いことだッ……!」
言葉の途中で、ナキルはいきなり身をよじった。その一瞬後に光がナキルの肩を貫いた。
「敵を目の前にして長々と話すのがゼブ流なのですか?」
ナキルは肩から血を噴きながら甲板への扉に走り出した。その後姿に向け、ラクラは容赦なく次の弾丸を発射する。――すでに戦闘は始まっているのだ。軍人ラクラは、こんな時に決して容赦はしない。逃げる動作の先を読み、頭部へ狙いをつけた。光の弾丸は直線状に飛び、間違いなくナキルの黒髪へ突き刺さった。
が、ナキルはそのまま扉へ走り、ついには到達してノブに手をかけた。確かに命中したはずだが、血が出ていない。弾丸が命中した痕跡などどこにもない。
(これは……?)
不審を感じてラクラは次の発射を止めた。
その代りにノームが動いていた。敵が逃走の構えを取るや否や、お得意のナイフ投げで追い打ちをかけていたのだ。ナイフの狙いは背中だった。さらに、ノームが投げたのはナイフだけではなかった。背を向けているナキルからは見えないだろうが、ナイフに灰褐色の物体がしがみついている。ノームはムジナをナイフに乗せ、それを投げつけたのだ。重みが加わるため狙いは若干荒くなるが、刃を正確に命中させる必要はない。ムジナを敵の肩に乗せることが出来れば、腕を伸ばして頸動脈を断ち切ることが出来る。
「はぁッ!?」
ナイフが背中に迫り、ムジナが敵に飛び移ろうとした瞬間、ノームは素っ頓狂な声をあげた。ムジナはナキルに飛びかからず、ナイフから降りて床に着地した。ナイフは回転したまま飛び、廊下の壁に当たった。ノームから見て左側の壁にだ。
「ノームさん、これは……」
「おかしい。おかしいぜ隊長ォ。オレは奴目がけて真っ直ぐにナイフを投げた。廊下のど真ん中を突っ切るコースを狙ったはずなのに、ナイフが横の壁に当たってる」
この間に、ナキルは扉を開けて外に出て行った。凄まじい風雨が雷鳴の大音響を伴って廊下に吹きこんでくる。だが、二人はすぐに動かない。
「オレはムジナを通して視界を共有できる。奴の背中に飛び移るためにムジナの目から見ていたんだが、急に奴の姿がムジナの視界から消えやがったんだ。回転してたから見失った、なんてもんじゃあない。いきなり、霧が散るみてーに消えやがった」
「おそらく……これは錯覚でしょう。空気の温度差は空気の密度にも差を及ぼします。密度の異なる空気が光を屈折させ、実際とは微妙にズレた映像を映していたのだと思います」
蒸した室温とナキルの冷気。その温度差が二人に錯覚を起こさせていたのだ。
「なるほど。ケッ、結局は小細工じゃねーか」
実を言うとノームは具体的に錯覚の原理を理解出来ていたわけではなく、感覚で何となく理解出来たような気になっているだけだが、ともかくそう言った。ラクラが最初に撃った光弾は命中している。完全な防御では、小細工なのだと評価した。
「で、隊長。アイツァ外に出たけど、あれを追いかけるのか?」
「ええ。今の段階で一人でも多く敵を倒せば、それだけこちらが有利に事を運べます」
二人は扉をくぐり、暴風の中に飛び出した。滝のような雨が肉体に叩きつけられ、気を抜けば海へ放り出されてしまいそうな風がぶつかってくる。甲板から見た船は極々シンプルな構造になっている。風を利用して進むためのマスト(当然今は帆が下されている)が中央にあり、その根元部分が周囲の床と比べて幾分高くなっている。四角形をした段状の補強材だ。その補強には二つの扉があり、船の進行方向から見て前方の扉が操舵室への廊下に繋がっている。ノームとラクラが出てきたのは後方の扉だ。
ナキルは、マストに背をもたれて二人を待ち受けていた。
「おやおや、せっかくのお美しい髪が雨と風で台無しになりますぞ」
雷光に照らされた顔はなおも無感情なままだった。
ノームが素早く右に回り込んだ。ラクラは室内灯の光が届く位置にとどまっている。狭い廊下と違ってある程度開けた場所ならば、二人で挟み打ちにするのが有効だ。ただし、敵を挟んでの対称線上には並ばないように気をつける。互いに飛び道具を使用するため、互いを撃ちあってしまう可能性があるからだ。
「まぁ、追ってこなければ操舵室を抑えるつもりだったのだが」
ナキルが言うが、これは嘘だ。操舵室を襲うのは部下のルバに任せてある。操舵室を完全に制圧して船の航行を不可能にしてしまえば、ウシャスの強敵を一気に片付けることができる。だが船を沈めてはいけない理由がある。コサメだ。船が沈み、コサメに死なれるようなことがあっては困るのだ。そのためには船が沈まないように舵取りをし続ける必要がある。部下を連れてきたのもそのためだ。ルバが舵を取り、ナキルが敵を排除するつもりだったのだ。今さらナキルが操舵室に行く理由はない。
「もう一人、テンセイとかいう大男がいたはずだが、出てこないな。中でコサメを守っているのか? その方がありがたい」
むしろ、ナキルの方が恐れるべき可能性がある。それはコサメを人質に取られることだ。コサメを生きたまま捕獲しなければならないというゼブの事情は、ウシャスにも知られているはずだ。……万が一にもありえないことだろうが、追い詰められたウシャスがコサメを人質に取る恐れがある。
(追い詰めすぎてもダメなのだ。希望を残したまま……全員狩ってやる)
雨の中で、ナキルは密かにほくそ笑んだ。