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彼女と僕らは…

難関だった大学にやっとこ入学できたのを機に一人暮らしを始めた僕の部屋には、成仏したがっている若い女の子の幽霊が住み着いていたのだった。

彼女を無事に成仏させるべく、僕と仲間が奮闘する物語です。

1話完結ではなく、最初から全部繋がったお話ですんで、どうぞよろしくお願い致します。

難関だった大学に、この春無事に合格したのをきっかけに、僕は実家を離れ学校の傍にある古いアパートで一人暮らしを始めた。

それまでがだらしな過ぎたこともあり、両親は大そう心配だった様子。

特に母は3人兄弟の末っ子で甘えっこだった僕が、一人で家のこと全般なんかできるのだろうか?

台所に立ったこともないのに、ご飯なんか作れるのだろうか?

あれこれめんどくさがってご飯もろくに食べないで、栄養失調になったり逆に栄養が偏っておかしな病気にでもなりはしないだろうか?

僕の健康というよりその先の「命」まで心配が及んでいたようだった。

親元を離れて約一週間ほど経った頃、僕はこの部屋が何となく「あれっ?なんだろう?なんか?う~ん」という言葉ではどう表現したらよいのかわからない雰囲気、というのか空気なのに気づき始めていた。

この部屋を紹介してくれた不動産屋さんも大家さんもとても親切で、「何かあったら連絡してください。」がくどいほど念押ししていたなぁとは感じていたのだけれど、それがただ単純に「初めて一人暮らしをする人だから」ってことだと思っていた。

僕が少しだけ気になったのは、家賃がやけに安いってことぐらいだった。

一瞬「この部屋で何かあったのかな?」とも思ったけれど、「そんな物件を紹介するだろうか?」とも思い、仕送りしてくれる親の負担なども考えてここに決めたのだった。

綺麗にリフォームされた6畳の部屋と3畳ほどの台所の部屋は、外観の古さをまるで感じさせないほど新しく蘇っていた。

不動産屋さんに連れられてこの部屋を見に来た時は、家具も何もない状態だったので広く感じたんだと、引っ越してからわかった。

それでも生活に必要な最低限の家財道具にも関わらず、それ以上はどう足掻いても広く使えない実情は否めなかった。

今まで実家で暮らしてきたのでわからなかった、人一人が生きるにはそれなりに道具が必要なのだと改めて実感した。

そして荷物が片付いて落ち着いたら、実家に置いてきた漫画や洋服を少しづつ持って来ようと考えてた自分が、どれほど浅はかだったかと思い知らされた。

とりあえず暫くは食品と日用品以外の物はうかつに買ってはいけない。

僕は心にそう誓った。

それと忘れてはいけない、やっとの思いで合格したのだから、勉強の方もしっかりしようと心に誓った。

それにしても、何とも形容しがたいこの違和感。

「はて?」と腕組みをして首を傾げるも、ただ何となく「変だな?」と思う程度で、決定的な「おかしさ」と言えるようなものはなかったので、なるべく気にしないようにしていた。

それに朝から大学に行って、その後近くのコンビニで夜10時までのバイトを週5でしているので、部屋に滞在している時間はさほど多くない。

たまに午前だけとか午後だけとか講義が休講になることがあるので、そんな時はバイトの時間まで部屋でだらだら寝転んでこちらに来てから古本屋で購入した漫画を読んだり、ゲームしたりしてるぐらい。

だったら溜まっている洗濯物の一つでも洗えば。

だったらシンクに溜まっている食器や調理器具の一つでも洗えば。

ではせめて床に散らばっているごみを袋に分別して集めたら。

そう脳内に居るもう一人の僕が母親みたいに口うるさく叫んでいても、鉛が入ったように重い体はなかなか動こうとはしなかった。

学校やバイト、大学で出来た友達と遊びに行く時は、背中に羽でも生えたかのように軽やかに動けるのだけれど。

「何故だろう?」

僕はそこまでだらしない自分に脳内でそう投げかけた。

すると、違うもう一人の僕が脳内で「遺伝じゃない?」と答えてきた。

「…そっか…父さんの…」

妙に納得がいくと、再び敷きっぱなしの布団に寝転んで漫画の続きを読み始めた。

久しぶりの休みとなった日中、カーテンもかけていない南向きの窓から日の光が燦燦と降り注いでいた。

まだ春とはいえ、日差しの強さは夏のようだった。

こんな日に彼女もいない僕。

自分でも「何やってんだろう…」と若干の苛立ちを覚えた。

同じ年頃のいけてるやつらはこんな天気のいい日、彼女と遊びに行ったりしてるんだろうなぁ。

急に自分がこの世の中で一番空しい存在のような気がした。

それと同時にこんな風に部屋を汚くしているようなやつには、この先彼女なんか絶対にできないような気もした。

だからといってすぐに意識改革を進めて、自分から進んで部屋を片付けようとはしないというのか、できない僕がそこにいるのだった。

「…もうちょっと切羽詰まったらやるさ…すんげぇ可愛い子でも彼女になったら絶対にすぐさまやるんだけど…」

気を取り直そうと仰向けの大の字から体を一瞬丸めて勢いをつけて起き上がり、小さな冷蔵庫の中の冷えた水出しウーロン茶をボトルのまま口をつけて一口、二口。

ふと何気なく目をやった部屋の角に斜めに渡した洗濯干し紐にかけてある、いつ干したか忘れてしまったハンガーにかかったTシャツの位置がやけに気になった。

「…あれ?これここだっけ?…確か…押入れにかけてなかった?」

当てにならない自分の記憶の糸を手繰るも、その場所にかけた覚えはなかった。

「…ん?…母さん…は来てないか?来てたら、部屋綺麗になってるはずだもんなぁ…それに冷蔵庫に美味しいもんいっぱい入れてってくれるし…」

腕組みをしたまま仁王立ちして考えるも、ただの自分の勘違いのような気もしてきた。

 

それから何か嬉しかったり哀しかったり、はたまた悔しかったりなどの大きな出来事もないまま、毎日が過ぎていった。

そんなある日、僕のバイト先に後から入ってきたやっぱり同じ大学の「タケシ」が、バイトの後僕の部屋に来ることになった。

今やっているスマホのオンラインゲームをタケシもやっているというので、何となく意気投合した勢いでたまたまそういうことになったのだった。

どうせ明日は学校もバイトも休みなので、友達が泊まることになっても全然平気だった。

「…あっ、俺の部屋、ちょーきたねぇけど…」

実際そうなのだから、先に申告しておいた方がいいと思った。

「…ああ、そんなの気にしねぇって…俺んとこだって、まぁ、そこそこきたねぇもん…たまにかあちゃんが片付けに来てくれて、その後はちょっとの間、まぁ綺麗かなぁ…」

タケシは僕と一緒らしかった。

部屋に呼ぶ彼女もいないそうで、そんなのが「仲間」って感じで妙に親近感を持たせた。

アパートの傍まで来た時、タケシに部屋の場所を聞かれた。

「なぁ…お前んち、どれ?」

「ああ、2階の右端…って、あれっ?電気ついてる?あれっ?俺、出る時消したよねぇ…」

驚いてタケシの方を向いた。

「えっ!って…俺、知らねぇし…」

「あっ!そっか…知ってたら気持ち悪いもんなぁ…」

ほんの数秒の自分の言動のおかしさに、僕は全く気づいていなかった。

「…かあちゃん来てんじゃねぇ?それだったら、俺帰るわ…」

「えっ!」

「いや、だって普通そうだろうよ…折角の久々の親子の対面だってのに、なんで俺?ってなるしょ?なっ?」

タケシの言うことはごもっともだった。

「…そっか…そうだよなぁ…そうだったら、今回はわりぃ…でも、母さん来る時必ず連絡くれるんだけど…居ない時でもさ…」

「ふ~ん」

タケシは今の状況をさほど気に留めていないみたいだった。

「…まぁ、ともかく、部屋に行こうぜぇ…」

タケシは輩のような馴れ馴れしさで僕の背中を抱え込むと、並んで一緒に歩いた。

普段はそんなことをしないタケシなのだが、僕が不安な表情を滲ませていたようでわざと明るく振舞ってくれたらしい。

僕はタケシという人間には今まで出会ってきた色んな友達とは違う、何か特別な「友情」みたいなものを感じていた。

「こいつならどんなことがあっても信じられる。」

根拠などまるでなくても、自然にそう思える存在がタケシだった。

ガチャ。

玄関を開けると台所側の電気がついていた。

「…あれぇ?やっぱ俺消してったはずなんだけどぉ…」

首を傾げたまま狭い玄関の土間で立ち止まっていると、まだドアの外に居るタケシが「早く入れてくれよぉ~!」とわざとちびっこ風に騒いでいた。

「…ああ、わりぃわりぃ…きたねぇけど入って…」

先頭で部屋に入った僕は少しだけ散らかったものを端に避けながら、タケシの道を作って進んだ。

「わぁ、きったねぇ…それにくっせぇ…あははははは…」

タケシのストレートな感想に若干むかついたが、それよりも逆に客人に対して申し訳ないような気持ちになった。

僕は慌てて台所側と奥の6畳側の窓を開け放った。

型にはまってたゼリーのように微動だにせず留まっていたこの部屋の淀んだ空気が、一瞬のうちに外からの新鮮な空気に押し出されていった。

6月の夜はまだ肌寒かった。

だが、もんやりとしていた妙な暖かさの空気が6畳の部屋から台所の窓へ流れ出ると、今度はぴりっと引き締まった空気で部屋が満たされた。

「さみぃ…」

タケシは寒がった。

「えっ?そうかぁ?そんなに寒かねぇだろう?6月だぜぇ。」

「いや、マジで寒いって…俺風邪でも引いたんかなぁ?」

「…え~…じゃあ、ちょっとだけ暖房つけるかぁ?したら、窓閉めないと…」

慌てて窓を閉めようと動くと、テーブルの足に自分の足の小指をぶつけてしまった。

「いってぇ…ちくしょ~!」

備え付けのちょっと古めのエアコンから、冬の布団の中のような暖かさがじんわりと部屋に広がった。

タケシには少しの間椅子に腰掛けててもらい、僕は急いで部屋の散らかったものを端に寄せたり、ごみ袋に入れてったりした。

こんな風に自ら部屋を片付けたのは、「いつぶりだったんだろう?」と思った。

がさがさ一人で作業をしていると、タケシは部屋の角を神妙な顔つきでじっと見つめていた。

「どした?腹でも空いた?ごめんなぁ、先になんか食ってて…俺、もうちょっとだから…」

一旦片づけを始めると、ある程度目途がつくまでやめる訳にはいかなかった。

「…なぁ…なぁ…浩樹!浩樹ってばよ…」

身振り手振りの慌てた様子で僕を呼ぶタケシが、その時少しうざく感じた。

「…あっ?ちょっと待ってって…もうちょっとだから…これだけ捨てればもう終わりだから…」

そう言って僕は片手にごみ袋を持ったままの状態で、タケシの方をやっと見た。

するとタケシは神妙な顔つきでおかしなことを言い始めた。

「…なぁ、お前さ…ここに住み始めて…」

タケシの言葉を遮る形で僕はすぐさま答えた。

「入学と同時だからまだ2ヶ月ぐらいだけど…なんだ?壁にひびでも入ってるか?ここリフォームして新築みたいだったんだけど…」

ぶっきらぼうに答えながら、僕は分別しながらごみを玄関の傍に置いた。

「…いや、そうじゃなくって…お前さ、なんか変わったこととかない?ここで…」

「へっ?」

タケシの唐突な質問に昔見た怖いドラマを思い出した。

「やっ…やめてくれよぉ~!そういうのさぁ…そういうのってよくドラマとかであるやつじゃんかよぉ!…訳あり物件で幽霊が出たとかそういうやつぅ…やめてくれって…あははははは…別になんもないしさぁ…俺なんてすげぇ怖がりなんだからよぉ!やめれって、マジで…」

動揺した僕はそう笑って答えるしかなかった。

「…いや、マジで…」

タケシの真剣な表情に、僕は持ってたごみ袋を放してしまった。

「…えっ?…嘘…だろう?…」

「…」

「えっ?マジ?やめれってぇ、そういうの…なぁ…」

僕はタケシの元に駆け寄ると、両手でタケシの肩をがっちり掴んで揺すった。

「…うっそぉ~!な~んてな…びっくりした?あはははは…わりぃ怖がらせちまって…あははははは…」

タケシのドッキリに僕はへなへなと力が吸い取られた。

片付けたばかりの床にぺたんと座り込むと、タケシは来る時に買ってきた冷たいコーラを渡してくれた。

「…なんだよ…やめてくれよ…もしか万が一そういうのあってもさ、すぐに引っ越せないんだからさぁ…俺はどうすりゃいいんだって話になるからぁ…も~、タケシちゃんったらや~ねぇ~…」

心臓が激しく打ち付けているのを打ち消すように、僕はわざとおどけて見せた。

「あはははははは、わりぃわりぃ…」

今度はタケシにも少し掃除を手伝ってもらい、部屋がある程度広くなると早速ゲームをしながらお互い色んな話をした。

僕は高校時代の部活の夏合宿のようだと思った。

みんなで僕達の高校の野球部の大先輩になるおじいさんがやってるという、高校からバスで2時間ほどの海沿いの街にある民宿で、夏休みの5日間、朝から晩まで野球三昧だった。

民宿から3キロほどの場所にある、今は廃校になっている元小学校のグラウンドを借りての練習。

往復はバスを使わずランニングだったので、へとへとになったのを覚えている。

汗でべたべたになった体を民宿の大浴場にみんなで入って流した。

いいだけ疲れているにも関わらず、夜は仲間達とあれこれ喋って、なかなか寝付けなかった。

今、タケシとあの時と似たような形なのが、僕にはくすぐったいような嬉しさだった。


「…そういえばさぁ…部屋に幽霊とか出たらって話だけど…」

僕はまたタケシが自分を怖がらせようとそんな話をし始めたのが、正直少し嫌だった。

「え~…もういいってそういうのは…俺、マジで苦手なんだって…」

本当に嫌で話を変えようとするも、タケシはまだ話したいようで勝手にどんどんと進めていった。

「…いや、そういうんじゃないんだけどもよ…うちのばーちゃん、あっ、実家で一緒に住んでた父さんの方のなんだけど…ばーちゃんがさ…」

「何?幽霊を見たことあるって?」

僕は少しばかり不機嫌を装ってそう返した。

「…いや、そうじゃなくって…まぁ、聞けって…なっ!」

「わかった。」

タケシの真っ直ぐな目には、僕を怖がらせようとかそういうのは滲み出てはいなかった。

「…で、ばーちゃん達が若い頃、引越した先でなんか変な音がしたり、物が勝手に動いてたりしたことがあったらしいんだけど…」

「…」

「それで、ばーちゃん、この家に自分達以外の何かが住んでるって、なんていうか気配で感じ取ったらしいんだけどもさ…一緒に住んでたじーちゃんとか父さん達の兄弟もまだ小さかった頃の話みたいなんだけど…それでばーちゃん、なんか腹立ったんだってさ…」

「えっ?なんで?」

「この家を借りてるのは自分達なんだから、勝手にただで住んでるのが許せないって…」

ぶっ!

僕は思わず飲んでいたコーラを噴出しかけた。

「えっ?何?それ、どういうこと?」

「ん~…だからさぁ、家賃払ってるのは自分達なんだから、この家で暮らすのは自分達だけじゃないと駄目だってことみたいでさ…」

「うんうん…それで?」

「それで…幽霊だろうが、この家に住んでるんなら、家賃払え!って…怒ったらしいんだよね…」

「えっ?」

「天井に向かって、いいか!この家はあたし達が借りて住んでるんだから、勝手に住んでもらっちゃ困る!もしも居座るつもりならあたし達に家賃払うか、あたし達にいいことばっかり起こるようにしなっ!って…金が入るようにしなって…それで勘弁してやる!って…」

「幽霊に?」

「そう、幽霊に怒鳴ったんだって…きっとさ、ばーちゃん、すげぇ腹立ったんじゃない?若い頃は随分貧乏したそうだからさ、勝手に電気つけられたりしたらさ、その分電気代かかるしさ…花瓶とか割られたりしたら怖いかもしれないけど、なんか腹立つじゃん?しかもただで住んでるくせにって…生きてるこっちはちゃんと家賃きっちり払ってるのに、何勝手にただで住んでるんだって…なんかそういうことみたい…」

「へぇ~…そうなんだぁ…お前のばーちゃん、すげぇなぁ…ホントすげぇは…ちゃんと筋通ってるもんなぁ…そうだよなぁ…いくら自分達が後から住んだとしても、ちゃんと家賃払ってるんだもん、権利ってのかそういうのあるもんなぁ…そうだよなぁ…」

僕は会ったこともないタケシのばーちゃんが、ものすごく偉い人だと思った。

タケシは話を続けた。

「…そんでさ…そういう悪さするんじゃなくって…話を聞いてもらいたいとかで勝手に電気つけたりしてるんだったら…」

「…ああ、幽霊がね…」

「そう…ちゃんと話を聞いてやるから、菓子折りのひとつでも持って姿を現しゃあいいのにって…自分達で手伝えることなら手伝うし、成仏したいならお寺さん呼ぶからその代金は自分で用意してねって…ばーちゃん言ってた。」

「…へぇ~…すげえね、ばーちゃん…そんでもって優しいね…人助けっての?幽霊助けか、そういうのもちゃんとやってくれるなんてさ…」

タケシはこくんと頷くと、出してあるポテトチップをパリンとかじった。

「うん、そうなんだぁ、ばーちゃんが言うにはさ、幽霊だって好きで幽霊やってる訳じゃないからって…元はあたし達と同じ人間なんだから、きちんと話せば分かり合えるはずだって豪語してたな…」

「そっかぁ…なるほどねぇ…」

残りのコーラをグビッと飲み乾したタケシは話を続けた。

「…でよぉ、その続きがあってさぁ…」

「えっ?」

僕は正直に驚いた。

タケシの話はばーちゃんが幽霊を叱ったことで収まったのだと思っていたからだ。

「それ以上、もうポルターガイスト的なことは起こりませんでした。チャンチャン。」と終わったもんだと思っていたからだった。

「…それからさ、ばーちゃんの夢枕に知らない女が立ってたらしいんだよね…そんで、ばーちゃん、ちゃんとその女の幽霊の話を聞いてあげたんだって…夢の中でっぽいんだけど…そしたら、お礼にってなんか訳わかんない数字を紙に書いて寄越してきたんだって…そんでさ、訳わかんねぇってばーちゃん怒ったんだってよ」

「…で?どしたの?」

僕はごくんと喉を鳴らした。

「そんでぇ、ばーちゃん、その幽霊を呼び出したんだって…」

「ええ~っ!」

「ちょっと~って、出てきなさい!って…そんでぇ、幽霊が出てきたら出てきたで、今度は説教だってさ。」

「ええ~~っ!説教って…」

「ちょっとあんたさ、紙になんか数字書いてったけど、これ何さ?って聞いたんだって…そしたら、幽霊、申し訳なさそうに競馬の予想だって言ったんだって…そしたら、そうかいわかったけども…あんたさ、そんなのこっちは買ったこともないもの知らないよ。教えてくれるのは嬉しいけどもさ、ちゃんとなになにの数字ですってそこまでやんなさいよ!そうじゃなかったらさ、あんたも親切損でしょ?ねっ?そういうのちゃんとわかってやって!こっちだって忙しいのわかってるでしょ?馬券?こっちは子供8人食べさせるのにやっとの生活送ってんだよ!たかだか2~300円の馬券だって買うお金出すのやっとなんだよ!そんなのあんたもここで暮らしてるんだもの、わかるよねぇ…どうやってその馬券を買う金だしゃいいのさ!えっ?」

その時のばーちゃんが乗り移ったかのようなタケシの喋りに、僕はすっかり圧倒されてしまっていた。

「…そしたら、幽霊が土下座してごめんなさいって…でも、絶対に当たるからって言ってす~っと消えちゃったんだって」

「ええ~っ!そんな無責任な。」

「なんか嘘みたいだけど、丁度その日が土曜だったか日曜でさ、なんかとにかく競馬やってる日だったみたいでさ…でっかいなんとか賞とかの…で、じーちゃんの知り合いで毎週競馬やってる人に券の買い方聞いて、しゃーないって確か…200円?だったか…まぁ、そのぐらいじゃないかなぁ?貧乏だったって言ってたから、そんなに出せないじゃん、なぁ…」

「うん…そうだよね。生活費から出すだろうから苦しいよねぇ…俺も今、苦しいもん。仕送りとバイトだけじゃ…ねぇ…」

「俺もそうだからわかるんだけど…あっ、で、その馬券がさ万馬券だったんだってよ…」

「え~~~っ!嘘だろう?それ~…そんなできた話あるってかぁ?」

「いやいや、俺も嘘だと思ってたさ…だけど、じーちゃんそれで今の実家買ったって言ってたから…」

「ええ~~~っ!そんなことあるんだぁ~…なんか恩返しの昔話みたいだけどさぁ…」

僕は驚きすぎて、後ろにひっくり返りそうになっていた。

「…で、そうだ!その幽霊は?どしたの?また出たの?」

僕の問いにタケシは苦い表情を見せた。

「…あ~、なんかね、ばーちゃんに話聞いてもらったらすっきりしたのかわかんないんだけど…それっきり出て来なくなっちゃったって言ってたなぁ。ポルターガイスト現象も起きず…後は普通に元の生活ってのか、普段通りみたいだけど…」

「へぇ…そう…なんだぁ…じゃあ、無事に成仏しちゃったんだろうねぇ…」

「そうかもしんないなぁ…それかばーちゃんに圧倒されて、違う家に行ったか…」

「まっさかぁ~!あははははははは。」

「はははははははは。」

僕は後になって「どうしてタケシがあんな話をしてくれたんだろう?」と思った。


それからほどなくは普段通りの生活を送っていたのだが、ある日バイトから戻ると部屋にある物の配置が若干換わっていることに気がついた。

「あれっ?」

前にもかけてあるTシャツの位置が違っていたことがあったが、その時は自分の記憶もあいまいだったのでさほど気にも留めていなかった。

だが、今回は明らかに違った。

出かける前よりも明らかに部屋が綺麗になっている。

「母さんは来てないし…先週来たばっかだから、次は来月だし…」

とその時、後ろでがたんと音がした。

振り向くと台所に置いていた、たった今買ってきたばかりの弁当が袋ごと床に落ちていた。

「ええ~っ!うっそ、マジかよ…腹立つなぁ…あ~あ、弁当ひっくり返っちゃって…」

僕はぼやきながら落ちた袋を拾い上げると、目の前に白い足があることに気がついた。

恐る恐る足から徐々に視線を上へ遡っていくと、立っている白い足の人物の全身がわかった。

ぎゃあ~~~!

驚きのあまり激しくしりもちをつくと、尾てい骨から背中にかけてビーンという痛みが走った。

「いってぇ…」

ぎゅっと目を閉じ背中をさすりながら起き上がろうにも起き上がれず、ただ目の前にうっすら見えている白い人影に怯えた。

すると、その影がじわじわと僕の方に近づいてくるではないか。

すぐさま誰かに助けを呼ぼうにも、体が硬直して上手く動かない。

金縛り。

僕は人生で初めての金縛りにあっていた。

「どうしよう…誰か助けてぇ~!」

心の中でそう叫んだ時、僕の目の前僅か30センチほどまで迫っていた白い影から声が聞こえた。

「…あのぉ~…驚かせてしまってごめんなさい…あのぉ、怪我は大丈夫ですかぁ?ごめんなさい、ごめんなさい…」

か細い声の主は、どうやら女性らしかった。

そこから先の記憶は綺麗さっぱり消えてしまった。


「…母さん?…」

懐かしい膝枕の感触。

幼い頃、お風呂上りに母が丁寧にしてくれた耳掃除の時、僕は少しだけ照れ臭い気持ちになったっけ。

「…ん?…あれ?俺は…今は…確か…大学で一人暮らしをしてて…そんで…そんで…」

夢の中に浸っていながらも、片方では現実が少しづつ混ざり始めている。

こんなのは前に見たことがある。

確か、アリス。

そうだ!

アリスがハートの女王とかに追いかけられて追いかけられて…

目を閉じたまま、僕はとても居心地がいい膝枕が夢なのか確認したい気持ちが膨らんできた。

さすさすさすさす。

「あれっ?やっぱりちゃんとある!えっ!誰?…母さんじゃないよなぁ…あれっ?俺、寝る前何してたっけ?え~と…え~と…」

僕は自分の頭の下にあるすべすべの肌の膝を摩りつつ、はっといきなり思いだしてしまった。

「あ~~~っ!」

恐ろしい記憶が不意に蘇り、叫び声とともに目を覚ますと、そこには僕を覗き込んでいる若い女がいた。

「…」

あまりの恐怖に僕は声を失い、急いで膝枕から起き上がるとゴキブリみたいな四つんばいのまま、慌てて女からできるだけ離れた。

背中は自分では見えないのでとても怖い。

無意識にそう察した僕は、正座したままの女を見た。

「あっ!ああああ…ああ…ああ…ああ…な…あな…あなあな…」

腰を抜かした状態で壁際にへたり込みながら、目の前にいる薄っすらした女を指差した。

脳内の冷静な自分は「あなたはどなたですか?」ときちんと聞けているのに、実際の口から出るのは言葉ではなかった。

僕は本当の恐怖というものを知ったと思った。

「あな?…あなですか?」

薄っすらした女はこちらを怖がらせる様子などまるで感じさせず、普通に返答してきた。

「…ああああ…いやいやいや…あのあのあのあの…あな…あな…あな…」

両方の手のひらをパーにしたまま、女子みたいに激しく横に振りながらも、僕はまたちゃんとした言葉が出てこなかった。

「…え~と…もしかして、あなたってこと?」

女は自分自身を指差した。

僕はぶんぶんと今度は激しいヘッドバンギングで答えると、女は「ああ…私ですか?…私、しおりです。塩川しおり…」と笑って答えてくれた。

「…そ、そそそその…あの…なんで?…なんで?」

動揺しすぎると、馬鹿みたいな単語しか口から出てこないものらしい。

脳内にいる冷静な僕が、やけに冷めた態度で勝手にそう分析してた。

女は驚きすぎている僕を安心させようと、自分から話し始めた。

「ごめんなさいね、驚かせちゃって…まさかそんなに驚くタイプだと思ってなかったから…もっと冷静なタイプに見えたから…ぷっ…」

僕は女が最後にちょっとだけ噴出し笑ったのが、気に食わなかった。

怒りの感情が芽生え始めると、僕はどんどん冷静さを取り戻していった。

どうやらこちらに危害を加える気はなさそうだと判断できると、余計に普段の僕に戻ってきた。

「…なんなんですか!失礼な!…だって、だってそんな普通は驚くでしょ?そりゃあ…いきなりゆう…あっ、その…薄っすらした知らない女性がいるんだから…誰だってびっくりのひとつやふたつやみっつぐらい…するに決まってるじゃないですかぁ…あなたなんなんですかぁ!ちゃんと僕がわかるように説明して下さいよ!」

ふん!と鼻息荒く腕組みをすると、僕は彼女の方に真っ直ぐ向いて胡坐をかいた。

「…ごめんなさい…ごめんなさいね…本当にごめんなさい。」

彼女は深々と頭を下げてきた。

そこまで深く頭を下げられると、こっちの方こそ申し訳ないような気になった。

「…え~と、塩川さん?でしたっけ?…いったいなんなんですか?」

少しだけ苛立った雰囲気で返すと、彼女は下を向いてしまった。

僕は一瞬、今度はこの後襲ってくるパターンなんじゃないかと身構えてしまった。

だが、彼女は爽やかに顔をあげると、にこにこと笑顔で続きを話し出した。

「…あの…この間…お友達のおばあさんのお話を聞いて…それで、あたしもそうだなぁって思ったんです…だから、こうして姿を見せてちゃんと挨拶しなくちゃ失礼だなぁって…一緒に暮らしてるんだから…って…」

「えっ?えっ?えっ?…ちょっとたんまたんま…今、なんかおかしなこと言いましたよねぇ?」

とっさに若手のお笑い芸人のようなつっこみをしてしまった。

「…ん?…そうですか?あたし、なんか変なこと言いましたっけ?…」

本当に何も言っていないといった素直な態度の彼女は、きょとんとしたままだった。

「うん、言った言った…完全におかしなこと言ってましたけども…」

「…ん?そうですかぁ?…」

一旦売り出し中のアイドルみたいな可愛らしさで小首を傾げると、彼女は拳骨に顎を乗せながらちょっとだけ考え中だった。

「あっ!」

漫画のように手のひらにもう片方の拳骨をポンと軽く打ちつけると、「ああ、お友達のおばあさんの話を勝手に聞いちゃったこと?で・す・か?」なんてとぼけたことをぬかしてきた。

「ちっが~~~う!そこじゃない!そこじゃないって…」

顔の前で手をぶんぶんと振って否定している僕をじっと見つめながら、彼女は続けた。

「で・す・よ・ねぇ…そうなんです…そこじゃないですもんねぇ…や~だ、冗談ですって!冗談ですってば!やだなぁ、も~う!」

彼女とは会ってまだまもないはずなんだけど、前から知っている人のような雰囲気になっていた。

「…え~と…そうだ!そうだ!」

パチンと手を合わせた彼女は嬉しそうだった。

「姿を現しちゃったってことですよねぇ~?ねぇ~!見えるようになったってことですよねぇ、言いたいのは。」

彼女はもしかしたら天然ボケなのかもしれないと悟った。

「違いますって!何言ってんですか!そこじゃないでしょ~!一緒に暮らしてるってとこでしょうがぁ~!」

自分で言葉を発しておいてなんだが、僕は本当に若手のお笑い芸人のつっこみの方みたいに自然となっているのが、少しだけ恥ずかしくて嫌だった。

僕にそんな思いをさせるほど、目の前に居る薄っすらした女の「ボケ」はすごかった。

「ああ、そっちですかぁ…ああ、そっちねぇ…そっちかぁ…そっかぁ、そっちなんだぁ…ふ~ん、そっちなんだぁ…そうなんだぁ、浩樹さんはそっち派なんだぁ…そうかぁ、ふ~ん、そっちねぇ…そっち…」

きっと誰だってこんな人と会話をしたのなら、全員が全員むかつくに決まっているはずだ。

「ああ、もういいですって!そっちってのはぁ…」

「はぁ」

彼女は僕が何故こんなに苛立っているのか、わかっていないみたいだった。

「…で、塩川さんは…その…なんだ…」

僕はあの有名な私立探偵のように、少しだけ乱暴に髪をくしゃくしゃかきながら、もう片方の手で膝をバチンバチンと叩いた。

言いたい言葉がすんなりと出てこないもどかしさに、僕は数秒やられてしまっていた。

「え~ともしかして…幽霊?かって聞きたい感じ?」

どうしてこうもすんなりと言えるんだろう?

彼女のさっぱりした感じに、さっきまでのいらいらがちょっぴり静まった。

こくん。

僕の頷きを確認すると、彼女は話を続けた。

「そうなんです。あたし、こう見えて幽霊なんです。てへっ!」

心の中で「いやそれはさぁ…」と呟いてしまった。

「…あたし、死んでるんですけど…え~と、いつだったかなぁ…死んじゃったの…確かにせん…」

「ええ~~っ!二千年前から死んでんですかぁ?ええ~~!紀元前の人ぉ~?」

「いえ、違いますって!さすがにそんなに昔に死んでないですってば…やじゃないですかぁ?そんな前からなかなか成仏できないなんてぇ…」

彼女のつっこみはごもっともだった。

僕は彼女が「にせん」ってところで区切るので、つい早とちりをしただけなんだが…

確かによくよく冷静に彼女を見ると、割と現代の人っぽいなと思った。

きちんと話を聞いてみると、数年前にこの部屋に住んでいたそうで不意の交通事故で命を落としたと言っていた。

本当はその瞬間に空からきらきら光るお迎えが来ていたのだけど、窓の外に干しっぱなしていた下着類が気になってしまって、成仏するチャンスを逃したのだそうだった。

その後残された家族によって無事に下着類は処分してもらえたので、成仏できると信じてたのだけれど何故か未だにここにいると教えてくれた。

「…う~ん…それってさぁ…自分では気づいていないだけで、まだなんか心残りでもあるからなんじゃないの?」

僕の考えを素直に伝えると、彼女は神妙な顔つきで黙り込んだ。

そして、顔をあげたかと思ったら今度は「…あたし的にはぁ、全然この世に未練とかないんですけどぉ…下着も無事に処分してもらったしぃ…じゃあ、じゃあ…どうしたらいいですかねぇ?」と僕を責めるような視線を送ってきた。

「えっ?どうすればいいかって…え~…それはぁ…」

咄嗟に僕の脳裏にタケシのいやらしい笑顔が浮かんだのだった。


「あっ?何?相談?いいけど…何?今は話せないってか?…なんだぁ、さては女かぁ?…なんだよぉ~、いつの間にお前彼女なんか…」

バイトの後、タケシに部屋に来てもらった。

メールでもちゃんと説明したのだけれど、タケシはちゃんと読んでくれなかったらしい。

タケシという人間のいい加減さが、僕にはものすごくよくわかった。

「おじゃましま~す!って浩樹、お前の部屋なんか綺麗になってんじゃん!…やっぱり彼女でもできたんかぁ?なぁ、紹介しろよぉ~!水臭いぞぉ~!このっ、このっ!」

にやにやといやらしい笑顔のまま、タケシは部屋に入るなり僕を肘で小突いてきた。

「こんばんはぁ~。」

奥の6畳で正座したままの彼女が、客人に挨拶をした。

「わっ!わぁ~…こんばんはぁ~!」

一瞬驚きを見せるも、冷静に挨拶を返したタケシに逆にこっちが驚かされた。

「ああ、なんだぁ、この人のことかぁ…」

タケシは彼女のことを怖がることもなく続けた。

「ほら、最初におじゃました時あったじゃん、なっ?あん時にさ、この人押入れの角の方に突っ立ってるからさぁ、ちょっと気になってはいたんだけど…もしかしてよくある危害を加えるタイプの霊かと思ったんだけどもさぁ…やっぱ、違ったんだね。良かったなぁ、浩樹。」

「えっ?お前、あん時見えてたの?彼女のこと?うっそ!嘘だろ?おいっ!」

「いや、ホントホント…俺さ、小さい時から見えちゃう人なんだけど、それ言うと気味悪がられるだろう?だから、黙ってたんだけど…あっ、改めまして武田タケシです。どうぞよろしく…え~と、お名前聞いてよろしですか?」

タケシは急に丁寧な言葉遣いで彼女の名前を聞き始めた。

僕はこれが世に言う「ナンパ」なのかなぁと思った。

「初めまして…じゃないですよねぇ…この間は挨拶もしないで失礼しました。え~と、あたしは塩川しおりです。よろしくお願いします。」

ぺこりと頭を下げた彼女が、なんだか少し可愛らしく見えた。

「へぇ~、塩川しおりさん?って…あははははは…しおしおってしつこいですよねぇ…ほら、俺も武田タケシでしつこいでしょ?たけたけって…あはははは…そんでこいつが広沢浩樹でひろひろで…あははははははは…俺ら3人しつけぇ~~!ウケルぅ~~~!」

「何つまんねぇことでわらっ…って、ええ~~~っ!」

ふと見ると彼女も腹を抱えて涙を流しながら、ゲラゲラ笑っていた。

二人がそれほどまでに笑っているのを見ると、「何がそんなにおかしいんだろう?」という気持ちと「これで笑えない俺の感覚の方がどこかおかしいんだろうか?」という気持ちが複雑に絡み合って、僕も自然とつられて引きつりながらもとりあえず笑った。


「…へぇ~、でさ、しおりちゃんいくつなの?」

タケシは彼女のことをもう馴れ馴れしく「しおりちゃん」と呼んでいた。

「あ~、死んだ時ですかぁ?」

自分の死んだことを躊躇いもせずにすっと言っちゃえる彼女に、ちょっぴり驚いてしまった。

「う~ん…今、今の歳さ…」

普通に返すタケシも只者じゃないなと思った。

「ああ、死んだ時に年齢が止まっちゃうんでぇ、今18歳です。」

「ひゃっほ~!俺らと同い年じゃん!ふ~ぅ!」

タケシの妙なテンションの上がり方に、僕は引いてしまった。

「あっ、ごめん…ちょっとトイレ…」

立ち上がりユニットバスの狭いトイレに入るも、二人の話し声はまるまる聞こえていた。

「ねぇねぇ、しおりちゃんはさぁ、幽霊だからぁ、どこでも行けるんだよねぇ…」

「はい、そうですねぇ…ハワイとかも行ったし、エジプトのピラミッドにも登ったし…後はどこだったかなぁ?…う~ん…結構、そうですねぇ、色々行ったかなぁ…」

「ってことはだよ…ってことはぁ、弘樹がトイレに入ってる時とかぁ、風呂入ってる時も一緒に入れるよねぇ…」

タケシの顔は益々いやらしさを増していった。

「やだぁ~…入るってそういう意味の入るじゃないですけどぉ…まぁ、そうですねぇ…弘樹さんの入浴シーンは…何回か…」

照れた様子ではにかみながら話す彼女の言葉に、僕は慌ててトイレから出て聞いた。

「えっ!嘘でしょ?ええ~~~っ!しおりさん…俺の風呂覗いてた?ええ~~っ!トイレもぉ~?ええ~~~っ!ちょ、ちょっとぉ~!それはさすがにやめてもらえるぅ?信じらんない…ええ~~っ!そんなぁ~!幽霊だからって…それはさぁ~!やっちゃ駄目でしょ~がぁ~!やらしい~!あ~、やらし~!引くわぁ~、マジで引くし…やだぁ~…や~らしんだぁ~やらしんだぁ~!」

僕もいつの間にか彼女のことを「しおりさん」って呼んでいるのに、後になってからやっと気づいた。

「あははははははは…ああ…よくホラー映画であるよねぇ…風呂場で髪洗ってる時にとかって…あれ、すんげぇ怖いよなぁ~…」

タケシの言ってる「怖い」もあるけれど、それ以上に僕は幽霊とはいえ若い女の人に入浴だの、トイレで大きい方をしているだのを見られた恥ずかしさの方が勝っていた。

「…じゃあさぁ…しおりちゃんはぁ、浩樹の体を見てるって訳ね…ふ~ん。」

「やっ!そんな…違いますぅ~!違いますってぇ…そういういやらしい目では見てないですって…」

タケシのちょっぴり意地悪い言い方に、彼女は両手で顔を隠してしまった。

「やっ、やめろってば、そんな言い方はさぁ…あっ!でも、そういうことか…ええ~っ!やだなぁ~!やっぱ!恥ずかしいよ。勘弁してくれって感じ。」

しゅんと凹んだ僕を励ますように、彼女はむくっと顔を上げた。

「あのっ、そんなまじまじとは見てないですからっ!大丈夫ですからっ!浩樹さんはいい体ですから!って…あっ、あっ…違うんですったらぁ~…いい意味で細マッチョだなぁって…あたし、細マッチョ好きなもんだから…」

何が大丈夫なんだろうと思った。

それと同時に、夜中にたまにパソコンのエッチな動画を見ながら、しこしこぬいてたところもばっちり見られていたのかと思うと、余計に恥ずかしさがこみ上げてくるのがわかった。

「…それはもういいから…ところで、じゃあ聞くけど、お気に入りのTシャツがこっちにかかってたことあったでしょ?あれってもしかしてしおりさんの仕業?とか?」

僕は気になっていたことをこの際だからとぶつけてみた。

両手ですっぽりと顔を隠して何度も謝って動揺していた彼女は、僕からの普通の質問になると急に普通のテンションに戻った。

「ああ、はい、そうなんです。ごめんなさい、勝手に移動させちゃって…」

「あれさ、押入れに入れてたよねぇ、やっぱさぁ…」

「ええ、そうなんですけど…本当にごめんなさい…あのシャツ、なんと言うか…その…」

言いたくないようなもちゃもちゃ感だった。

「どしたの?あたしはここにいますってこととか?」

タケシが助け舟を出してくれた。

「…いや…その…なんて言うか…」

痺れを切らした僕は、「いいって、怒らないからさ、思い切って言ってみて!」と促した。

「…ごめんなさいね、絶対に怒らないで下さいね…あのシャツ…すんごく臭かったんです…生乾きの臭いってのか、そういうので…あたしは普段押し入れにいるんで耐えられなかったんです、臭すぎて…」

僕もタケシも唖然としながら、彼女の話の続きを聞いた。

「だって、そもそも浩樹さんが悪いんですよ!こんなに部屋を汚くしてるから!一日に一回は窓を開けて空気の入れ替えをして欲しいのに、なかなか開けないし…それに浩樹さん気づいてないだろうけど…あたし、浩樹さんが留守の間、ちょっとづつ部屋のごみとか一箇所に集めて捨てやすいようにしたり、トイレとかお風呂も綺麗にしたりしてるんですよ!一ヶ月に一回お母様が来てくれてその時だけは部屋がすっかり綺麗になるけど…浩樹さんが留守でお母さんがその間に来る時なんか、浩樹さんがきちんとやってますよっていう感じで部屋を少しだけ片付けたりしてるんですよ!知らないだろうけど!だいたい、浩樹さん、だらしなさすぎるんですよ!あ~、なんか腹立ってきた…今までこの部屋借りてた人達、全員、こんなに汚く使ってなかったですよ!あなたが一番酷い!…そういう感じだから…」

「まぁまぁまぁまぁ…」

興奮してきた彼女をタケシが上手く収めてくれた。

「じゃあ…そうだなぁ…浩樹!お前、謝んな!しおりちゃんに一旦謝ろうか?なっ!…しおりちゃん、それで許してあげて…ねっ?いいでしょ?」

タケシに強引に頭を掴まれると、その通りに頭を下げた。

「部屋を汚く使っちゃってすいませんでした。これからは綺麗に使いますんで、どうぞ許してください。」

「なぁ、しおりちゃん、浩樹もこうやって頭を下げてるんだし、もうこの辺で許してやってちょうだい!」

ほっぺたを膨らませた怒り顔の彼女は、渋々僕を許してくれた。


「…えっ?心霊写真とか心霊映像ってそういうことなの?」

「はい、そうですねぇ。大概そうだと思いますよぉ~。だって自分が住んでるところにいきなり見ず知らずの人が来たら怖いでしょ?だから、どちらさまですか?って感じで恐る恐る覗きに行くと、勝手に入って来た人がぎゃあ~!出たぁ~!って騒ぐんですよ。それってすんごく失礼でしょ?写真撮ってるのに写るのは、たまたまどれどれって野次馬みたいな感じで見に行ったらぁ、間違って写っちゃったとか、そういうのばっかですよぉ。ホントのところは…だってそうじゃないですかぁ?浩樹さんだってタケシさんだって急に家にずかずか入って来られたら怖いから見に行くでしょ?」

「うん…まぁ、そうだよねぇ…泥棒かとかって感じで相手に気づかれないように確認するかぁ…」

今までいたずらに怖がっていたテレビの心霊特集で見た映像やなんかが、彼女の説明でよくよくきちんと思い出したら「そうだったかも?」と妙に納得がいった。

廃校のトイレのドアを開けてったら中に女の子がしゃがんでいたのも、あれは今思えば「用を足してた」だけだったんじゃないかってわかった。

だとすると、急にドアを開けられて用を足してるところを写されちゃった女の子が、妙に可哀想だと思った。

自分だったら、「死にたくなるほど恥ずかしいだろうなぁ」とも思った。


タケシが来てくれたおかげで、彼女と色んな話ができたし事情もよくわかった。

「…あの、タケシさんのおばあさんのお話に、私、ものすごく感銘を受けたんです。そうだよなぁ、あたしが勝手にここで暮らしてるんだものなぁ、家賃払ってるのは浩樹さんなのに。って思ったんです。それできちんと姿を現して恩を返そうっていうのか、あたしの家賃分を返そうって思ったんですよねぇ。」

彼女の素直な気持ちが、僕にはくすぐったいほど嬉しかった。

「…いつまでもここに居ちゃいけないなって…いい加減成仏もしてみたいし…だから、お願いします。」

がばっと土下座でお願いされると、僕もタケシも手伝わざるを得なかった。

「その前に…一旦ちょっとだけ恩返ししたいんですけど…いいです?」

いきなりの申し出に嬉しいよりも、驚きの方が勝った。

「明日、一緒に宝くじを買いに行きましょう!擦るやつ…え~と…なんでしたっけ?」

「スクラッチ?」

「そう!それ!それをやってもらえたら…あの、少しか浩樹さんのお役に立つかと…あたしの恩返し力をちょっと試してみたいんです。タケシさんのおばあさんのお話だと、それでその女性ちゃんと成仏したっぽいじゃないですかぁ…だから、もしかしたら、そういう恩返しがちゃんとできたら、あたしもこの世に心残りもなくなって天国に行けると思うんですよね。」

僕は御伽噺のおじいさんになったような気分だった。

それと一緒に「この人は例え成仏したとしても、天国には行けないんじゃないかなぁ」って、気がした。


次の日、僕らは窓から差し込む眩しい朝日で目が覚めた。

夜中までタケシと彼女と沢山話をして、その後いつの間にか眠ってしまったらしかった。

小さな座卓に置いてあったスナック菓子やジュース類は、綺麗に片付いていた。

それは彼女がやってくれたようだった。

寝ぼけ眼を擦りながら、昨日のできごとが実は幻だったんじゃないだろうかとも思った。

だが…

「おはようございます。冷蔵庫にある物で適当に作っちゃいました。良かったらどうぞ召し上がって下さい。浩樹さん、折角実家からこんなに野菜いただいてるんだもの、ちゃんと食べなきゃ罰が当たりますよ…あっ、タケシさんもおはようございます…そうだ…」

夢ではなかった。

僕らが寝ぼけていてもお構いなしにどんどんと笑顔で喋るこの薄っすらした彼女が、本当に死んでいる人なのか信じられなかった。

そして、もしも生きている人だったなら、こんな人が僕の彼女だったらいいなぁとも思った。

それにこうして部屋を片付けてくれたり、食事の支度をしてくれたのだからもう十分恩は返してもらってるとも思った。


僕の幽霊のイメージはテレビや映画なんかで見るのと同じで、白い服を着た髪の長い若い女性なのだけれど、この部屋にいついている幽霊はまるでそれとは印象が違った。

まず、髪が長くない。

小さめの顔と長めの華奢な首によく似合う、短めの清潔感のあるショートカット。

しかも若干薄い茶色で、染めてあるみたい。

白い服は白い服だけど、薄い水色のチェック柄が入ったシャツにショートパンツ。

よく見ると耳にはきらきら光るピアスもしている。

すらりと伸びた手足に細身の体だけれど、どこかスポーツでもやっていたかのよう。

「あのさ、しおりさんって、なんかスポーツとかやってた?」

思い切って尋ねると、「うん、小学校の時からずっとバスケやってたの。」と答えてくれた。

「ふ~ん」

僕は返事をしつつ、心の中で「やっぱりそうだったんだぁ。」と自分の推理が見事に当たった喜びで満足していた。

「しおりちゃんってさ、生きてた時相当モテたでしょ?彼氏とかさ、いたんでしょ?」

タケシの質問が上手いなぁと思った。

「あっ、ううん、そんな全然…あたし、部活ばっかやってたから…そういう色恋ものにはまるで縁がなくって…」

「ふ~ん…そうなんだぁ…」

タケシと台詞がはもった。

「あっ、あそこでいいのかな?あの売り場…あそこ、あそこ…」

僕はちょっとばかり見えにくい場所にある宝くじ売り場を指差した。

「ああ、はい!そうですね。あそこでチャレンジさせて下さい。いいですか?お金かかっちゃいますけど…ごめんなさい。」

彼女は申し訳ないとばかりに、僕に向かって合掌。

それが面白かったのか、タケシは急にゲラゲラと笑い出した。

「あはははははは、幽霊に合掌されてやんの!」

タケシの言い方に若干むかついたけれど、よくよく考えてみれば本当にそうだなと思うと僕も彼女も一緒に笑った。

「え~と…これ?一枚買えばいいの?」

売り場のおばさんに怪しまれないように、本当は彼女が身振り手振りで教えてくれているのだけれど、まるでタケシが指示しているかのようにぎこちないジェスチャーをしてくれた。

早速購入したくじを彼女の指示通りに擦ってみた。

…が、はずれだった。

次のも。

また次のも、指示通りに擦ってみるも、結局は全部はずれで、僕の財布に入っていた千円札数枚があっという間に消えてなくなった。

残ったのは僅かな小銭だけ。

「わぁ~~!どうしてくれるんですかぁ!俺のなけなしのお金がぁ~~~!あ~~~!どうしよう…バイト代入るまで後一週間もあるっていうのにぃ~…どうやって暮らしていけばいいんだよぉ~~!親にもこれ以上頼めないしぃ~~!わぁ~~~!」

僕は両手で頭を抱えてしゃがみこんだ。

この時男として情けないとは思ったけれど、本当に涙がちょっとだけ出てしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、浩樹さん…こんなはずじゃなかったんですけど…本当にごめんなさい。」

彼女は僕に何度も何度も頭を下げて謝ってきた。

彼女を責めるのは簡単だけど、それは男として、いや人としてやっちゃあいけないような気がした。

ただでさえ涙が出ちゃってるのに、これ以上かっこ悪い男になりたくなかったから。

「なぁ、もうその辺で許してあげてって…俺が食い物少しか分けてやっからさぁ…」

ポンと僕の肩に手をおいたタケシに、思わず抱きついてしまった。

「わぁ~!タケシ~~!タケシだけだよぉ~!やっぱりタケシだよぉ~!俺にはタケシしかいないんだよぉ~!わああああああ!」

「…まぁまぁ…落ち着けって…なっ!一旦ちょっと離れようぜ…なっ、ちょっ…恥ずかしいから…なって…なっ…ちょっと離れれって…わかったから、わかったからさ…なって…」

周りを行く人達の目には、僕らがどう映っていたんだろう?

それは考えないことにした。


しょぼんと沈んだ帰り道、先ほどまでのショックが響いて誰も口を開こうとはしなかった。

まるでお葬式のような静まり返りだった。

もうほどなく僕のアパートが見えてくる辺りで、急に横から飛び出してきた小さな女の子が道路の凹みにつまづいて転んでしまった。

「あっ!」

僕達がびっくりして声を上げた次の瞬間、車が真っ直ぐに近づいているのが視線の端に見えた。

「あ~!」

「きゃあ~~!」

「危ないっ!」

僕は咄嗟にその子に駆け寄り抱きかかえて道路の脇に逃げた。

一瞬の出来事だった。

「大丈夫か?」

タケシと彼女が血相を変えて僕とその子の傍まで来てくれると、後ろから慌てた様子のその子の母親が走ってきた。

「めいちゃん!」

「ママ!」

感動の親子の対面に、僕もタケシも彼らには見えていない彼女もじ~んとなった。

「大丈夫?痛いところはない?」

母親が優しく声をかけると、女の子はけろっとした顔で「うん、大丈夫!そのお兄ちゃんが助けてくれたから…」と僕を指差した。

「ありがとうございました。本当に本当にありがとうございました。お怪我はないですか?大丈夫ですか?あなたはうちの子の命の恩人です…本当にありがとうございました。」

涙ぐんだ顔で何度も頭を下げられると、僕は何とも言えない照れ臭い気分になった。

「いえ、あの…いえ…あの…大丈夫ですから…ホントに大したことじゃないんで…」

今まで生きてきた中で、こんなにも人から頭を下げられたことなんてなかったので、恥かしいやら照れるやらで僕はどんな顔をしたらいいのかわからなくなっていた。

ただ、痒くもない後頭部をかくのが精一杯だった。

「あの…お名前と住所を教えてくださいませんか?改めて主人と共にお礼に伺いますので…」

「いやいや…大丈夫ですから…そんな名乗るほどの者じゃないですから…じゃあ、あの…娘さん、もしかしたらどこかぶつけたりしてるかもしれないんで、家に帰ったらよく見てあげて下さい。じゃ、バイバイ!」

そう言ってその場を離れようと思ったら、服の端を引っ張られて引き止められた。

「あのっ…では、失礼だとは思いますが、これ…ほんの少しですけど、どうぞ受け取って下さいませ。裸のまんまで申し訳ないですけど…お願いします。受け取っていただかないと、こちらの気も治まりませんので…どうか…」

そう言うなり助けた子の母親が僕の手に無理やり何かをねじ込んできた。

「では、あの、本当にありがとうございました。ほらっ、お兄ちゃんにちゃんとお礼言って!」

母に促された小さな女の子は、両手を揃えてきちんと頭を下げると、「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう!じゃ~ね!バイバ~イ!」と手を振って行ってしまった。

母親と今度はちゃんと手を繋いで歩く小さな女の子の姿に、僕とタケシと彼女はしばらく手を振った。

「気をつけてぇ~!」

僕は僕自身の行動に内心驚いてしまっていた。

こんな風に助けた親子に「気をつけてぇ!」なんて、大声で言えるなんて。

自分で自分の変わりようが何だか言い表せないほど、嬉しくて照れ臭かった。

親子の姿が見えなくなると、さっき無理やり手の中にねじ込まれた物を思い出した。

そ~っと開くと、それは小さく畳んだ一万円札。

「え~っ!こんなにぃ~!え~っ!いいのぉ~!ええ~っ!こんなにもらっちゃったよぉ…どうしょうよう…」

僕はタケシと彼女の顔を交互に見た。

「良かったじゃん!お前いいことしたんだもん。素直にもらっちゃっていいんだって…良かったなぁ…お金…なぁ…」

「良かったじゃないですかぁ…丁度お金が欲しい時だったからぁ…ねぇ…それにさっきの浩樹さん、さっぱってすばやく動いてかっこよかったですよぉ~!」

「ええ~、そお?…」

二人に言われると何だか本当に恥ずかしくなった。

それは小学5年生の夏休みの読書感想文が褒められて、全校朝会の壇上で読んだ時ぐらい嬉しい恥ずかしさだった。

夜、しおりさんには「絶対覗かない。」という誓いを立ててもらって風呂に入ると、右肘がひりひりと痛んだ。

だけど、僕はそれが小さな女の子を助けた勲章のように思えて、沁みる痛みも我慢できた。


「やっぱさぁ…宝くじの後のあの出来事はさぁ…」

タケシは講義が終わったばかりの教室で、まだ黒板に書かれてある要点を急いでノートに写し取っていた僕に向かって、おもむろにあの日のことを言い始めた。

「あの出来事って?」

僕はとぼけてみせた。

タケシに付き合うよりも、どんどんと消されてしまっていく黒板の文字をノートに書き写すことに忙しかった。

「ほら、小さい女の子が車に轢かれそうになってさ、お前がさっと助けたアレさぁ。」

「ああ、あれ?あれがどうかした?誰だってあんな状況だったら咄嗟に体が動くって…あの時は俺がたまたまそうだったけど、タケシだって今度そういう場面に出くわしたら、絶対に体が勝手に動いてたって…ああ~…消されちゃったぁ…まだ全部書いてないのにぃ…」

僕が激しく残念がっていると、タケシはすーっと自分のノートを差し出してきた。

「おっ!サンキュー!お前偉いね、ちゃんと書き写してたんだね…助かるわぁ~ホント…タケシさまさまだよ…」

「…なぁ、あれってさぁ…しおりちゃんじゃねぇ?」

「えっ?」

タケシの唐突な発言にびっくりしたので、綺麗に書き写していたノートの文字がじゃーっと右に流れてしまった。

「だからさぁ、あれってしおりちゃんの仕業じゃないかなぁ?って…」

僕の手が止まると同時に、肘がびくっと動いて机の端に置いてあった消しゴムがころんと床に落ちた。

「そっ、そんな訳ないじゃん…宝くじも当てられないんだよ?あの人。あんな危ないこと起こせる訳ないじゃん。もしかそうだとしたらだよ、あの女の子が可哀想じゃんかよぉ…あの時は俺が助けたから良かったけど、一歩間違えたらホントに轢かれちゃってたんだぜ。あのしおりさんがそんなことするかよ!あれは偶然だって。絶対そうに決まってるって…」

とんとんと下から一段一段上がってくる人影が、落っことした消しゴムを拾ってくれた。

「はい、これ…広沢くんのでしょ?」

「あっ、うん、ありがとう…」

それは同じ学部の女子、倉沢まゆりだった。

親切なのにそれが済むと途端につっけんどんな態度のその女が、僕は苦手だった。

「…なぁ、なぁ…あいつさ…なんでいっつもああなんだろうなぁ?感じ悪いったらありゃしないよなぁ…前にも何度か遭遇したけど、そん時もすんげぇ感じ悪くてさ…」

タケシは心底ああいう女が嫌いだといった様子だった。

「ああ…」

「なぁ、そう思うべぇ…あんなやつが彼女だったらすんげぇめんどくさそうじゃん?…俺、絶対無理無理…だったらしおりちゃんの方がよっぽど可愛いもんなぁ…死んでなきゃ彼女になってもらいたいもん、俺。」

タケシはそこまで勝手に喋ると、後ろの窓を開けに立った。

僕がノートの続きをひたすら写していると、開け放った窓から初夏のような爽やかな乾いた風がふんわり僕の頬を撫でてった。


「今日はしおりちゃん一緒に来なかったんだなぁ、ちぇっ!残念だよ。」

昼飯を食いに外に出るとタケシは、本当に残念そうにそう言った。

「そうかぁ?そんなに残念でもないけどな、俺は。」

広いキャンパスの中庭の木陰のベンチに腰掛けながら、僕は購買で買ったばかりの焼きそばパンを頬張った。

「そりゃお前はいいさ!あんなに可愛い女の子と一緒に暮らしてんだもん!」

タケシの発言に僕は食べていた焼きそばパンを喉に詰まらせた。

どんどん。

拳骨で胸の真ん中を叩きながら、ボトルの外側びっしりに水滴がついてびしょびしょのウーロン茶を急いで飲んだ。

「ばっ!馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ!俺だって好きであんなのと一緒に暮らしてるんじゃないって…」

俺の声が意外と大きかったらしく、近くにたまたまいたらしい女子が小さく驚いていた。

「…えっ!嘘っ!…広沢君、女の子と同棲してるの?」

振り向くとそこに、さっき教室で消しゴムを拾ってくれたつっけんどん女、倉沢まゆりが涙目で立っていた。

「嘘…でしょ?嘘だよねぇ…広沢君、彼女さんいたんだね…そっか…」

まゆりの表情が見る見る曇ると、僕は何故か必死に弁解しようと躍起になった。

「ちっ!違うって!誤解だって…俺、今好きなやつとかいねぇし…倉沢さんだっけ?…俺、そんなんじゃないから…誤解だって…信じてくれよ!」

別に好きでも嫌いでもない、ただ学部が一緒なだけのよく知りもしない女の子に、僕はどうしてこんなにまで必死に弁解しているんだろう?

脳内にいる冷静なもう一人の僕が、芝居がかった言い方でそう言ってきた。

「あ~あ、まゆりちゃんショック受けちゃったみたいだねぇ…」

タケシのせいなのに、まるで関係ないですといった態度でしれっと言い放つのにムカついたのだった。

「おっ、お前が変な、誤解されるような言い方するから悪いんじゃないかよぉ~!」

今度は小声ながらも強く責めた。

「えっ?お前、誤解されたくなかったってこと?…はぁ、さては…まゆりちゃんにちょっとは気があるって感じ?」

「ねぇよ!あんなつっけんどん女!お前だって嫌だってさっきも言ってたじゃんか!」

「うん…まぁ、そうだけど…でも、あの子、お前のこと好きだったみたいだったなぁ…」

「…」

「ちょっと涙目になってたぐらいにしてよぉ…あんな風に可愛い感じだったらいいのにさぁ、普段も。」

「…」

「そしたら、よく見れば結構可愛いのになぁ?惜しいよなぁ…」

「…ん…まぁ…そうかもなぁ…」

「メガネの奥の瞳がぱっちり二重で、胸も結構あって…だけどほっそりしてて…」

「そこはっ…まぁ、大事か…」

「だろっ?あの子コンタクトにしたら、ぜってぇすんげぇ可愛いはずなんだけどなぁ…惜しいよなぁ…後、性格も…」

「…まぁ、そうだろうなぁ…コンタクトだったら、すげぇモテそうな感じはするなぁ…」

そう言いながらさっきまで彼女が立ってた辺りを何気なく見ると、草むらの中にキラッと何かが光った。

「あれ…何だろう?」

僕は食べかけのパンをタケシに持っててもらうと、立ち上がって光っていた辺りまで進んだ。

すると、そこにはハート型のラインストーンがついたピンクのウサギの顔の形の小銭入れが落ちていた。

拾って見ると、それはたった今、涙目で駆けてった倉沢まゆりのものだとわかった。


タケシと僕はバイトに行く前、拾った小銭入れを届けることにした。

本当はそのまま学校の事務に届けようかと思ったのだけれど、中身を勝手に拝見させていただくと中にしっかりと油性マジックで書いたと思われる自宅の住所と名前があり、学校とバイト先の丁度真ん中辺りの住所だったこともあって、事務に届けるよりも直接届けた方が早く手元に渡ると考えてそうしたのだった。

ついでにさっきの誤解を、きちんと説明しておきたいって気持ちもあったからかもしれなかったし、多分彼女の全財産っぽいお金が入っていたので困るだろうと思ったのもあった。

スマホの地図を頼りにてくてくと歩いて行くと、目指した場所には由緒正しそうな古い大きなお寺があった。

「上昇寺」

そこがまゆりの家だった。

「…しっかし、上昇寺ってすげぇ名前だよなぁ…」

タケシの率直な感想はごもっともだった。

「すんげぇ上昇志向がつえぇんだろうか?それとも、仏さんを天まで上昇させてあげるとかなのかなぁ?」

「さぁ…わかんね。」

それが僕の率直な意見だった。

門から舗装された道を行くとお寺の本堂と渡り廊下で繋がった住職が住んでいるらしい自宅が見えてきた。

僕らは寺の方ではなく、自宅らしきの方のチャイムを鳴らすと、中からどたどたという足音が聞こえてきた。

「は~い!はいはい…今、開けますから…」

がらがらがらがら。

戸が開くなり出てきたその人は、「ああ、お参りだったら、あっちから入ってください。開いてますから。」と寺の方を指差しながら言った。

「いえ、あの…僕らは…あの…これ…」

中年の割には可愛らしい雰囲気のふくよかなその女性は、差し出された小銭入れを見るとすぐに「あらこれ、まゆちゃんのだわ…あなた達、まゆりのお友達?まぁ、わざわざ届けてくれて、ありがとう…え~とね、まゆりは確かさっきだったかな?帰って来てるから、ちょっと待っててね。今呼んで来るから…」そう言うなり、再び奥に戻ろうとしたので、「あのっ…いいんです…これだけ、渡していただけたら…」と慌てて言った。

なのに、まゆりの母は「いいの、いいの、ちょっと待ってて!」と言うなり、今度は玄関から真っ直ぐに伸びている廊下の奥に向かってでっかい声をかけた。

「まゆちゃ~ん!お友達来てるわよぉ~!若いハンサムな男の子二人ぃ~!ちょっと来てぇ~!」

ありったけのいやらしいにやつき顔でまゆりを呼んだ母は、「じゃあ、ごめんなさい…ちょっと…どうぞごゆっくりぃ~。」と廊下の横にある部屋にどすどすと入って行った。

「なぁ~にぃ~?ママぁ~…」

母親に呼びつけられた苛立ちのまま、廊下の奥から倉沢まゆりがやってきた。

「えっ!えっ!嘘っ!嘘でしょ?なんで?なんで?なんで?」

僕らがはっきり見える辺りまで来たところで、まゆりは両手で口をふさぎながら驚いた様子で少しづつこちらに近づいてきた。

「えっ?嘘っ?なんで?何で?広沢君とたけかわ君?」

「…いや…俺、武田だし…」

まゆりの絶妙な間違いに、タケシは静かにつっこんだ。

「なんで?なんで?」

まゆりはただただ「なんで?」を連発した。

「あっ、これ…学校で落としてったでしょ?中見たら名前と住所書いてあったし、結構入ってたから困ってると思って…はい、これ…」

小銭入れを渡す時、まゆりと指先が少しだけ触れた。

ぼとん。

さーっと顔が真っ赤になると、まゆりは出していた手を急いで引っ込めた。

「やだっ!どうしよう!やだっ!」

「やだやだ」まゆりが言うので、僕はちょっぴりムッとしながら「ごめん、大丈夫…俺、ばい菌じゃないから…」とつっけんどんに返した。

ぶんぶんぶんぶん。

今度は激しく左右に首を振りながら、まゆりは「違うの!違うの!誤解なの!誤解なんだってば!…だって、だって、広沢君と触れ合っちゃったんだもん!だから…」そこまで言いかけると、次は「きゃあああ!」と叫びながら勢いよくしゃがんで両手で顔を隠した。

「触れ合ったって…そんな…」

僕はそう言いながら、心で「あの映画の宇宙人と子供みたいな感じじゃん!」と続けた。

「まゆちゃ~ん!お客様に上がっていただきなさい!わざわざ蒸し暑い中、お財布届けてくださったんだから、ねぇ。」

タイミングよく、まゆりの母が廊下の途中の部屋から顔を出した。

「あっ!あっ!そうでした…あの、お財布届けて下さって本当にありがとうございますです。それでですね…あの…母もああ言っておりますんで…あの…どうぞ、入って冷たいものでも飲んでってくださいませ…お願いします…」

慌てて正座に切り替えたまゆりは、僕達に向かって深々と頭を下げた。

「あっ、あのさ…ありがたいんだけど…俺ら、これからバイトに行かなくちゃなんないからさ…ゆっくりもしてられないんだよね…ごめん…もうお礼は十分だからさ…じゃね…」

僕らが背を向けて玄関の戸を開けようとすると、何かが服の後ろを引っ張った。

振り向くとそれは真っ赤になったままのまゆりだった。

「あのっ…あのっ…冷たいものだけでも飲んでってもらえませんか?駄目ですか?もう時間ないですか?あの、二人とも蒸し暑かったでしょ?だから…」

普段はあんなにつっけんどんなまゆりが、この時妙に可愛らしく見えると、僕は「じゃあ、ここでなら…」なんて言ってしまっていた。

僕の返事に嬉しそうな顔で慌てて母のいる部屋に戻ったまゆりは、そろそろ~っとゆっくりお盆を持ってきた。

「あの、どうぞ…」

「あっ、ありがとう…ごちそうになりまぁす。」

水滴がびっしりついたガラスのコップには、オレンジジュースが並々と注がれていた。

僕もタケシもここまで歩いてきて丁度喉がカラカラに渇いていたこともあって、いただいたジュースを一気に体に流し込んだ。

「はぁ~!うめぇ!」

二人揃って飲み乾したコップをお盆に返すと、「じゃあ、また、学校でね!」とだけ言い残し、急いでバイト先に向かった。

「うふふ…えへへへへ…広沢君…きゃはぁ~!」

まゆりは二人を見送ると、届けてくれたウサギの財布をぎゅっと抱きしめてから、すりすりと頬ずりした。


「そんなに嫌な感じじゃなかったなぁ…」

僕がポツリと呟くと、タケシがすかさず「お~お~おお~っ!」と中学男子みたいな興奮具合で妙な声で一人盛り上がっていた。

本当は僕にもわかった。

倉沢まゆりが自分に好意を持ってくれていることを。

だが、僕にはイマイチ、ピンと来ていなかった。

あの感じは漫画やアニメ、ドラマや映画なんかで知ってはいるのだけれど、それと同じことが自分に起きているなんて不思議でしょうがなかったからだ。

それまで一度も女子と付き合ったことがない、冴えない僕なんかを女の子が好きになってくれる訳がないと思っていたから、まゆりの激しく照れる態度がやけに新鮮だった。

そして、「男のアイドルってこんな気持ちをいっつも味わってるんだねぇ。」とも思った。

中1の時に仲が良かった男子と女子数人で、遊園地に遊びに行ったことはある。

高2の時は野球部が夏の大会の一回戦で負けちゃって、その後急に休みがもらえた時にクラスメイトに誘われて海水浴に行ったら、知らない女子も数人いたってだけだ。

後は女子と関わったことなんて、記憶にないだけかもしれないけど、さほどなかったと思う。

あっても母親ぐらいだし。

この大学に入るのに必死で、それどころじゃなかったってのもあるし。

僕は今まで生きてきた人生の中で、どれほど女性と関わってこなかったかを改めて思い知った。

だが、今はどうだろう。

生きている女子とは今日やっとこ触れ合ったぐらいで、後は部屋にいるあの生きていない女子だもの。

それって世間的には「女子と関わってる。」って言えるんだろうか?

そう考えると、自分が関わっている「女子」が「なんで死んでいる人なんだろう?」と哀しい気持ちになった。

まゆりの家でギンギンに冷えたオレンジジュースを一気飲みしたおかげで、バイト中にも関わらず、僕もタケシも何度も行きたくもないトイレに行く羽目になった。


「おかえりなさぁ~い!って、あれっ?浩樹さん、なんか違う。」

バイトから帰るなり、部屋で待ってたしおりがきょとんとした顔でそう言った。

「えっ?そう?別にいつもと変わんないと思うけど…」

僕はそれだけ言うと、すぐさま風呂に入ろうとした。

「いやっ…違う!何だろう?何て言うのかなぁ…こう…綺麗になってる?…っていう感じなんだけど…なんかもっと違う言い方で…ほらっ、何でしたっけ?」

「知らないよぉ~、そんなの…」

僕はそこまで言いかけて、ふと普段とは違ったことに気がついた。

「あっ、そう言えば…」

思い出したことを今すぐ話そうと、僕は彼女の前にぺたんと座った。

「今日さ…俺、お寺に行ったわ…だからじゃない?なんか違うのって…」

「えっ?お寺?なんでまた…」

「ああ、学校でお昼に小銭入れ拾ってさぁ、そんでバイトに行く途中だからタケシと一緒に届けたんだよね。それがたまたまお寺だったんだけど…」

「ふ~ん…そうなんだぁ…お寺かぁ…そっかぁ…」

彼女は「お寺」というキーワードが琴線に触れたらしかった。

「あっ、ごめん、俺、風呂入るから…汗でべったべた…もうちょっとで夏休みだもんなぁ…あっつくなってくるよなぁ…あっ、しおりさん、絶対に覗かないでよ!約束したよね!ねっ!じゃあ、入ってくるから…」

それだけ言うと、僕はそそくさと風呂に入った。

僕の口から出た言葉が、まるで同棲しているカップルの会話みたいだとシャワーを浴びながら思った。


次の日、普段通りに学校に行くとお昼休みにまゆりがてとてとと僕らのところにやってきた。

「あっ…あのっ…あっ、そうだ…こんにちはぁ~。」

まゆりは急に頭を下げながら、よそよそしい挨拶から始めた。

「あっ、こっ、こんにちはぁ~。」

僕とタケシがはもると、まゆりはすぐさま続けた。

「…え~と…あの…えと…家では小さい頃から…あの、挨拶だけはきちんとしないと駄目だって…そう教えられてたもんだから…その…変でしょうけど…あのごめんなさい。」

昨日ほどではないにしろ、ほっぺたを赤く染めたまゆりはそれまでのつっけんどん女だったなんて信じられない雰囲気だった。

「ああ、そんなの、全然…挨拶は基本中の基本だから…大事なことだし…なぁ。」

「ああ。」

こういう時のタケシは、ものすごく頼もしいと感じた。

「あの…それで…昨日は本当にありがとうございました…お財布無くしちゃったって思って、どうしようって思ってたから…」

「ああ、そうだよねぇ。俺も財布落としたことあるけど、ホント、パニックになるよねぇ…わかるわかる。」

「広沢君にそう言ってもらえて…嬉しい…です…ぐすん…すん…」

話している最中にいきなりまゆりが泣き出したので、僕は正直どうしたらいいのかパニックに陥った。

「そうかい、そうかい…それは良かったねぇ…まゆりちゃん…あっと、そうだ、俺ちょっと図書館に行ってくるわ!わりぃ、じゃな!後でなぁ!」

タケシはそれだけ言うと、にこにこしながら学校の図書館に向かって歩いて行ってしまった。

残された僕と彼女は、向かい合ってモジモジすると次に何を喋ったらいいのかわからなくなっていた。

「…あっ…そうだ…あの…これ、受け取って下さい!」

彼女は赤い顔のままがさごそと鞄の中を探ると、僕の前に綺麗なリボンがかかった包みを差し出した。

「えっ?何?これ?」

「あの…お礼のクッキーです…昨日、作ったんです。良かったら…あの…食べちゃって下さい!じゃっ!…」

僕に包みを強引に押し付けると、彼女は「きゃあああああ~!」と高い声を出しながら走って行ってしまったのだった。

「ええ~!ええ~っ!ええ~~っ!…タケシぃ~~~!」

僕も叫びながら、タケシいる図書館に向って駆け出した。


「はぁはぁはぁはぁ…たっ…タケシぃ~…はぁはぁはぁ…はぁ~~~。」

「あれっ?どした?まゆりちゃんは?一緒じゃないの?」

「…はぁはぁはぁ…ああ、なんかきゃあって叫びながら走って行っちゃって…はぁはぁはぁ、ちょっと…たんま…」

図書館でテスト勉強をしているタケシを見つけて嬉しくなった僕は、一旦落ち着こうと鞄からペットボトルの緑茶を出してぐびぐび飲んだ。

「ぷはぁ~…はぁ、やっと落ち着いたぁ…」

「そっか…良かったな…で?まゆりちゃんとは?どうだった?」

落ち着きはらったタケシにそう聞かれた。

「ああ、それなんだけど…これ。もらっちゃって…」

「何?」

「クッキーだって。」

「ふ~う!やるぅ~!」

僕は黙ってタケシに小突かれることにした。

「で?クッキーって?何?手作りか?」

「ああ、うん、なんかそうみたい…」

がさごそともらった包みを開けると、途端にそこいら中に甘い香りが広がった。

「あ~、美味そう!」

「ほらっ。」

一つ取り出してタケシにあげた。

「えっ?いいの?大事な大事なクッキーなのに?」

「そんなんじゃ…そんなんじゃ、ないってば…一緒に食おうよ。財布拾ったお礼って言ってたから…拾ったのは俺かもしれないけど、届けたのはタケシもだからさ…」

「…そうか…じゃあ、ありがたくいただきまぁ~す。」

ぼりぼりぼりぼり。

「あっ、美味いこれ。ほら、お前も食ってみ!」

「うん。」

ぼりぼりぼりぼり。

「あっ、ホントだ。美味いなぁ。」

僕は彼女からもらったクッキーを食べながら、今までのバレンタインデーのことを思い出していた。

小学校の時は低学年に2個ぐらい貰ったはずだ。

そんでもって、高学年になると少し大目の5個。

そのうちの2個は手作りで、更に1個はクッキーにチョコがコーティングしたやつだった。

中学の頃になると、違う学校から来た子も混ざって、確か3個だったかな?

高校になると急にちょっとだけ増えて、8個ぐらいもらったっけ。

普段はあんまり甘いものは食べないんだけど、倉沢まゆりが作って僕にくれたクッキーはやけに美味しい気がした。


「…あっ、そうだ…昨日さ、しおりさんがおかしなこと言ってたんだよね。」

「へっ?何て?」

「なんかさ、俺が綺麗になってる?だったかな?ホントはもっと違うニュアンスらしいんだけど…」

「…う~ん…綺麗、綺麗…ねぇ…あ~、それってさ、もしかして浄化されてるとか?」

「あっ!そうかも!タケシ、ナーイス!」

「浄化ねぇ…」

「そうそう…それでさ、俺ら昨日寺に行ったじゃん。だから、多分浄化?されたんじゃないかなぁって思ってさ…」

「そうかぁ…そうかもなぁ…お寺ってパワースポットだもんなぁ…」

「だったらさぁ、しおりさん、連れてけば成仏できんじゃね?あの人、成仏したがってるからさぁ…」

「あっ!そうかも!そうかもしんないな!そうだわ!すっげぇ!浩樹、お前すげぇ発見したんじゃね?なぁ。」

僕らの声が予想以上に大きかったようで、すぐさま周りからこほんこほんなんて咳払いをされてしまったのだった。

「じゃあさぁ…早速連れて行きたいところだけど…まずはテストが先だから…」

「そうだなぁ、それが終わってから…夏休みになっちゃうけど…それでいいよなぁ?」

「ああ、いんじゃね?夏休みなら丁度お盆もあるし…あっ、お盆はバイトあるよなぁ…ちっ!あ、でも、いいかも。あっ、だけど、その前にまゆりちゃんに相談した方がいいんじゃね?」

「なんで?彼女に?」

「だって、まゆりちゃん家だから…一応は行く時、連絡しといた方がいいかなと…」

「そっか…そうだよなぁ…うん。あ、でも、俺、彼女の連絡先知らねぇし…」

「ふっふっふっふっふ…浩樹君…じゃじゃ~ん!」

どや顔のタケシはスマホを僕の顔の前に近づけてきた。

「えっ?これ…彼女の?」

「ピンポ~ン!」

「いつ?」

「内緒!ふふふふふふふふ。」

不敵な笑みを浮かべたタケシは侮れないと思った。


うるさいほどの蝉の声とどこまでも続く青い空に真っ白でもくもくとでっかい雲が浮かんでいるのが見える。

折角長かったテスト期間も無事に終えたってのに、僕は本格的に始まった夏の暑さに、そろそろやられ始めていた。

「あぢぃ~!」

ぎらぎらと眩しい太陽の光が窓から燦燦と降り注ぐこんな暑い時期、よりによって部屋に備え付けられていたエアコンが故障してしまった。

実家で使っていたキャラクターがついた卓上の扇風機だけでは、この酷い暑さはとてもじゃないけどしのげそうになかった。

「ねぇ、浩樹さんってば、暑いのはわかりましたけど、もうすぐ約束の時間じゃないですかぁ?」

幽霊のしおりさんは汗一つかいていない涼しい顔で、暑さで大の字に倒れている僕を起こそうとしていた。

「ああ、もうそんな時間?そっかぁ…はいはい、わかりましたよ…じゃあ、そろそろ行きますか。」

汗だくの僕は重い体をやっと起こすと、とりあえず朝洗った顔をもう一度洗った。

今日は、事前にまゆりのお寺に行く約束していた日だった。


「お~う!久しぶり!でもないか…バイトでほぼ毎日会ってるか?ははははは。あっ、しおりちゃん、おはよう!今日も可愛いねぇ。」

「えっ?そう?いつもと変わんないですよぉ。ねぇ。」

「いや、ねぇって言われても…」

酷暑とニュースで言ってるほどの暑さなのに、タケシは妙にウキウキしていた。

「ああ、暑いのに、お前、なんでそんなに元気なの?」

「ん?わかる?ふふふふふ…昨日さ、高校ん時のやつらから久しぶりに連絡来たんだけどよ…にっひひひひ。」

「なんだよ、気持ちわりぃなぁ…暑いのに…やめてくれよ!その顔。」

「え~!浩樹くん、ひっど~い!ねぇ、しおりちゃん、浩樹ったら酷いよねぇ…」

「そうですねぇ…いくら暑いからって、ちょっとキツイかも…」

二人に責められ僕はしぶしぶ「じゃあ、ごめんって…」と謝った。

「で?連絡がどうしたって?」

「そうそう…そうなの…それがさぁ、今度同窓会やるんだけどもよ…なんかさ、同じクラスだった女子がさ、昔、俺のこと好きだったって言ってるんだってよ…そんで、そんで、同窓会で会いたいから、絶対絶対来てって…ひゃはぁ~ん。」

僕がこんなに嬉しそうなタケシを見たのは、初めてだった。

「そっかぁ…良かったね、タケシちゃん!」

「ありがと!浩樹君!」

「やだぁ、なんかやだなぁ…」

しおりは心の底から嫌だという顔をした。

「あっ、そうだ。それよかさ、倉沢さんにしおりさんのことちゃんと説明した?」

「…あっ…うん…まぁ…ね。」

まゆりと連絡を直接取っているのはタケシなのに。

僕は言葉では説明できない不安にかられた。


「こんにちはぁ~!」

僕らが寺に続く道を歩いていると、向こう側からまゆりの声が聞こえた。

「あっ!お~い!まゆりちゃ~ん!来たよぉ~!」

「倉沢さ~ん!」

僕らが手を振ると、彼女は照れ臭そうにまた顔を真っ赤に染めて手を振り返してくれた。

ようやくお互いの顔が見える頃、それまで笑顔だったまゆりの顔が急に真顔になった。

「あれっ?まゆりちゃん、どしたの?」

タケシが声をかけると、僕の横辺りを見て硬直しているのがわかった。

「あっ…あっ…」

言葉にならない声のまま、まゆりは僕の横を指差すとがくがくと震えだした。

「あっ、もしかして…まゆりちゃんさ…この人、見えてる?」

何かを察したタケシがすかさずそう言うと、まゆりはただこくんと頷くのが精一杯だった。

「あっ…あっ…ゆう…幽霊…」

怯えるまゆりを安心させようと、タケシは「この人ねぇ、浩樹の部屋で一緒に生活してる人なんだよぉ~。あれっ?俺、ちゃんと説明したよねぇ…俺ら以外に友達連れてくってさ。」と教えた。

「えっ?そんなの聞いてないです。それに広沢君と一緒に生活?」

今の今まで怯えきっていたまゆりが急に低い声を出した。

「何ですって?…広沢君と一緒に生活って…ずっる~い!ずる~い!ずる~い!いくら幽霊だからって、そんなのずるいじゃないですかぁ!」

僕は倉沢さんは、怯えてた方が良かったような気がした。

「一体、どういうことですかぁ?」

詰め寄るまゆりの勢いもよそに、寺の敷地に足を踏み入れた途端、しおりは体がぱーっと気持ち良くなっていくのを実感していた。

「あ~…何だろう…ここ、すんごく気持ちいい~!…なんか体が軽くなったような気がするぅ~!」

両手を広げて空を見上げているしおりは、自然と湧き上がる笑顔でいっぱいになっていた。

「えっ?」

僕らは驚いてしおりを見た。

すると、彼女の体が綺麗な黄色っぽい光に包まれていた。

「あっ!もしかして…成仏してるんじゃない?」

「そうかも!…良かったねぇ、しおりさん!」

僕は彼女が願い通りに成仏しているのだと思っていた。

だが、それは全くの勘違いだった。

「あれっ?すんごく気持ちいいんだけど…あれっ?」

彼女本人も何かが違うと感じたらしかった。

「あのさぁ。倉沢さん、この女性、塩川しおりさんって言うんだけどね、この人、ずっと成仏したがってたんだけど…今のこれって、成仏中なのかなぁ?」

目の前で起こっていることにすっかり気をとられていた倉沢まゆりは、急に僕に話しかけられるとビクッと体が反応し、再び顔を赤らめて照れながらも一生懸命答えてくれた。

「ああ、うん…そうですねぇ…私も詳しくはわからないんですけども…多分、これは成仏中ではないと思います…あっ、もしかして本堂に行けば、今度こそちゃんと成仏できるかもしれないですけども…本堂ならお釈迦さまいるから…ここよりはずっとパワーがあると思うんで…でも、まずは、行ってみないと何とも…」

「そっかぁ、倉沢さんがいくらお寺の娘さんだからって、そういうことまではわかんないよねぇ…ごめんねぇ、なんかさ…あの人、一緒に暮らしてるって言ってもさ、倉沢さんが思ってるようなこととか全然ないし…」

本当は倉沢まゆりが僕としおりさんの関係をどう思っているかなんてわかりはしないんだけど、それでも僕はどうしても潔白ってのか、男女の関係みたいなのはないってことを伝えたかった。

「…そうですよねぇ…広沢君はそんな人じゃないってわかってるはずなのに…ごめんなさい…変に勘ぐったりして…ホントにごめんなさい。」

ぺこりと丁寧に頭を下げるまゆりの体が、少しだけ震えているのを僕は見逃さなかった。

「あっ、ううん…タケシからちゃんと事情を聞いてると思ってたんだけど…聞いてなかったみたいだね…ごめんね、なんか…」

「ううん、そんな謝らないで…大丈夫だから…武田君からは広沢君と一緒に遊びに行っていいか?って聞かれただけ。それで都合のいい日ってのか、丁度いい日が今日だったから…」

僕と倉沢さんが話している時、タケシとしおりさんはお寺の敷地を勝手に見て回っていた。

「そだ、本堂に行ってみましょうか?あの、こっちです。」

「お~い!タケシとしおりさ~ん!これから本堂に連れてってくれるってぇ!」

「え~!ホントぉ~!今行きま~す!」

「本堂だけにほんどぉ~!なんちて。あははははははは。」

「タケシさん、それ全然面白くないですよ…それよりも早く行きましょう!ほらっ!駆け足!駆け足!」

折角のギャグを真顔で「面白くない」と言われてしまったタケシは、しおりに背中を押してもらわないと前に進めないほど落ち込んでしまっていたのだった。


まゆりに案内された本堂はきらきらした金色のお釈迦様が真ん中にどすんと鎮座していた。

「わぁ~、すごい立派だねぇ…」

僕は素直な感想を述べた。

「いえ、そんなにすごくはないですよぉ…お寺ってどこも大体こんなんだと思いますけど…」

まゆりは謙遜して答えた。

「わぁ~!ここ、すんごく気持ちいい~!あ~、癒されるぅ~!」

しおりがまたしてもパーッとキラキラした黄色っぽい光に包まれるも、全然成仏できていない様子。

「あ~、俺もなんか癒される感じわかるわぁ~!」

何故かタケシまでしおりと同じく両手を広げて顔を上げると、目を閉じて何ともいえない幸せそうな顔をした。

「う~ん…なんで成仏できないんだろう?あの人…」

僕がぼそりと呟くと、いつの間にか隣にいた倉沢さんが「なんででしょうねぇ?」と答えてくれた。

しおりとタケシの至福の時が終わると、一同がお釈迦様の前に集まって座った。

「あ~、すんごく気持ちいいんだけど…あたし、なんで成仏できないんですかねぇ?わかりますぅ?」

成仏したい張本人が真っ先に口を開いた。

「さぁ、それはよくわかんないけど…もしかして、まだ、なんか心残りでもあるんじゃない?」

「あっ、それ、私も同じこと思いました。あの、しおりさん?って呼んでいいですか?」

「ああ、どうぞ、ごめんなさい、まだちゃんと自己紹介してなかったですねぇ。お世話になるのに失礼しました。私、塩川しおりです。好きに呼んじゃって下さい。それで、浩樹さんのとこにいるんですけど、いさせてもらってるんで家賃とか払わないと悪いなぁって思って…それで、色々恩返しを試したんですけども、どれも失敗しちゃって…」

「そうそう…最初の宝くじなんか酷かったよねぇ…まぁ、でも、すぐにそれ以上のお金が運良く戻ってきたけどさ…後、懸賞もあったよねぇ、しおりちゃんが絶対当たるから応募してって言ってさ、浩樹、あん時同じジュース何本だっけ?買って飲んでさ、シール集めて…で、結局応募したけど全然当たんなくって…だけど、なんか知らねぇけど、大家さんのおばあちゃんから大量の野菜と干物だっけか?いただいてなぁ…なぁ、食いきれないからって俺も少しもらってさぁ…結果はプラマイゼロって感じだろうなぁ?いや、ちょっとだけプラスか?まぁ、そんな感じだよなぁ…」

タケシは僕に降りかかった出来事を、まるで自分のことのように説明してくれた。

「しおりさん、生きてた時、好きな人とかいなかったんですか?」

まゆりが神妙な顔つきで質問した。

「…ああ…うん…いたかも…」

「ええ~っ!そんなの聞いてないですよぉ!なぁ、タケシ!」

「ああ、うん、そうだなぁ、聞いてないかなぁ…」

憤りを感じている僕に対して、今まで一緒に彼女がどうしたら成仏できるか考えてくれていたタケシとの間に若干の温度差があるのをこの時ようやく知ったのだった。

「で?しおりさん、その、好きな人って?」

僕が食い気味に尋ねると、しおりさんは恥ずかしそうに顔を手で隠しながら「…男子バスケ部の先輩…」と答えた。

「ええ~っ!そうなんだぁ~…で?今、その人、どこにいるかわかります?」

彼女が一刻も早く成仏できればと思うと、僕はいつしかぐいぐいと質問を繰り出していた。

「…う~ん…実家はわかるけど…今も、そこに住んでるかは、ちょっと…」

「そうですか。わかりました。じゃあ、早速その彼の実家に行ってみましょう!ねっ!早い方がいいんですよねぇ!」

どうしてそんなに焦っていたのか、未だにわからない僕だった。

「あ、でも、どうやって行く?しおりちゃん、彼の実家ってこっからだいぶ遠いの?」

「う~ん…そうねぇ…あたしはひとっ飛びで行けるけど…」

「あそっか…ハワイとか行ったって言ってたもんなぁ…あ、一人で行って勝手に成仏って…訳にはいかないか…俺らも見届けないとね…そうですね…」

僕以外の全員の視線が酷く責めるようなものだった。

「え~と、例えば車だとどれぐらい?とか、電車だとどれぐらい?とか、そういう具体的なので教えてよ…」

こういう時、ホントにタケシは褒めたいぐらいだと思った。

「そうねぇ…確か…車で1時間半ぐらいかなぁ?…あっ、でも、車ないか…じゃあ…」

しおりさんがそこまで言いかけると、「はいはいは~い!」と勢い良くそれまで静かだったまゆりが手をピンと真っ直ぐに上げた。

それはまるで先生に当ててもらいたい生徒みたいだった。

「あのぉ~、車だったらあります!」

「えっ!ホント!もしかしてお父さんのとか?」

僕はまさかその次に出る言葉なんて、皆目見当もつかなかった。

「いいえ!実は…私のなんです…軽自動車なんですけど…それでもいいですかぁ?」

「ええっ!いいに決まってるじゃん!すご~い!倉沢さん、車運転できるんだねぇ!」

そう言いながらも、僕もすぐにでも車の免許は欲しいと思った。

「じゃあ、早速出発しますか!」

「そだね。じゃあ、倉沢さん、お願いします。」

「アイアイサー!」

ピシッと敬礼する倉沢まゆりが、案外古い感覚の持ち主なんだとわかった瞬間だった。


まゆりの愛車は、彼女の雰囲気そのままの綺麗なショッキングピンクの軽自動車だった。

タケシに促され、何故か僕は助手席に乗った。

「倉沢さん、普段から結構、運転してどっか行ったりしてるの?」

僕の質問に倉沢まゆりは照れながら、「はい…あの、学校に行ってるんで…結構、乗ってます…意外ですか?…そうそう…あっ、あの…あのですね…広沢君のこと、しおりさんみたいに浩樹君って呼んでも大丈夫ですか?」と返してきた。

「正確にはしおりさんは僕を「浩樹さん」って呼ぶんだけど」と思ったけれど、それは言わずに黙っておいた。

「えっ、あっ、どうぞどうぞ…じゃあ、俺も倉沢さんのことまゆりさんって呼ぼうかな…」

「ええ~!はい!是非!うふふふふふふ…えへへへへへ…じゃあ、あの、皆さん、出発しますんで、シートベルトをお願いします。」

「ラジャー!」

青く澄み切った夏空の中、僕達はしおりさんがかつて想いを寄せていたという、男子バスケ部の先輩に会いに向った。


海沿いの道を走ると、開け放った窓から勢い良く潮風が車内に吹き込んだ。

僕達4人、ずっと昔からの友達のようにわいわいと色んなことを喋った。

倉沢まゆりはオタク女子だとばかり思っていたけれど、実際はこんなにアクティブな女の子だとわかった。

そして、意外なことがもう一つ。

車内でかかる曲が全て洋楽だったのにも、驚いた。

僕は倉沢まゆりはてっきり今どきの男性アイドルとか、韓国の男性アイドルあたりが好きなのかなぁと勝手に思っていたので、まさかこんなヘビーなロックばかりかかるとは。

人って見た目の印象通りって訳でもないんだとわかった。

そうこうしているうちに、目的地に到着したのだった。

「わぁ、懐かしい…」

しおりさんは、本当に懐かしそうに目の前にある古びた一軒家を眺めていた。

表札に「後藤」とあった。

「ここ?」

「そう、ここ…部活の帰りにわざと遠回りして、先輩の家の前を通ったりして…それでたまに窓を開けた先輩に見つかっちゃったりして…今だったら、絶対にストーカーでアウトだったけど…あの頃はまだセーフだったから…先輩、今も住んでるのかなぁ…」

目的の家の前に停めた車の中で、僕らは少し様子を見た。

「あっ!誰か出てきたよ…行って話しかけてみる?先輩、今もいますかって…俺、聞いてきてやるよ!」

そう言うなり後部座席のタケシは颯爽と車を降りて、たった今出てきたばかりの家の人に先輩がいるかどうか聞きに言ってくれた。

「あの人…先輩のお母さんかなぁ?」

「多分、そうじゃない?奥さんって感じじゃないもん。」

「あっ、そっか…先輩、結婚してるかもしれないんだ…そっか…そうだよねぇ…」

しおりさんは自分だけがいつまでも18歳のままでいることを、忘れていたようだった。

「あ、戻ってきた、戻ってきた。お疲れさん!で、どうだった?先輩の人は?ここに住んでるって?」

「ああ、なんかまだ一緒に住んでるんだって…そんでね、この先にある市場の中で働いてるってさ…なんか魚屋さんなんでしょ?先輩…」

タケシに聞かれて、「あ、そうそう、そうだった、そうだったわ…」なんて答えるしおりさんだった。

「では、市場に向ってレッツゴー!」

「オー!」

車は真っ直ぐ教えられた市場へ向った。


「ねぇ、しおりさん、先輩ってどんな感じの人?かっこいい人?」

運転しながらまゆりは後部席にいるしおりにそう尋ねた。

僕もタケシも同じことを聞きたかったので、「まゆりさん、ナーイス!」と思った。

「…うん、かっこよかったなぁ…すらっと背が高くて、手足が長くてしゅっとした顔で爽やかで清潔感があって部活も勉強もできてて…ホントに素敵な人だったなぁ…あたし以外にも先輩のこと好きだった人、結構いたもん。バレンタインにあたしも思い切って手作りチョコあげたんだけど、他にも30人ぐらい?だったかなぁ…部活の子とか違う部活の子とかからもらってたもん…先輩のお誕生日の時もさ、部活にでっかい袋持って来てて、それから溢れるってのかはみ出すぐらい、プレゼントもらってたなぁ…あたしもタオル贈ったんだけど…」

「タオルって…お中元みたい…」

それが僕の率直な感想だった。

「あはははは、そうだよねぇ…バスケやってたから、汗いっぱいかくからタオルもいいかなぁって思ったんだよねぇ…そっか…お中元っぽいかぁ…だから、振られちゃったのかなぁ…」

力ない笑顔の彼女は、話し終えるとしょんぼりと窓の外を眺めていた。

「あっ!ごめん!ごめんね、しおりさん!そういうつもりで言った訳じゃないから…ホント、ごめんなさい…俺、しおりさんを傷つける気なんてさらさらないから…ホント、ごめん!ただ、素直にお中元ぽいって思っただけだから…ごめん、機嫌直して下さいよ…ねっ、ねっ…」

僕は彼女が心から傷ついていると思い、必死に謝った。

「…ん?ああ、別に気にしてないよぉ…浩樹さん、気にしすぎぃ…あははははは、大丈夫…ちょっとしか落ち込んでないから…」

「そっかぁ、それなら良かったぁ…」

ホッとすると、僕はぬるくなってたウーロン茶を一口ごくりと飲んだ。


到着した市場には魚屋が3軒。

出入り口の案内を見ると奥の方に「後藤」とあるのを見つけた。

「…じゃあ、じゃあ…行きますか。」

タケシの号令に僕らは小さく「オー!」と声を揃えた。

活気ある市場の中を進んでいくと、目指す魚屋にゴムのエプロンをつけたねじりはちまきのでっぷりとしたお腹の大きな男の人がいた。

「はいよ、いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃいよ…ほい、奥さん、活きのいいのが揃ってるよ、どうだい?買ってかないかい?え~、はい、いらっしゃいいらっしゃいよ…」

独特の言い回しで客引きをしているその男性は、僕らが近づいていくとすかさず声をかけてきた。

「おっ!珍しい若いあんちゃんじゃねぇか!よっ!今日はどうするね…いらっっしゃいよ…」

「あのっ…あの…後藤さん?ですか?」

「あっ?ああ、そうだけど…あんた、誰だい?俺になんか用かい?」

それまで愛想よく僕らに声をかけてくれていた男性は、急に警戒感を強めてきた。

「ああ、その…僕らは怪しいものじゃないです…あの、その、昔…お世話になったってのか…それで…その…」

「…」

大きな男性は黙って僕らをじっと見た。

「あのっ…学生時代にバスケをやってた…あの、バスケ部のキャプテンだった後藤雄介さんは、こちらにいらっしゃいますでしょうか?」

僕は怒鳴られるんじゃないかと、身構えつつも頑張って本題に入った。

「ああ、雄介は俺だけど…」

「えっ!…え~と…え~と…」

「ああ、昔、バスケやってた後藤雄介は俺だけども…」

「えっ!ホントですか!…え~とそうですかぁ…そうでしたかぁ…あっ、あの…その、マグロのお刺身もらいます…あの…いくらですか?」

僕は買いたくもないマグロの刺身を、後藤鮮魚店で購入したのだった。


あんな訪ね方をしたにも関わらず、マグロの刺身を買ったからなのか、後藤雄介さんは「あっちに食うところあるから行ってみな!ちゃんと醤油も箸もあっから…毎度あり!良かったらまた買ってって!」ととても親切に教えてくださった上に、「おまけ」と言って立派なホタテの貝柱の刺身を彼に見えている人数分3つほど入れてくれた。

「やっぱり客商売をしてるプロだからなんだろうなぁ」と思うと、僕はバイトのコンビニでの態度を今度から改めようと心に決めたのだった。

タケシとまゆりと僕の3人で買ったばかりの刺身を食べていると、しおりさんが指を銜えた哀しそうな顔で僕らをじっと見つめていた。

「いいなぁ…お刺身…美味しいんでしょう?…いいなぁ…」

「あ、そっかぁ…しおりさんって幽霊だから何にも食べなくてもいいんでしたよねぇ…」

「そうだけどぉ…こうやってみんな、美味しそうに食べてたら、あたしだけなんか仲間はずれみたいでさぁ…あたしも食べてみたいなぁって…」

「ああ、そうですよねぇ…」

「しおりちゃんさ、浩樹の部屋の片付けとかさ、ご飯作ったりはできるじゃん!だったら、刺身も実は食えんじゃね?食べてみたら?」

タケシの提案にしおりさんは嬉しそうだったけれど、倉沢まゆりはムッとした顔になっていた。

「じゃあ…いっただきま~す…あむ…」

ぼたっ。

しおりが口に運んだはずのマグロは、しおりの体を通り抜けてしまった。

「あっ…」

「もったいないなぁ…パクっ。」

タケシは普通に、テーブルの上に落ちたしおりが食べかけたマグロを口に放り込んだ。

「うんめっ…」

「はぁ…やっぱ駄目なんだねぇ…そっかぁ…」

しおりは哀しそうな表情を浮かべた。

「…ああ、そだ…それはそうと、しおりさん、どうでした?後藤さんに会って、成仏できそう?…な、感じじゃないか…できそうだったら、ここにいる訳ないんね…」

「だってぇ…先輩、あんなデブじゃなかったもん!もっともっと…なんて言うか、もっとすんごくかっこよかったんだよぉ~!みんなさ、信じてくれないだろうけどさぁ…」

しおり以外の一同は、刺身を食べながらこっくんと頷いた。

「あたしだって…あたしだって…先輩があんな風じゃなかったら、きっと成仏できてたはずだよぉ~!…しゃーって上に行っちゃってたよ…だってさ、みんなも思ったよねぇ…あんなデブでぶっさいく見ても絶対に成仏できないって思ったよねぇ…あたしもまさかと思ったよ!あんな風に変わっちゃってさぁ…あの頃の面影なんてどこにも見あたらないぐらいすっかり肥えちゃってさ、頭頂部も薄くってか、ぴっかりしちゃって…あんなのあたしの先輩じゃないもん!ねぇ、浩樹さんもさぁ…ねぇ、タケシ君も思ったよねぇ…ねぇ、まゆりちゃんだって、あたしの立場だったらさ、あんな不細工見たらさぁ、成仏どころかがっかりしちゃうよねぇ…げんなりしちゃうに決まってるよねぇ!」

僕は「それはちょっと言いすぎじゃないかなぁ…」と言ったつもりなのだが、どうやらそれは心だけの声らしかった。

「…まぁまぁ…それはもういいとしてさ…次の作戦考えようぜぇ…」

タケシはこういう時本当にいいやつだと、僕は思った。

「…あっ…そだ…あのぉ…もしかして…しおりさんの心残りって…何か食べたかったとかじゃないですかぁ?だってほらさっき、マグロ、食べられなかったらすんごく残念がってたから…」

「あっ、そうかも…きっと、それだ!…あ、だけどさ…たった今、食べられなかったんだから駄目じゃない?この先、何がも食べられないままなんじゃないの?」

しばらく黙っていたしおりがおもむろに口を開いた。

「…あのさぁ…あの…あたしはまだやったことないんだけどね…もしかしたら、誰かに憑依したら、食べられるかも?」

「ああ、体があれば、その体を通じて美味しいとか感じられるってこと?」

タケシの理解力に僕は惚れ惚れした。

「それいいかも!あっ、でも、誰に憑依する?この中で誰がいい?」

「えっ?憑依かぁ…」

はっきり言って僕はお断りしたい気持ちが先行していた。

「あの、あたし、いいですよ!協力しますよ!」

まゆりはけろっとした顔で名乗りを上げた。

「えっ!ホント?」

まゆり以外の一同が一斉に同じ台詞を吐いた。

「ええ、全然大丈夫ですけど…しおりさんだって、男の人に乗り移るよりも、同じ女性のあたしに乗り移った方がいいんじゃないです?」

「ありがとう!まゆりちゃん!あなた、本当にいい子だねぇ…浩樹さんもまゆりちゃんみたいないい子が彼女だったらいいのにねぇ…」

しおりの台詞にまゆりはかーっと顔を赤らめた。

「そ、そんな…浩樹君の彼女だなんて…そんな、そんなぁ…えへへへへへへ…え~…ねぇ…うふふふふふ。」

「ねぇねぇ、早速なんだけど、憑依してみていい?あたしもお刺身食べたいからさぁ…」

「あっ、いいですよぉ~!どうぞどうぞ…」

「じゃあ、遠慮なく…」

僕はしおりが一度でも誰かに憑依した経験があるのかと思った。

「あ、でも、憑依ってどうやってするんだろ?わかる?誰か?」

「えっ?」

一度も死んだことがない僕やタケシやまゆりにそんなことを聞かれても、誰も何も答えることなんてできやしなかった。

「…う~ん…とりあえずさ、ここじゃ何だから、ちょっと場所変えよっか…俺らなんかじろじろ見られてるみたいだし…」

「そだなぁ…じゃあ、残ったこれどうする?」

「あたしは…」

まゆりはそう言って女子特有の両手をパーにしたまま手を振った。

「じゃあ、俺、食っちゃうね。パクッ。」

僕も同じ台詞を言おうと思っていたのに、タケシにさらっと先を越されてしまった。

しおりは最後の一切れをいとも簡単に口に放り込んだタケシを、じっとりとした目で見つめた。


僕らは市場を離れると、海岸を目指した。

海水浴客のまばらなそこだったら、少しくらいの大きな会話をしても誰かに聞かれて怪しまれることもないだろうとふんだからだった。

「あ~、気持ちいい~!なんか泳ぎたくなってきちゃったなぁ…」

僕もまゆりもタケシと同じ気持ちだった。

「…いいよねぇ…泳げて…」

一人だけいじいじといじけているしおりが恨み言のようにそう呟いた。

「えっ?しおりさん、泳ぐのもできないの?」

「うん、そうなの…海底には行けるんだけど…泳ぐって感じじゃないんだよねぇ…感覚的にさぁ…」

「そっかぁ…あっ、それはそうと…そうだよ、忘れてたけど、憑依!憑依してみようって話だったよねぇ…」

「あ、うん。」

「じゃあ、早速試してみなよ!ねぇ…いいかい?まゆりさん。」

「あ、はい、あたしはいつでもオッケーですよぉ~!しおりさん、どうぞぉ~!」

「じゃあ、遠慮なくやってみるね。」

そう言うなりしおりはまゆりの傍に駆け寄った。

まずは抱きついてみるところから始めた。

だが、正面からの抱きつきは失敗に終わった。

次は後ろからおぶさるようにしてみた。

が、それも失敗。

次にひゅるひゅると口の中に入ってみるも、それも失敗だったが、しおりの体がCGのようにいきなり細長くなったと思ったら、ひゅ~っとまゆりの口の中に吸い込まれていく光景が生きている僕らにはとても衝撃的だった。

「…何が駄目なんだろう?」

しおりは自信を失いかけていた。

「あのさぁ、前に映画かなんかで見たんだけど…耳から入るってのは?どう?」

波打ち際でもう足を水に浸かっているタケシがおもむろに言った。

「わかった!じゃあ、やってみるね。」

しおりは再び体を上手に細長い煙状にすると、ひゅるひゅるとまゆりの右の耳に入っていった。

「ひゃあ!あははははは…くすぐったい…ひゃひゃひゃひゃひゃ…あはははは…あれっ?何だろう?この感覚…私なのになんか私じゃないみたい…」

「もしかして…成功したんじゃない?」

「そうかも…あっ、ちょっと待って、頭の中でしおりさんがなんか言ってる…」

まゆりはしーっと人差し指を口元に持っていくと、僕とタケシを黙らせた。

「大成功!まゆりちゃんの体に入り中でぇ~す!…って言ってますけど…あっ、なんか不思議ぃ~、あたしなんだけどしおりさんと脳内でちゃんと会話できちゃうの…わぁ~、うふふふふふ…えっ?そうですかぁ?やだなぁ…しおりさん…それはちょっと…」

しおりの憑依が成功したことを報告すると、まゆりはすぐさま一人で嬉しそうに喋りだした。

僕もタケシもそれが脳内にいるしおりさんと喋っているとわかってはいても、客観的に見るとまゆりには申し訳ないが、ちょっとアレな人っぽく見えてしまった。

まゆりはきゃいきゃい笑いながら、履いていた黄色いスニーカーと緑色の靴下を脱ぐと、膝下まで海に入っていった。

「あっ!浩樹くん!タケシさん!あのねっ!しおりさんね…海にちゃんと浸かれて嬉しいって!あたしが感じてるのと同じみたい!うふふふふふ…一緒に水に浸かりませんかぁ?気持ちいいですよぉ~!きゃはははは…」

まゆりに誘われて、僕もタケシも早速水に浸かってみた。

そうなると、今度はお互いに手で水をかけあったりし始めた。

そうやってきゃいきゃい騒ぎながら、僕らは夏の海を満喫したのだった。

水平線の向こうに綺麗なオレンジ色の大きなお日様が、ゆっくりと沈んでいく様子に僕らは見とれた。

「あ~、楽しかったぁ…みんなさ、今日は本当にありがとうね…あっ、まゆりちゃんは特にありがとうねぇ…嬉しかったなぁ、ホントさぁ…海の水ってあんな感じだったんだねぇ…なんかすっかり忘れちゃってたわ、あたし…それに、まゆりちゃん越しに飲んだオレンジジュースも美味しかったし、焼きそばも味噌おでんもあんな味だったねぇ…思い出したらなんか感動しちゃった…えへへ…」

しおりはそこまで言うと、ちょっぴり出ていた涙を拭った。

「良かったぁ、しおりさんが喜んでくれて…あっ、でも、まだ成仏はできないんですねぇ…」

僕はつい正直な感想を述べてしまった。

僕の言葉にしおりもまゆりもタケシも急にしょんぼりしてしまった。

「あっ、やっ…ごめんなさい…ごめん!しおりさん…あの、その…なんて言うか…その…」

慌てる僕に、しおりさんは優しい言葉をかけてくれた。

「ううん、全然、大丈夫…浩樹さんの言う通りだもの…あたし、早いとこ成仏しちゃいたいもの…」

「あっ、でも、それって…もう会えなくなっちゃうってこと…じゃないですかぁ…それは寂し過ぎますよぉ…こうして、折角仲良くなれたのに…そんなの嫌ですよ…あたし…いいじゃないですかぁ…別に成仏できなくたって…それは駄目なんですか?」

メガネの奥にうるうるとした瞳のまゆりは、両手の指を絡ませた「祈り」のポーズのまま、僕らに詰め寄ってきた。

「…う~ん…どうなんだろう?」

腕組みのまま、そう言うのが精一杯だった。

だが、タケシはちょっと違ったようだった。

「…ん~…そうだよねぇ…今までだって成仏できなくても何でもなかったんだものねぇ…だったら…今まで通りでもいいんじゃね?やっぱ駄目?」

「あ~…どうなんだろう?…あ、でも、浩樹さんは早く成仏してもらいたいんじゃない?折角一人暮らししてるのに、こんな幽霊が一緒じゃまゆりちゃんも部屋に呼べないものねぇ…」

「えっ?…ええっ?」

「きゃっ!」

しおりに発言に驚く僕と、顔を隠して照れるまゆりがいた。

僕らの動揺をよそにさっきまで見えていたお日様は、すっかり海の向こうに行ってしまっていたのだった。

海水浴客がだいぶ帰ってしまった海岸は、いつの間にか波の音がメインになっていた。


「…なぁ、これからさ、みんなで花火でもしねぇ?今日は俺も浩樹もバイト休みだからさぁ…あっ、まゆりちゃん、帰り遅くなっても大丈夫?叱られない?」

「あっ、はい…あたしは全然大丈夫です。さっきママにメールしておいたし…あ、夜の運転も任せてください!えへへ、こう見えてもあたし大丈夫なんです…えへへへ。」

「あっ、もしか構わないなら、帰りは俺が運転代わるよ!まゆりちゃん、疲れちゃったでしょ?だから、帰りはさ、浩樹とゆっくり後ろで休んでよ!…どうだい?それでもいい?」

「はい!えへへへへ…ありがとう、タケシさん…あの、花火は…買いに行きますかぁ?」

「あっ!俺、買ってくるからさ、まゆりちゃんは浩樹とここで待っててくれる?ついでになんか食い物も仕入れてくっから…なっ、浩樹!まゆりちゃんを守ってて…じゃあ、ごめん、キー貸りるよ!さっ、しおりちゃん、俺らは買出しに行こうぜぇ!」

「わ~い!なんか嬉しい!花火なんて何年ぶりだろう?えへへへへ…じゃ、ちょっくらいってきまぁ~す!」

「あ、ちょ、ちょっと…」

僕が慌てる間もなく、タケシとしおりはとっとと車の方に走って行ってしまった。

「…なんか、行っちゃったね…待ってよっか…」

「はい。」

可愛い仕草で照れているまゆりは、小さな女の子のようだった。


買出しに出た二人を待つ間、僕はまゆりと夜の海に浮かぶ漁船の明かりや海岸線沿いに続く街の明かりをぼんやり眺めていた。

「寒くない?」

「うん、大丈夫…浩樹君は寒い?」

「ううん、俺は大丈夫だよ…昼間結構日に焼けちゃったから、どっちかっつうとまだ暑いかなぁ…」

「あ、おんなじ…私も日焼け止めちゃんと塗ってきたんだけど、なんか汗でとれちゃったのか日焼けしちゃったぁ…足とか首の後ろとかなんかひりひりしてるぅ…」

「痛そう…なんかさ、巻き込んじゃってごめんな…」

「えっ…」

「ああ、ほら…しおりさんのこと…まゆりさんがお寺の娘さんだからって、もしかしたら成仏させられるんじゃないかって…勝手なこと考えちゃって…今日だって丸一日つき合せちゃったから…ホントはなんか違う予定とかあったんじゃないかとか思ってさ…わざわざ俺らの為にそういうのキャンセルしたんじゃないかとかって思ってさ…ホントにごめんなぁ…」

砂浜に体育座りしたまんま、僕は隣に座っているまゆりにぺこりと頭を下げた。

「そ、そんなの気にしないで下さい…あたし、ホントに今日は予定なかったから…少しでもお手伝いしたかったし…」

「…そう言ってもらえて、なんだか悪いなぁ…」

「あ、ううん、全然悪くないですよ!それよりも逆に今日すんごく楽しかったから…浩樹くんと一緒に海に来られたし…」

「…」

僕はまゆりの真っ直ぐな感想になんと答えたらいいのか、言葉を探した。

「海に来るってわかってたら、あたし、水着持って来れば良かったなぁ…浮き輪も…」

「そだねぇ…俺も海水パンツあったら泳いだんだけど…急だったし、しょうがないよ…今度さ、ちゃんと海水浴で来ようか?」

「えっ?いいの?あの…あたし…」

「また、このメンバーで来ない?きっとしおりさんも憑依して泳ぎたいんじゃないかなぁ?」

まゆりの顔が少しだけ曇った。

「…浩樹くんはしおりさんと一緒に来たいんだね…あたしじゃないんだぁ…」

俯くまゆりの頬をつーっと一筋の涙が伝うと、両手で抱え込んでいた膝にぽとりと一滴丸く落ちた。

「あっ、違っ…あの…違っ…誤解だよ…まゆりさん…僕は別にしおりさんのことなんか、正直どうだっていいって…訳でもないけど…ほら、あの人早く成仏したがってるからさ…だから、もしかしたら泳げたらそうなるかなって思って…べっ、別に、まゆりさんが思ってるような気持ちはないから…大丈夫だからっ!」

言えば言うほど、どんどんとまゆりの涙は増えていった。

なので、僕は彼女の涙を止めようと咄嗟に彼女の髪を優しく撫でた。

彼女の体が一瞬びくついたのに気がついたけれど、僕はそれ以上は何も喋らず黙って彼女の髪を撫で続けた。

涙が収まったまゆりがゆっくりと顔を上げ僕の方を見つめたので、僕はゆっくり彼女のメガネを外すと頬に残る涙を手で拭ってあげた。

彼女は抵抗することなく、じっと僕の動作に従ってくれた。

涙を拭った僕の手が彼女の顎に触れると、何を思ったか僕は彼女に顔を近づけた。

すると彼女はぎゅっと目をつぶると、固まってしまった。

僕と彼女しかいない海で、僕は彼女の唇に自分の唇をそっと合わせたのだった。

「…ごめん…」

「…ううん…」

目を閉じたままの彼女の震える体を抱き寄せると、僕は再び彼女の髪を撫でた。

「買い出しに出た二人が、まだ帰ってきませんように。」と僕は心の中で祈ってしまった。

女の子にこんなことをしてしまったのは、生まれて初めてだった。

仲良くなって間もないってのに、僕の中に、倉沢まゆりという女の子がどんどんと大きな存在になっていくのがわかった。


「…良かったねぇ、あの二人…ちゃんとくっついたね…」

買い出しから戻ってきていたしおりが、僕らに気づかれないように小さくそう言った。

「あれっ?いいの?しおりちゃんさぁ、浩樹のこと好きなんじゃないの?」

タケシはさらっと見透かしていたしおりの心に尋ねた。

「…う~ん…どうなんだろう?…部屋に一緒にいるけど…う~ん…特に好きとかって改めて感じたことなかったから…」

「ふ~ん、そうなんだぁ…俺はさ、てっきりしおりちゃんは浩樹のことが好きなんだって思ってたけど…」

「…そう?」

「うん、だから、恩返しとかって言って出てきたのかなぁって…」

「…ん~…」

「だってさ、浩樹って絶対しおりちゃんのタイプだよねぇ…」

「う~ん、そうかも…」

「だってさ、昼間会いに行った先輩って、昔細マッチョだったって言ってたじゃない?…したら、浩樹もそうだからさ、俺みたいなゴリじゃないから…」

「…まぁね…でもさ、あたしが浩樹さんのところにいつまでも居たらさ、まゆりちゃん、可哀想だから…やっぱ、早いとこ成仏しちゃいたいかなっ!」

「俺はしおりちゃんの方がタイプだよ!」

「あはははは…ありがと!タケシ君…いっつも優しいよねぇ…早くいい彼女できること願ってるよ!」

「そっ?ありがと…じゃあ、何にも知らなかったっていう体で戻ろっか?ねっ!」

「そだね。」

タケシとしおりは笑顔で顔を合わせると、すぐさま大声で僕らに声をかけてきた。

「お~い!買って来たよぉ~!やろうぜぇ!」

白いコンビニの袋を頭上高く上げたまま、タケシはもう片方の手でしおりと手を繋ぐと砂浜にいる僕らの元に走って戻ってきた。

僕らは海岸でこの夏初めての花火をした。

しおりは久しぶりの花火にいたく感動していた。

僕もついさっき口づけを交わしたばかりのまゆりと一緒に線香花火を静かにやった。

頼りない線香花火の光がまゆりの顔をぼんやりと照らすと、僕は心臓がどきどきしていることにやっと気づいたのだった。


次の日、僕とタケシがバイト先に向うと、上機嫌の店長から「はい!」と茶色い封筒を渡された。

中を見ると、一万円札が5枚ほど入っていた。

「店長、あの、これ…」

「ああ、いつもさ頑張ってくれてるから、ボーナス。」

「えっ!いいんですか?こんなに…」

「ん~、嫌だったら返してもらっても…」

白髪交じりの店長はにこにこと冗談を言うと、きょとんと驚いたままの僕達の肩をとんとんと軽く叩いた。

「これからもよろしく頼むよ!…あっ、それと、お盆なんだけど…本当は出てもらおうと思ったんだけど…」

どういう訳かまるでわからないけれど、僕もタケシも何故かお盆休みを3日間ももらったのだった。

「…何だろう?嬉しいけど…なんで?ボーナスにお盆休みだなんて…絶対シフト入ってると思ってたけど…」

僕もタケシも首を傾げた。

ポンと手を打ったタケシは何かピンときたようだった。

「あっ!もしかして…しおりちゃんじゃね?昨日みんなで憧れだった先輩のとこに行ったじゃん!後、海行ったりさ、花火したり…すんげぇ喜んでたから、もしかして…違うかなぁ?でも、それっぽい感じもするけど…」

僕もタケシの意見に一票入れた。

「…じゃさ、まゆりさんも何かあったかも?…後でちょっと聞いてみるよ!」

「えっ?浩樹、いつの間にまゆりちゃんと連絡…」

タケシのするどい指摘に、僕の心臓はばくばくと急に激しさを増した。

「あっ、あっ、えっと…ほら…昨日、そだ、昨日、お前としおりさん、花火買いに行ってた間にさ、ちょっと色々話して…そんで、車まで出してもらったし、一日付き合ってもらったから、ほら…その、後でちゃんとしたお礼をしなきゃなんないって思ってさ…それで、たまたま交換しただけだって…べっ、別になんか特別な感じとか、そういうんじゃないって…おっ、お前だってまゆりさんと連絡先の交換してるだろっ!それと一緒一緒…」

昨日キスした時の感触が脳内で勝手に再生されると、僕は無性にまゆりに会いたいと思った。

「ふ~ん…そう、なんだぁ…」

含みのあるいやらしい笑顔のタケシは、にやにやしたままロッカーを閉めるとそそくさと店に行ってしまった。

僕は一瞬スマホを手に取るも、首をぶんぶんと横に振ってから急いでタケシの後に続いた。


仕事中、心の中はぐるぐると色んなことでいっぱいだったけれど、そんなのを見せないように僕は淡々とやることをこなした。

品出しもレジ打ちもいつもよりも一層気を引き締めて行うと、案外スムーズにはかどった。

こんなにフットワークよく動けたのも、まゆりとのことがあるからなのか、それともしおりの力なのか、僕には全然わからなかった。

「お疲れさん!じゃな…」

バイトが終わってタケシと別れると、僕は家とは逆の方向に歩いてしまっていた。

一目でもいいから、生のまゆりに会いたいと思ったからだった。

こんなにも一人の女の子のことばかり考えているなんて、正直自分でも信じられなかった。

それでも、僕の足はまゆりの家に向ってどんどん歩いてしまうのだった。

まゆりの家の寺の門の前まで来ると、風呂上りらしいまゆりがにこにこと立っていた。

「…あっ、浩樹君こんばんはぁ~…えへへへへ…うふふふふ。」

「あ、こんばんは、まゆりさん…あの…どしたの?こんなとこにつっ立って…」

連絡もしていなかったのに、どうしてまゆりがそこにいたのか、不思議だった。

「…なんかね、浩樹君に会えるような気がしたの…」

「ふ~ん…そうなんだぁ…あ、メガネ…メガネどしたの?かけてないけど…」

「うふふふふ…なんかね、パパがね、急にコンタクトにしたらって言うから、今日ね、ママと一緒に買いに行ったの…うふふふふ…あの、なんか変かな?…やっぱメガネの方がいいかな?」

大きな可愛らしいくまちゃんがプリントされているTシャツの裾を両手で引っ張りながら、まゆりは上目遣いで僕を見つめた。

「すんごく可愛いね…まゆりさん、メガネもいいけど、素顔もいいね…なんか新鮮…」

僕も照れた。

「そう?えへへへへ…良かったぁ…浩樹君なんて言うか心配だったんだぁ…でも、良かったぁ…うふふふふふ。」

そんなに可愛い仕草をされると、僕は昨日みたいにまゆりにキスしたい気分になってしまった。

そう思うが先か、僕は自分でも驚く速さでまゆりの目の前まで動いてしまっていた。

「あっ、あの…浩樹君…どしたの?あの…あの…」

僕に突然腰を抱かれて引き寄せられたまゆりは、急接近した僕の顔を直視できない様子だった。

昨日もそうだけど、どうしてこんなに大胆な行動を取れるのか、僕は僕自身がよくわからなかった。

わかるのは、まゆりとキスしたいことだけ。

今はそれだけだった。

動揺を隠せないまゆりは照れながら俯いた。

シャンプーの香りが新鮮なままの前髪をピンで留めて丸出しになっているまゆりのおでこに、僕の汗っぽいままのおでこをくっつけた。

「…あっ、浩樹君?あの…あの…」

「キスしていい?」

僕から出た言葉とは思えなかった。

「…ん…」

折れそうなほど細いまゆりの腰を抱いたまま、僕は昨日よりも上手くまゆりの唇に重ねた。

「…あっ…あの…」

キスで気持ちが高ぶった僕は、ついつい調子に乗って震えるまゆりの腰に回した手を下に下げてちゃっかりぷりんと弾力のある尻を触ってしまっていた。

軽くどんとまゆりに突き放されて、僕はようやく夢心地から覚めた。

「…やっ…」

「あっ、ごめん…」

「…ううん…あの…違うの…あの…あの…まだ、その…心の準備が…」

「…そうだよね…そうだよね…ごめん、俺、ちょっと先走っちゃって…あの…ホント、ごめん…」

「あ、ううん…いいの…大丈夫…大丈夫なの…」

「そっか…良かった…あ、そだ…あのさ…俺ね、今日、ボーナスもらっちゃってさ…」

「えっ?ボーナス?」

「あ、うん…そうなんだよね…なんかよくわかんないんだけど…でさ、お盆も3日間休みまでもらっちゃって…それで…あのさ…一日は実家に帰ろうと思ってるんだけど…あのさ、そんで…まゆりさん都合良かったらさ…デートしない?」

「えっ?」

「無理かなぁ?…」

「あ、ううん…デートって…昨日みたいな?」

「ああ、ううん、タケシとしおりさんは抜きで…俺らだけで…駄目だろうか?」

「ええっ!二人っきりで?」

「うん…」

「大丈夫…あたし、大丈夫だから…」

「そっか…じゃあさ、また連絡するね…だからさ、行きたいところ考えておいてね…まゆりさんの行きたいところ、どこでもいいから…」

「あ、うん…わかったぁ…」

「もしか…もしかだけど…泊まり…」

そこまで言いかけながら、僕はまゆりの顔色を伺った。

「…それはまだ、やめとこっか…あははははは…あははははは…じゃね、俺、帰るわ!…またね!」

僕はわざとらしく笑いながら後ろを向いてまゆりに手を振った。

またTシャツの裾を片手で押さえたまゆりも、反対側の手を振ってくれた。

まだまゆりの姿が見えてる辺りで立ち止まって、僕は正直な感想を伝えた。

「あのさぁ~!コンタクトもメガネもどっちも可愛いねぇ~!」

「ありがと~!気をつけてねぇ~!」

ほくほくした気分のまま、僕は家路を急いだ。


「あ、おかえり~!浩樹さん、遅かったねぇ…」

部屋に戻ると普段通りのしおりが待っていてくれた。

「ああ、うん、ちょっとね…」

そっけない僕の態度に何かを察したらしいしおりは、タケシみたいないやらしさで探りを入れてきた。

「なぁ~に?浩樹さん…なんかいいことでもあった?ん?ん?ん?ん?」

「なんだよぉ~、しおりさん、タケシみたいなやらしさでさぁ…あっ、そだ、これ…」

カバンから茶色い封筒を取り出して見せると、しおりはきょとんとしたままだった。

「何?それ…」

「ああ、これさ、今日バイト行ったらさ、店長から突然ボーナスって5万ももらって…」

「へぇ~。」

「でさ、お盆も休み3日ももらって…」

「ふ~ん…」

「あっ、そだ、しおりさん、悪いんだけど、俺さ、1泊だけど実家に帰るけど…そだ、しおりさんは?お盆はどうするの?実家に帰んないの?」

僕は普通に疑問をぶつけた。

やっぱり幽霊なのだから、お盆は実家の仏壇に戻るのが当たり前じゃないかと思ったからだった。

「ああ、お盆?日中、ちょろっと帰るけど…後は特に考えてなかったなぁ。」

「えっ?そうなの?」

「あ、うん…そうだよ。お盆とかお彼岸とか一応は実家に戻るけど、そんなそんな長い時間は飽きちゃうから…」

「ふ~ん、そんなもんなんだねぇ…あ、ごめん。俺は帰るけど…いい?あ~、それにしてもあっちぃ…」

エアコンが壊れたままなので、扇風機をつけて風を浴びた。

「あ、うん、了解…じゃあ、あたし、その間、まゆりちゃんとこにお邪魔してようかなぁ?」

僕はしおりが羨ましいと思った。

「わかった、じゃさ、早速まゆりさんに連絡しとくね…」

「あ…うん…お願い…します。そだ、あのさ…浩樹さん、エアコンね、なんか直ったみたいだよ…」

「えっ?嘘っ!なんで?しおりさん、なんかした?」

「ううん…あたしは何もしてないんだけどね…浩樹さんいない間にいきなりぶぶぶぶぶって鳴ってね、すんごく怖かったんだぁ…でも、なんかそのうち普通の音なってて…ほら…扇風機消してみたらわかると思うけど…なんか涼しいでしょ?」

僕はてっきりエアコンは壊れたまんまだと思っていたから、外に比べて部屋の中がひんやりしていることに気がついていなかった。

「あ、ホントだ…」

「ねっ!」

「ああ、良かったぁ…生き返るぅ~!…あっ、ごめん…しおりさん…そういう意味じゃないから…あの、ホント、マジごめん。」

僕はしおりに向って合掌した。

それにしても不思議だった。

ボーナスといい。

お盆休みといい。

エアコンが直ったのといい。

まゆりとの距離が急激に縮まったことといい。


次の週、僕は一人暮らしを始めて以来、初めて実家に帰省した。

帰る前にちょっとだけまゆりのところに寄ってったけれど、その時、キスはできなかった。

手は繋げたけど。

「ただいまぁ~!」

「あらあらあらあら、お帰り~…」

母が元気に出迎えてくれた。

仏壇にあっちの駅の中のおしゃれな店で購入した、ちょっとお高い焼き菓子の詰め合わせを供えると、線香に火をつけて目を閉じて合掌した。

「暑いわねぇ…ホントに…浩樹、あんたのところ、エアコン壊れちゃってるから暑いでしょう?ねぇ。お母さんこの間行った時あったでしょ?あの時、もう暑くて暑くて死んじゃうかと思ったわよぉ~…あ、そういえば、あんた、ここんとこ部屋ちゃんと綺麗にしてるね…何?彼女でもできた?ん?ん?」

春から離れて暮らしているけれど、母は相変わらずだった。

「あ、浩樹おかえりぃ~!何?お前、彼女できたのかぁ?」

そう言って奥の部屋から一番上の兄が出てきた。

「…そんなんじゃねぇって…」

仏間の畳に大の字で寝転んだまま、僕はぶっきらぼうに返した。

「あ~…疲れた…さすがに電車とバスにばっかり乗ってたら、体痛くなるなぁ…」

「な~に言ってんだぁ、お前…若いくせに、たかだか電車とバスに乗ったぐらいで…」

「やぁ~、だってさ、だいにいちゃん…電車3時間バス2時間はさすがにしんどいって…どっちもすげえ混んでっから、座れたけど降りるまでずっとおんなじ体勢だもん…」

「そうなんだぁ…そんな混んでたかぁ…そりゃそうか…お盆だもんなぁ…」

「あ、母さん!ちいにいちゃんは?まだ帰ってないの?」

「えっ?何?なんか言った?」

台所に立っていた母は、手を止めてこちらに顔を見せた。

「ちいにいちゃん!まだ帰ってないの?」

「ああ、うん…なんかね、仕事が忙しいらしくて、お盆休みってずっと後みたいよ…8月の後半頃やっと休みって言ってたから、その頃に帰ってくるんじゃない?」

「ふ~ん…」

「なんだ、お前…いつきに会いたかったの?俺は?俺には会いたくなかった?…ああ、浩樹、冷てぇなぁ…だいにいちゃんは寂しいでしゅ…ぐすん。」

両手の人差し指をちょんちょんと合わせて、長兄の建樹たつきはわざとらしくいじけて見せた。

「あっ、やっ、違うって…やだなぁ、めんどくせぇ…も~う!…だいにいちゃんにもすんごく会いたかったよ!さっ、これでも食べて元気だして!ねっ?」

僕は今しがたお供えしたばかりのお菓子をひとつ取ると、いじけるだいにいちゃんにあげた。

「わ~い!浩樹がお菓子くれたぁ~!わ~い!わ~い!えへへへへへぇ…」

この人は昔っからノリがよかった。

久しぶりの実家の空気感に、僕はなんだかホッと安心した。

その安心感はしおりさんが居ついているあの部屋や、タケシやまゆりと一緒の時のそれとはタイプが違うそれだった。

夕方になると、父も帰宅したので、夕食は久しぶりに賑やかなものとなった。

月一で母が部屋を訪ねてくれるので手料理は食べているのだけれど、こうやってテーブルにずらっと並んだ作りたての母の手料理を全員ではないけれど家族揃って食べると、その美味しさはまた格別だった。


夕食後の風呂上り、僕は空っぽになった2階の角のかつての自分の部屋の窓から、ロマンチックに夜空を眺めていた。

そして、今頃まゆりはどうしているだろうと考えていた。

コンコン。

「はい。」

「俺…」

「ああ、だいにいちゃん…」

「一緒に食おうぜぇ…」

長兄が持ってきてくれたスイカは、いい塩梅に冷えて甘くて妙に美味しかった。

「あ~、うんめぇ…」

「そだなぁ…俺もさ、スイカなんて久しぶりに食ったわ…」

長兄はしみじみスイカを味わっていた。

「なぁ。」

「ん?何?」

「学校…どうだ?」

「ああ、うん…ちゃんと行ってるよ…」

「勉強は?どうだ?難しいか?」

「うん、まぁね…でも、まぁ何とかついて行ってる…友達もできたし…うん、なんか楽しい…よ…だいにいちゃんは?仕事大変?」

「ああ、そりゃ仕事ってそういうもんだろ?…そんなのお前だって社会人になったらわかるって…あはははは…酒も飲めるようになったら、楽しくなるぞ!うん、それはホント…あははははは。」

「そっか…ところで、だいにいちゃんはさ、彼女とどうなの?そろそろ結婚とか?」

「あ~、やっ、ん~…そうだなぁ…そろそろちゃんと考えなきゃなぁ…」

「あの人とまだ付き合ってんでしょ?」

「ああ、うん…まだ、その、母さん達には言ってないけど…お前、ここだけの話だぞ!絶対に誰にもまだ言うなよ!…実はさ、もう一緒に暮らしてんだよね…」

「ええっ!そうなんだぁ…」

僕の記憶の中にいるだいにいちゃんの彼女は、まだ高校生でセーラー服が新鮮な黒髪が真っ直ぐで可憐な感じの女の人だった。

「…じゃあ、年内にも結婚する…とか?」

「…ん、まぁ…そんなところかなぁ…俺はいいから、それよりお前はどうさ?彼女でもできたんか?何かすっかり雰囲気が変わったけど…」

「えっ!そう?…俺、そんなに雰囲気違う?」

脳裏にまゆりの可愛い顔が浮かぶと、僕はだんだんどきどきしてきた。

「…実はさ…」

「ん?何?何?」

食い気味の長兄が若干うざく感じたが、話を始めてしまった手前そのまま続けるしかなくなってしまった。

「…同じ学部の女子と仲良くしてもらってる…まだ、その…正式に付き合ってるって感じじゃないんだけど…友達も一緒でわいわいやってる感じかなぁ…みんなで出かけたり…この先は…もっと進展してればいいんだけど…まだ、今のところはそんな感じかなぁ…」

「…ふ~ん…」

長兄がにやにやしているのを感じ取ってはいるけれど、僕は絶対に顔を見ないでおこうと思った。

「…それだけ?」

「うん、それだけだけど…何?だいにいちゃん…やらしいなぁ…」

「あはははははは…やらしいのは先祖からの遺伝だから…」

「え~!そうなのぉ~!やだぁ~、俺、そんなのやだよぉ~…」

「だよなぁ…でもな、俺もお前ぐらいの頃、やっぱりお前みたいにやだぁって思ったけど…だけどさ、光男おじさんがさ、じいちゃんの葬式ん時に酒飲んでたけど、真剣な顔で言ってたんだよね…そしたら、傍にいた親父も他のおじさん達もこっくんって頷いててさ…俺、あん時、あって思って…逃げられないんだなぁって…だから、浩樹も樹もやらしいんだよぉ~!残念でしたぁ…あはははははは。」

「やらしさ」が先祖代々の遺伝らしいのは正直嫌だけど、僕はまゆりにした行為を回想してみると「やっぱり先祖から手が早いのかなぁ?」とも思ってしまった。

実家の自分の部屋で布団に横になると、僕は妙な寂しさみたいなのを感じていた。

いつもなら、しおりが一緒だからだと気づくまで、しばらく時間がかかってしまった。

それなのに、僕の心の中には「まゆりさん、今頃どうしてるだろう?」ばかりがしつこく何度も何度も繰り返していた。

そのうちいてもたってもいられない気持ちになったので、布団に横になったまま、僕はまゆりに「おやすみなさい。」とメールした。

するとすぐさままゆりから「おやすみなさい」と返ってきた。

短い文の最後にピンクのハートマークが1つついていた。

僕は嬉しさと同時に再びまゆりに、同じハートマークをつけられるだけつけて送信。

その後、まゆりからは何も返って来なかったけれど、僕は満たされた気持ちのまま、朝までぐっすり眠ることが出来た。


「きゃあ~…どうしよう…ふふふふふふ…」

まゆりがいきなりにたにた顔で叫んだかと思ったら、座っていたベッドにころんと横になったのを見たしおりは、まゆりがなんだか羨ましいと思った。

「…どしたの?まゆりちゃん…なんかいいことあった?」

「きゃはぁん…あ、ごめんなさい…あたしったら、うかれちゃって…えへへへへ…浩樹君から返信来たんですけど…その…えへへへへ…」

まゆりは激しく照れながら、ハートマークがずらりと並んだスマホの画面をしおりに見せた。

「わぁ~、いいねぇ…そっか、浩樹君、今、実家だもんねぇ…そっか…で、何?まゆりちゃん、浩樹君とつきあってるの?」

しおりの率直な質問に、うかれ過ぎていたまゆりは急に冷静になった。

がばっとベッドから起き上がると、そのままそこに正座して続けた。

「…まだ、その…ちゃんと…おつきあいしてる訳じゃない感じ…なんですよねぇ…」

「えっ?そうなの?だって、ハートいっぱい…」

「…そうなんですけど…でも、おつきあいってどうなんですか?そうやってスタートするんですかねぇ?しおりさん、教えてください。」

まゆりにぺこりと頭を下げられるも、しおり自身生きている間に誰かと付き合ったことがなかったので、どう答えてよいのか困ってしまった。

「あ、ん~…ごめん…あたしね、生きてる時さ、誰かと付き合ったことってなくって…だから、そういうの、正直わかんないんだよねぇ…ごめんね。力になれなくて…」

こちらこそといった具合に、今度はしおりが頭を下げた。

「…そうなんだぁ…えっ?じゃあ、しおりさん…あの…あの…キ…キ…キ…キ…」

まゆりが何を言おうとしているのか、しおりはすぐさま推理した。

「…キ…キ…って、もしかしてキス?キスのこと?」

「あっ、ピンポーン…そっ…その…あの…その…」

もじもじともどかしいまゆりに、少しだけいらいらしたしおりはサッと続けた。

「あ~、まゆりちゃん…あたしが生きてる時キスしたことあるかって聞きたい感じ?」

こくんと頷くだけで精一杯のまゆりは、落ち着こうと机の上に置いてあった麦茶を一口ごくんと飲んだ。

「ん~…そうだねぇ、あたし、よくよく思い出したらさぁ、男の人と付き合ったことないから、キスの思い出ってないんだよねぇ…ん~…」

しみじみしながら腕組みをしているしおりを見て、まゆりはちょっぴり「可哀想だなぁ」と感じた。

「…そうなんですねぇ…じゃあ、それ、心残りじゃないんですかぁ?」

「ん~、それはぁ…どうだろう?わかんないなぁ…別にキスしたい人もいないし…」

「えっ?嘘っ!しおりさん、浩樹君のこと好きなんじゃないですか?」

「へっ?ううん、別に、浩樹さんのこと、好きとかって考えたこともないかなぁ…あ、でも、タケシ君もこの間、まゆりちゃんとおんなじこと言ってたけど…そういう風に見えちゃうのかなぁ?」

「うん、うん。」

まゆりはぶんぶんと首を激しく上下に振った。

「…あ、まゆりちゃんはさ、浩樹さんとキスとかしたの?」

「えっ?」

まゆりは一瞬固まると、ぱーっと顔が赤くなった。

「…実は…あの…2回ほど…」

「えっ?2回もしたの?キス?」

「ひゃあ、しおりさん、そ、そんな、そんなストレートな…」

「で?どうだったの?」

「…最初は、みんなでしおりさんの憧れの先輩のところに行った日あったじゃないですかぁ?あの時、しおりさん、タケシさんと花火買いに行っちゃったでしょ?あの時浩樹君と二人で色々喋ったんだけど…浩樹君、しおりさんと泳ぎに来たいって言うから、私…私…なんかすんごく辛くなっちゃって…泣いちゃったの…」

しおりは黙ってまゆりの話を静かに聞いた。

「そしたらね…浩樹君、髪を撫でてくれて…それで、その後なんか成り行きで…チュッって…」

「…」

「私ね…キスしたの初めてだったの…だから、つい泣いちゃって…そしたら、浩樹君、優しくって…」

「ふ~ん…そうだったんだぁ…花火の時とか帰りとか、なんか二人の雰囲気が変…ってのか、ちょっと違うなって感じてたから、なんかあったんだろうなぁとは思ってたんだけど…」

本当はその一部始終を一緒に買い出しに行ったタケシと見ていたしおりなのだが、今、初めて聞きましたと言わんばかりに上手にとぼけて答えたのだった。

「あ、でも、2回したって…」

「ああ、うん…そうなんです…2回目は、なんかバイト先でボーナスもらったとかって言ってて…」

しおりは「ああ、あの日遅かったのはそういうことだったのね。」と思った。

「…ふ~ん…そうなんだぁ…どっかで待ち合わせしてたの?」

「あ、ううん…何も連絡取ってなかったんだけど…あたしね、その日、何となく浩樹君が家に来てくれるような気がしてたから…だからね…聞いてたバイトが終わる時間に外に出て待ってたの…そしたら、ちょっとしてからバイトの帰りの浩樹君来たの。」

「へえ~、すごいねぇ…まゆりちゃん、なんかそういう能力あるんじゃない?」

「たまたまですよぉ…そんなの…」

「そう?」

「…ええ、そんなにそんなにそういうことないですからぁ…あ、で、あたし、その日からコンタクトにしたから、もしかしたら浩樹君にそれ報告したかったのかも?…えへへへへへ。」

「そっかぁ…メガネも可愛いけど、こっちもいいものねぇ…」

「えへへへ…そう?ですかぁ…えへへへへ…浩樹君も同じ風に褒めてくれました…えへへへへ…あ、そうだ、それで、あたしはメガネなしの姿を見せたかっただけなんだけど…浩樹君、急にこう、ぐっとあたしの腰に手を回してくるもんだから、ちょー緊張しちゃって…」

「…」

「…でね、そしたら、次におでこ同士くっつけて…浩樹君がキスしていい?って言ってきて…きゃあ~、恥ずかし~!」

まゆりはお気に入りのフリルがついたピンクのクッションに、照れた顔を埋めた。

「へぇ~…浩樹さん、案外大胆なんだねぇ…普段、一緒にいるけど、そんな風なのは見たことないなぁ…」

「へっ?そうなんですかぁ?…」

がばっとクッションから顔を外したまゆりは、今度は食いつき気味にしおりに質問を始めた。

「あのっ、あのっ…今日は折角、しおりさんに家に来てもらってるから、私ね、色々聞こうと思って…」

「ん?何?」

「あのっ…浩樹君の生活ってのか…あの、一人暮らしの部屋とか…そんな感じの…私、まだ、浩樹君の家に行ったことないから…どういう感じとかってわかんないから…」

「ああ、そっかぁ…いいよぉ~…何でも教えてあげる!どんどん聞いてちょ~だい!うふふふふふ…」

まゆりとしおり、女二人の話は明け方まで途切れることなく続いたのだった。


実家から戻った次の日、僕は約束通りまゆりとデートすることになった。

ちゃんと二人きりで。

「どこに行きたい?」と事前に聞いていたのが、本当に良かったと思った。

まゆりは「この間の海水浴場に行かない?あそこ、あんまり人いなかったし、結構海綺麗だったし。あたしね、お姉ちゃんに水着買ってもらったんだぁ…えへへへへ。」と言って来た。

いつの間にかちょろくまゆりを好きになってしまった僕は、細身だけど結構胸はあるまゆりの水着姿を行く前から随分期待してしまった。

そんな自分も高校の時の海水パンツでは何となく恥ずかしいと思ったので、この間出たボーナスの残りでタケシと新しいのを買いに行った。

タケシは今回一緒に行けないのを、たいそう残念がったけれど、あいつらしい清清しさで「頑張れ!」って応援してくれた。

「彼女」と呼んでもおかしくない好きな女の子と一緒に、海水浴デートできる喜びが膨れ上がると、僕は前日全く眠ることが出来なかった。

「大丈夫?浩樹さん、寝ないと足、つっちゃうよ。」

しおりさんは母親みたいに心配してくれたのだが、僕らがデートの間、何故かまゆりの実家の寺にいると一人でウキウキしていた。

完全に成仏はできないみたいだけれど、お寺の神聖なパワーを浴びるのがよほど気持ちいいらしい。

「おはよう!まゆりさん!あのさ、今日はよろしくね!」

まゆりの家までの道中、思わずスキップしてしまった。

「あ、おはようございまぁ~す。浩樹君、今日はあの、よろしくお願いします。えへへへへ。」

オフショルダーの可愛らしい服の首元から、ベビーピンクの水着の紐が見えていた。

僕は「そっか、水着の色、ピンクなんだぁ。」と思うと、自然と鼻息が荒くなった。

折角のデートなのに、今日もまゆりの愛車の軽自動車の助手席に乗せてもらった。

僕は車の免許を取るのに、今度のバイト代から少しづつ貯金しようと心に決めたのだった。

「なんか、荷物多いね…」

「うん、あのね…お弁当作ってきたの…ちょっとだけ、ママに手伝ってもらったけど…えへへへへ。お昼、一緒に食べようね!浩樹君のお口に合えばいいんだけど…うふふふふふ。」

「え~!そうなのぉ?わぁ、楽しみだなぁ…そういえばさ、財布のお礼ってクッキーくれたことあったじゃない?俺、普段はそんなに甘い物得意じゃないんだけど、あのクッキーはすんごく美味しかったなぁ…また、今度作ってもらっていい?」

「えっ、あっ…あ、うん…わかった…今度頑張って作ってみるね。」

「えっ?もしかして…あれ、まゆりさんが作ったやつじゃないの?」

「えへへへへ…ごめんなさい…そうなのです。あれはうちのママが焼いたやつなのです…」

「あっ、あっ、そう…っかぁ…そうなんだぁ…そっかぁ…あはははは、なんか今日も暑いねぇ…」

そうやってお茶を濁さないと、まゆりが泣いてしまうんじゃないかって思った。

「…うちのママ、お菓子とかパンとかよく作ってるの…」

「そうなんだぁ…ふ~ん…」

僕は何となく視線を外と移した。

「…あっ、そういえばね…ほら、この間、浩樹君が実家に帰ってた時。」

「ああ、どしたの?」

「あの時ね、しおりさん家に泊まりに来てたでしょ。それでね、家のママが作った料理、美味しそうだねって言ってくれて、なんか、どうしても食べてみたいって言い出したの。」

「へぇ、そうなの?あの人、また、そんなわがまま…」

「あ、ううん、わがままじゃないんだけどね…それで、またあたしに憑依してもらって、一緒にご飯食べたらね。すんごく美味しいって、またパーって光っちゃって…びっくりしたの。あたし、今度こそ、しおりさん、成仏しちゃうんじゃないかって…」

「あ、そうなんだぁ。」

「うん、でもね…」

まゆりは言葉を詰まらせた。

「ああ、まだ普通にいるよねぇ…なんか…」

「あの日、いっぱい色んなこと話して、すんごく楽しかったんだぁ…だから、早く成仏させてあげたいけど、別れたくないとも思っちゃって…」

「そっかぁ、そうだよねぇ…」

車内でそんな会話を楽しんでいると、そろそろあの僕らの思い出の海岸が見えてきたのだった。


お盆を過ぎた海水浴場は、人もまばらで静かだった。

「なんか、プライベートビーチみたい。」

嬉しそうに笑うまゆりのピンクのビキニ姿に、僕はイチコロになってしまった。

僕らは普通のカップルみたいに、きゃいきゃいと目いっぱいはしゃいだ。

好きな女の子との時間がこんなにも楽しいなんて、それまでの僕は知らなかった。

そして、楽しい時間はあっという間だということも、僕はこの日身を持って知ったのだった。

浮き輪をはめた可愛いまゆりと、海にぷかぷか浮かびながら3度目のキスを交わした。

お互い海の水を頭から浴びていたので、キスはなんだか塩っ辛かった。


「今日はホントに楽しかったね。うふふふふ。」

「ホント、すんげぇ楽しかったね、そだ、あのさぁ…ちょっとだけ、部屋にあがんなよ…」

「えっ、いいの…でも…」

「いいっていいって…ここまで送ってくれたんだもん…お茶ぐらい飲んでってよ…しおりさん、いないから遠慮しないで大丈夫だよ…」

「…じゃあ、ちょっとだけ…」

僕はまゆりに僕の部屋にどうしても来てもらいたいと思っていた。

同居しているしおりとの関係の潔白さを証明したかったのもあるし、いつもまゆりの家にばかりお邪魔しているので申し訳ないというのもあるし、まゆりとキスから先に進みたいという下心もあったから。

ガチャ。

「さぁ、どうぞ…ちょっと散らかってるけど…」

「あっ!おかえりぃ~!海水浴どうだったぁ?」

「えっ?なんで?」

普段となんら変わりない様子で、しおりが僕らを出迎えた。

「えっ?あれっ?まゆりさん家にいるんじゃなかったっけ?」

「ああ、うん…そうなんだけど、なんかさ、急に帰って来たくなっちゃって…あれ?駄目だった?お邪魔だった?」

「あ、しおりさぁ~ん!こんにちはぁ~!海水浴すっごく楽しかったよぉ~!あそこ、いいところねぇ…また、行きたくなっちゃったぁ…えへへへへ。」

僕の気持ちなんて誰も察してくれなかった。

女二人は会うなり、すぐに僕が入る余地もないまま、喋り始めた。

無視されている訳じゃないけれど、僕はお客さまに冷蔵庫から出したばかりの冷たいお茶を出した。

ピンポーン。

「あははははは…あれっ?誰だろ?」

やっと二人の会話に混ざれた絶妙のタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。

「は~い!あれっ?タケシ!どしたの?お前…」

「ああ、浩樹、久しぶり…でもないか…あはははは、あれっ?もしかして、まゆりちゃん?来てたの?そっかぁ、あははは…丁度いかったわ…」

タケシは何の躊躇もせずににこにこ笑いながら、ずかずかと部屋に入って来た。

「ああ、なんかみんな揃うの久しぶりだねぇ…あはははは…そだ、あのさ、俺も実家に帰ってたんだけど…お土産結構もらっちゃったから、おすそわしようと思ってさ…」

「そんなのバイトの時でも…」

「ああ、だってさ、これ、生もんだからさぁ…美味しいうちにと思って。」

そう言ってタケシががさがさと袋から取り出したのは、甘い香りを放つメロンだった。

「熟れてて丁度食べごろだろ?…さっきまで冷たい場所に置いてたから、そんなにぬるくはなってないと思うんだけど…」

「わぁ、美味しそう…あたし、メロン大好き!」

「あっ、あたしもメロン食べてみたぁ~い!」

「女性陣が食べたいってさ…」

「わかった…ちょっと待ってて…今、切ってくるから…」

僕は冷えているメロンを持って立ち上がり、台所に行きかけたその時、バッグに入っていたスマホが大きな音を出した。

僕のもまゆりのも、タケシのも大きな音だった。

「えっ?何?これ…」

「えっ?えっ?えっ?これって緊急地震速報じゃない?」

タケシがそう言うか否かのタイミングで、僕らの部屋がいきなりグラグラと大きく揺れ始めた。

「きゃああああ~!」

僕はメロンをシンクに放り込むと、すぐさま叫び声をあげて怖がるまゆりの傍に駆け寄って、彼女の頭を抱え込むように抱きしめた。

「タケシ!大丈夫かっ!」

激しい揺れの中、僕はとにかくまゆりの体を守ろうとした。

剥がれ落ちてきた天井の破片が僕の背中を直撃しようとしたその時、まるで時間が止まったかのように空中にそれが留まっていた。

「えっ?あれっ?」

その瞬間、僕らは何故か揺れをまるで感じなくなっていた。

「えっ?何っ?どしてっ?」

机の下に頭だけしまいこんでいたタケシも、ゆっくり恐る恐る顔を出してきた。

「あっ!しおりさんっ!」

僕の腕の中にいるまゆりが不意に何かに気づいたようだった。

「あっ!しおりちゃん!」

タケシも同じみたいだった。

「えっ?」

僕もゆっくりと顔を上げて上を見てみると、そこに金色に光っているしおりが空中に浮いていたのだった。

「しおりさん!」

僕の声に無表情だったしおりが反応した。

「あっ、良かったぁ…みんな、怪我はない?大丈夫?」

「あ、うん…それよりも…しおりさんこそ…大丈夫?なの?…」

僕らは口を開けたまま、浮いているしおりに声をかけた。

「ああ、ありがとう…あたしね、なんか思い出したの…車に轢かれて死んじゃう前にね、母猫を探している子猫を助けたかったの…」

「えっ…」

しおりは驚く僕らにお構いなく、話し続けた。

「…でもね、あの時は助けてあげられなかったの…だけど、今は…大好きなみんなのこと、上手く助けられたみたいで…なんか嬉しい…」

しおりの声が徐々に小さくなるのと同時に、キラキラと光っているしおりの体も徐々に見えなくなっていった。

「えっ?しおりさん?どこに?」

まゆりの問いかけにも答えず、しおりの姿はすっかりとこの空間に消えていってしまった。

それと同時に剥がれ落ちてきていた天井の破片が、僕らに当たらないようにがしゃんと床に落ちた。

「やだっ、しおりさん!出てきて!ねっ!どこ?」

まゆりは必死にしおりに声をかけながら泣いてしまった。

「…これが…成仏ってことなのかなぁ…」

呆然としたままのタケシがぼそりと呟いた。

突然の出来事に、僕は言葉を失ったまま、まゆりをしっかりと抱きしめていたのだった。


さっきの地震は僕らがいた辺りだけだったらしかった。

天井が剥がれ落ちた僕の部屋は、大家さんが綺麗に修理することになったのだが、もう住めなくなってしまった。

まだまだ大学にも通わなくちゃならない僕は、途方に暮れた。

だが、まゆりの両親のご好意で、僕はまゆりの実家の使っていない部屋を借りられることになった。

「そんな家賃なんて…」と言われたのだけれど、食事までまゆりの家族と一緒にいただけるというので、僕はあの部屋の家賃分をまゆりの両親に毎月納めることにさせてもらった。

そうじゃなければ、申し訳なさすぎると思ったからだった。

しおりさんがいなくなったあの部屋を出る時、僕は妙な寂しさを感じていた。

それはタケシもまゆりも同じみたいだった。

これから好きなまゆりと一つ屋根の下で暮らせることになったけれど、僕は手放しでは喜べないと思った。

「…しおりさん…あれっきり見ないねぇ…」

「うん、寂しいねぇ…折角仲良くなったのに…すんごく残念。ちゃんとお別れしたかったな…」

そう言ってまゆりは、目に溜まった涙をぽろんとこぼした。

「…でもさ、彼女、やっとこ成仏できたんだからさ、喜んであげようよ!なっ!」

借りている僕の部屋に荷物を運ぶ手伝いに来てくれていたタケシが、そう言って僕らを励ましてくれた。

「そだね…」

「あ、じゃあさ…本堂でしおりさんの為にみんなでお祈りしない?」

まゆりの提案に、タケシと僕は一も二もなく乗った。

「そだね…しおりさんの為に…」

自宅から渡り廊下で繋がっている本堂に向うと、そこに見慣れた後姿が見えた。

「あっ!」

「えっ?」

「あれっ?し・お・り・さ・ん?」

生きている僕らがびっくりしたまま、突っ立っていると、その人は普通にくるっと振り向いた。

「あ~!みんな無事だったぁ?あははははは…浩樹君、良かったねぇ…ここに住めることになって…」

それは成仏したはずのしおりだった。

「あれっ?しおりさん、成仏できたんじゃ…」

「ああ、ううん…全然!」

「でも、あの時、パーって光って消えちゃったから…」

「ああ、あれねぇ…あたしも成仏かと思ったんだけど…なんかわかんないけど、違ったみたい…てへへへ。」

「てへへって…」

「あっ、これからもよろしくぅ~!」

彼女と僕らの付き合いは、まだ終わりそうにないらしい。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願い致します。

それと他の作品もよろしかったら、お願い致しますです。

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