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第103話・別れた道

 男は、医務室の壁際に設置されているクローゼットの中にいた。本来なら、ここには清潔な衣服がしまわれている。寝汗や出血で汚れた患者の服を着替えさせるためのものだ。だが今は、男が身を隠すための潜伏場所として使われている。木製のクローゼットの扉がほんのわずかに開き、その隙間から男は外をうかがっている。


「では行きましょう。テンセイさん」


 男の視界には、幹部のラクラが映っている。その隣には巨漢の軍人テンセイが立っており、もう一人の幹部クドゥルがベッドに寝ているのが見えた。視界の端ギリギリに、ノームとかいう軍人が寝ているであるベッドも見えた。他には誰もいない。男がここへやってきた時、部屋の中にはクドゥルとテンセイとノームしかいなかった。この医務室に入るドアは二つしかなく、その一つはラクラがやってきた時に開かれ、すぐに閉じられた。それからは誰も入ってきていない。


 もう一つの入口は、この男以外誰も知らない。医務室の責任者である軍医(今は緊急病院の応援に駆けつけている)でさえも、このクローゼットと背後の壁に穴が開いており、室外の廊下から直接クローゼット内へ入ることが出来るなどとは。廊下側からの入口は、消火用ホースの収納庫にカモフラージュされている。実に都合のいいことだった。壁を挟んで、クローゼットと収納庫が同じ位置に配置されていることが、この場所への潜入を容易にしてくれた。


 ラクラがテンセイを伴って医務室から出て行く。予想通りの展開だ。二人が歩いて視界から消える。そしてドアを開ける音が聞こえた。二人が出て行くもの以外に足音はなく、ドアは再び閉じられた。


(……行ったな)


 これで邪魔者が二人消えた。残りはあと一人。


(なぜあなたは軍へ入ろうと思ったのですか? そう聞かれて、私は”国を守るためだ”と答えた。別にウソを言ったわけではないが、少し誇張した表現だったな。正確に言うなら、私が守りたかったのは家族だ。それは今も変わっていない。私は父と先祖の家を守るためにこうしている)


 時計の動く音を聞きながら、男はクドゥルを観察する。すぐには寝入らないかと思っていたが、クドゥルは突然毛布を頭に被った。先ほどまでの会話の様子からも、怒りの興奮は静まっているようだ。……眠りは意外に早いかもしれない。


(早く眠ってくれ、クドゥル。あなたに用はないんだ。なのに、あなたが私の存在に気づいて騒ぎ出したら余計な用が増えてしまう。そんなことは避けたい)


 そのまま五分も経過した頃だろうか。クドゥルの被っている毛布が、ゆっくりと上下に動き始めた。深く、呼吸に合わせるような動きだ。念のために、さらに十分ほど間をおいた。かすかに寝息すら聞こえてくる。男は確信した。


(ありがとう、クドゥル。本当に感謝する。あなたが邪魔をしなければ私は安全に事を済ませることが出来る。そして家族を守ることが出来る)


 男は、静かにクローゼットの扉を押した。古い木材がきしんで音を立てないよう、慎重に力を込める。医者が注射を打つ時はこんな気分なのだろうか、という考えが男の脳裏をよぎった。狭苦しい空間から、まず右足を出して床を踏む。当然足音はない。速やかに体の重心を移動させて全身をクローゼットの外へ運ぶ。クドゥルが起きる気配はない。


(……君と一緒にいた時間は、とても短かったな。だがそれが逆に助かったよ。ほんの一瞬たりとも躊躇しないで済む)


 靴底で床を舐めるように歩き、男はノームのベッドに近づいた。ノームは眠っている。


(許せ。君には罪はない。……と言いたいところだが、ある意味では自業自得とも言えるな。この世界へ足を踏み入れなければ、こんなところで命を落とすことはなかっただろうに)


 男は右手にナイフを握っていた。そして、無防備に眠るノームの首へ、そっと刃を近付ける。ナイフは軍用のものではなく、野外キャンプなどに携帯して用いる小型のものだ。だが、人をの生命を断ち切るには十分な代物である。ほんの少しだけ力を込めて突き付ければ、その傷から生命は流れて消える。


(痛みを感じないままに死ねるというのが、君の最後の幸福だな)


 男は、自分の心臓が少しも高鳴っていないことに気がついた。人を殺めることに何の抵抗も持たなくなっていることを、今さらながら認識した。時計の歯車とクドゥルの寝息だけが音として響いていた。


「おかえりなさい、ヤコウ」


 戸口から声が聞こえた。男――ヤコウは動きを止めた。


「ずいぶんと早い帰りですね。何か忘れ物でもなさいましたか?」


 紙に書かれた文章でも読むかのような、無機的な声だった。ヤコウは知っていた。ラクラがこのような口調で言葉を発するとき、それは本気で怒りを感じているときだと。


「……忘れる、か。確かに忘れていたよ。君の用心深さをな。行ったふりをして戻ってきたのか」


「声を潜める必要はありませんよ。クドゥルは当分目を覚ましません。昼間、彼の食事に遅効性の睡眠薬を混入させておきましたから。……そうでもしなければ、あなたは行動を起こさなかったでしょうから」


「いつから気づいていた? 私の裏切りに!」


 話しながら、ヤコウは動いた。身をひるがえしてラクラの姿を視認し、ナイフを投げつけた。


 ナイフは壁に当たった。狙いが外れたのではない。ラクラが回避したためにその背後の壁に当たったのだ。


「ずいぶんと素早い行動ですね。先ほど廊下で会った後、私がテンセイさんを探している間にここへ潜り込んだのですか」


「質問には答えてもらいたいな。いつから気づいていたのかと聞いているんだ」


 ヤコウが次に取った行動は、クローゼットに戻ることだった。室内でラクラと戦闘することは避けたい。足音を立ててクローゼットへ駆け込んだ。


「疑惑を持ったのは今朝。確信を持ったのはたった今です」


 ヤコウが開けっ放しのクローゼットに飛び込んだ。ほぼ同時に光が飛んできた。視界の隅に閃光が走り、木の扉がブチ抜かれる衝撃を感じた。


 ギリギリで退散が間に合ったため身体にダメージはないが、ズボンのすそがちょっぴり焼け焦げたようだ。

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