第110話・新人教育者
呼吸を乱すな。汗を流すな。震えを止めろ。レンは全身へ命令した。タイミングが一瞬遅れただけでこの任務は失敗してしまう。
――神経が充実している。レンは感じた。かつてのレンは、実戦の場で敵を目の前にしたとき、心と体が合致せずフリーズを起こしていた。だが今はそれがない。ラクラを捕らえた際は滝のように流れていた汗も、今は微塵も肌を濡らしていない。昔のレンは、本物の戦場に立つたびに思考と集中力がバラバラに弾け飛びそうになった。今は違う。全身の細胞が、精神が、キッチリと一つの目的に向けて収束している。
(あの方のおかげだ……。あの方の御意志が、オレに力を与えてくださっている!)
少しも呼吸のリズムは変えていないのに、鼻から吸い込む空気はいつもよりずっと新鮮で爽やかなものに感じられた。これから自分のやるべきことがドス黒い行為だとわかっているはずなのにだ。
(空気を把握しろ。テンセイの一挙一足をつぶさに観察しろ。表情の変化を捕えろ。確実に、その全神経がラクラに集中している瞬間を狙え。ヤツがオレの存在を意識の外に追いやった、その一瞬をだ!)
「隊長?」
テンセイがラクラの顔を覗き込む。その無防備な背中に寄り添い、拳銃を大男の首筋に近づける。テンセイの身長がかなり高いために少々体勢が不自然になるが、どっちみち背後に回っていれば関係ない。
じっと待つ。引き金に指を入れれば、どうしても”殺気”が放出してしまう。少なくともレンは完璧に殺気を消す術を持っていない。ほんの少しでも相手に悟られたら終わりなのだ。引き金に指を入れていない今なら、まだそれを抑えていられる。
「なんか? ……おかしいな」
テンセイが言った。そして……空気の流れが変わった。
(今だ!)
「これはッ! いつの間に……!」
テンセイがそう叫んだ時、レンの指はすでに引き金にかかっていた。完璧なタイミングだった。テンセイがラクラの傷に気がついた、まさにその瞬間だった。
弾丸を発射する。消音器をつけているため、銃声はパンという乾いた破裂音が生じた程度におさまっている。それでも殺傷能力は十分。
ブォン、と、重い物体が風を裂く音がレンの耳に届いた。弾丸は間違いなくテンセイに命中した。だが、狙った首ではない。あろうことか、弾丸が発射されたと同時に、テンセイはジャンプをしたのだ。その跳躍によってごくわずかだが弾丸の着弾地点がそれ、重い筋肉のついた肩に命中したのだ。
(は……? バカな、反応が早すぎる! いや、早いなんてもんじゃあない。これは! これはァ!)
レンの右手に集中していたエネルギーが、今度は一斉に足に向かう。固い床を蹴って後方へ跳ねる。テンセイのヒジが迫ってくるのを直感したからだ。それは正解だった。肘――人体で最も固い部分を、テンセイはレンに背を向けたままぶつけてきた。
(こいつ! ラクラの傷を見る前からオレの裏切りに気づいていた!? でなければあのタイミングでかわせるわけがない!)
レンの判断が一瞬早かったため、ヒジは回避出来た。若干距離を置いてレンが着地したのと同時に、テンセイも着地していた。衝撃で床が揺れる。テンセイが振り向く。左腕はコサメを抱き、右手は固く握りしめている。
「あんたが部屋に来たときからおかしいと思ってた。あんたの背中についた血の臭い……それはヤコウのものじゃあないッ!」
右正拳。何の工夫もないただのストレートだが、テンセイの身長から繰り出されるパンチは真空の破壊力を持つ。
レンは両腕を胸の前でクロスさせて防御した。腕が交差した場所にテンセイの拳がめり込む。本当に、文字通りめり込んでいる。防御した腕の筋肉と骨が砕かれ、内側へ凹んだ。
「うガァッ!」
レンのすぐ後ろは壁だ。後ろにはこれ以上逃げられない。
(クソ……血の臭いだと!? 手についた血は念入りに洗い流したが……ラクラ隊長を運ぶ時についた背中の血が! さすがにシャワーを浴びる時間はなかったから服を着替えるだけに留めていたが……甘かったか!? オレの背中そのものに臭いがしみついてしまったのか!)
テンセイが左手のコサメをラクラのヒザに乗せた。これはレンにとってかなり不利だ。コサメを殺すわけにはいかないから、一か八かでラクラを人質にすることも難しくなった。この距離から拳銃でラクラを狙おうとするとコサメに当たる恐れがあるからだ。そして何より、テンセイの両腕が自由になってしまった。自由にする時間を与えてしまった。
「何せ緊急事態だからな。オレの感覚は全開だ。わかりにくかったが、あんたからはわずかに血の臭いが漂っていた」
「ぐう……獣並みの嗅覚か……」
攻撃の機会をうかがっていたのはテンセイも同様だったのだ。レンが第二の裏切り者であることを悟り、それを確かめると同時に仕留められるチャンスを待っていた。
レンが、テンセイから見て右側に身を振った。ヒザを曲げて体を低くかがめ、いかにも右側に回り込もうとするように見えた。
「オラァ!」
テンセイは雄たけびをあげ、左足で蹴りを繰り出した。
「ぬぅう……!」
巨木のような脚がレンの体を捕え、弾き飛ばした。だが手応えがおかしい。蹴り飛ばしたとうよりも、レンが自分からわざと飛ばされたようだ。
「っつう……。このパワー、そして超感覚……。テンセイ君、本当に君は、化け物だな」
レンはテンセイに蹴りを出させることで、唯一の出口である扉の方へ飛んだのだ。右へまわり込むような動作は、左足の蹴りを誘うためのものだった。
「だが、所詮君は軍に入隊してまだ二か月ちょい……。つまり『新人』だ」
ゆっくりと起き上がりつつ、レンはテンセイを見据える。瞳に炎が宿っている。奇襲が失敗した時点で敗北――。誰よりもレンがそう思っていた。だが、今レンの心には闘志がみなぎっていた。
「今気がついたことだが、軍内で君の戦闘訓練を担当したのは私だ……。君のクセは知っている」
レンは立ち上がった。拳銃は殴られた時に衝撃で落してしまったが、まだ腰に軍刀が残っていた。
「来い、テンセイ君。『教育』してやるよ」
軍刀を抜き、構えをとった。