第120話・猛る海上の戦
鉛色の空はしだいに黒鉄色に変わっていき、降り注ぐ雨粒も一回り大きくなってきた。船体の揺れ幅も大きくなり、上下左右あらゆる方向へ跳ねては戻る。
操舵室のクドゥルは、荒れる波を睨みながら部下に声をかけた。
「この時期、比較的海が荒れやすいのは予測できるが、こんなにまで急激に天候が崩れるとはな。……目的の島まであと一時間はこの暴風域を走る必要がありそうだ」
「そのようですね」
「私の能力はギリギリまで温存する方針だ。貴様の舵取りに全員の命がかかっているぞ」
「ハッ。光栄です」
「期待を裏切るなよ」
舵を取っているのは、クドゥル直属の部下である(ラクラにとってのレンにあたる)スィハだ。白兵戦では少々頼りないが、航海士としての腕前は一級である。直接戦闘に向かないがために『フラッド』との交戦でも最前線には立たされず、結果的に生き残ることが出来たのだ。
「それにしても、酷い時化ですな。こんなのは初めてです。南へ向かうほど風雨や波が強くなっていく……。他に例がないわけではありませんが、ここまでハッキリと段階的に変化していくとは」
「うむ。本来ならここで引き返し、時化が止むまでは決して先には進まぬのだがな。悪天候に逆らわぬことが海戦の定石だというのに。時化の強くなる方向へ進むなど無駄な徒労だ」
「そういえばクドゥル様。私はまだ、サイシャという島へ向かう理由を聞いておりませんが」
「今頃になって聞くな。今はこの荒波を乗り越えることだけに集中しろ」
「ハッ、申し訳ございません」
明らかに不機嫌な表情をつくり、クドゥルは操舵室を後にした。
「島へ向かう理由だと? ……そんなもの、この私でさえ聞かされていないというのに!」
腹立たしく壁を殴りつけた。クドゥルがこの旅に同行したのは、他でもないウシャス軍最高権利者・ウェンダから命令があったからだ。
本部医務室で療養中のクドゥルの前に現れたウェンダは、いつもの横柄な態度はどこへやら、妙にうなだれて視線も一所に定まらず、ただの気の弱い中年にしか見えなかった。時折、思い出したようにわざと胸を張るが、それが余計に虚しく滑稽だ。
『サイシャの島へ行くという話……。聞いているな』
あいさつも無く、いきなりウェンダはそう切り出した。
『あれの許可を出した。後は全て君とラクラに任せる』
それっきり、返事も聞かずにウェンダは医務室を出て行ってしまった。
「ラクラに聞いても具体的な事は何も言わなかった。時間に猶予がないというから仕方なく従ってはいるが――いずれ詳細を吐かせねばなるまいな」
つぶやきながら通路を歩き、他のメンバーが待機している船室へと向かう。こう表現すると簡単なことに思えるが、実際にはただ歩くだけでも結構大変なのである。大波の中を突っ切る小型船はぐらぐらと揺れて傾く。船内は、まっすぐ歩くどころか直立し続けることすら困難な状態だ。ウシャス海軍の指揮者であるクドゥルだからこそ、激しい揺れの中で満足に行動できるのだ。
「いや、いずれだなどと悠長なことは言っていられない。謎は今のうちにさっさと片付けておくか」
操舵室から他の船室へ行くには、一度甲板に出なければならない。鉄製の重い扉を開けると、水しぶきが飛び込んできて顔に降りかかった。もっとも、初めからそうなることはわかっていたし、気にするつもりもない。外に出て扉を閉めた頃には、すでに全身がびしょぬれになっている。雨と波のしぶきがあらゆる角度から迫ってくるのだから当然だ。
遠くに雷光が見えた。わずかな時を置いて天の雄たけびが響く。この規模の嵐には何度も遭遇してきたが、その最も強い場所へ向かっていくのは初めてだ。嵐の中央は風の目となって穏やかなのかもしれないが、そこまで無事に到達できる保証はない。
「……む?」
船室に下りる扉の前に来たとき、クドゥルに違和感が走った。海の上、船の進行方向から見て右側、やや後方の海面に何かが浮かんでいる。暗くてよく見えない、とクドゥルが思った瞬間、都合よく再び雷が閃いた。先程よりもずっと近い位置に落ちた稲妻があたりを照らす。
(氷……? 海面の一部が凍っている?)
その部分だけ、波の動きが変わっていた。まるで水面スレスレに橋でもかかっているかのような波しぶき。透明な橋。氷の橋が、遠方から伸びてきていた。そして船が進行するに従って後方に流れていく。
「なるほど……。時間がないとはこういうことか。すでに手を打たれているというわけだな?」
クドゥルは腰の刀に手をやった。狭い船室での戦闘を想定した、かなり短い刀だが、クドゥルにとっては最も扱い慣れた護身具だ。
「はッ!」
気合の一声とともに身を翻し、背後に迫る気配へ刀を叩き付けた。金属のぶつかり合う耳障りな音が雨音の隙間を縫って響く。
「チィッ!」
クドゥルの一撃は、ピンと張った鋼の鎖によって防がれていた。鎖を握る人物の姿が、雷光の輝きに照らし出される。上品な口髭をたくわえた三十路前後の男。黒く短めの髪は風雨に乱されていたが、普段はキレイに整えられているのだろう。顔つきだけを見ればなかなか紳士的な印象だが、それだけに黒い鎖を武器にしていることが際立つ。
「名乗らせていただこう。私の名はナキル。ゼブ国五将軍が一人よ!」
ナキルと名乗った男が鎖を振り上げる。鎖は全長にして二、三メートルほどだろうか。先端に分銅がついており、遠心力をつけて叩きつけられてはたまらないだろう。
クドゥルの判断は早かった。彼の決断は、扉を開けて中に逃げ込むことだった。狭い場所のほうが自分に利があるだろう。が、そもそもここで無駄に体力を消耗したくない。船室のテンセイ達に任せたほうがいい。
鎖が襲ってくるよりも早く扉に手をかけた。しかし、扉が開かない! ノブは回るが、扉が動かない。よく見ると、扉と壁の境目が半透明なものに覆われている。
(氷だ! 扉が氷で固められている!)
分銅のついた鎖が、高々と上空に飛んだ。龍が口を開けたかのようだった。そして閉じられる!
「将軍ナキル……『紋付き』か」
分銅が頭上からクドゥルに迫る……かと思われたが、分銅は逆により高く舞い上がった。
「なに……?」
鎖を握るナキルの足が、なぜか甲板から離れた。
「奇遇だな。私も『紋付き』だ」
浮遊水――。それが波と雨の中に紛れ、ナキルと分銅を宙に持ち上げていた。