銀の糸
蝶のヴィクトリカは、それはそれは美しい蝶だった
みんなみんな、森のみんな、ヴィクトリカの羽を一目見ようとお花畑に飛んで来る
ヴィクトリカはそれが嬉しかった
ある朝、ヴィクトリカは森の奥にキラキラ光る何かを見た
そっちは、みんなが危ないと言っているところだったのだけれど、キレイな物が大好きなヴィクトリカはパタパタと鮮やかな羽をはためかせた
ふらふら、ふらふら、ふらふら
どこだろう。キラキラはどこだろう
日はすっかり昇っている時間なのに、進めば進むほど森は暗く深くなっていく
わあっ
ヴィクトリカは叫んだ
ヴィクトリカの色とりどりの羽に、何か絡み付いている
取れないよぉ、助けてよぉ
どんなにヴィクトリカが助けを呼んでも、誰も来てはくれない
寒いよぉ、怖いよぉ
寒いのか、怖いのか
何処からか声が聴こえたから、ヴィクトリカは問いかけた
だぁれ、だぁれ
俺はハンス。みにくいハンスだ
ハンス、僕を助けてよぉ
ダメだ
どうしてだい
アンタはこれから食べられるんだ
誰にだい
俺にだ
その時、ヴィクトリカを絡みとる何かが揺れた
ひぃっ
沢山のぎょろぎょろした目玉がヴィクトリカを睨み、うごうごと波打つ口がヴィクトリカに近づく
みにくいハンスは、みにくい蜘蛛だった
俺は怖いだろ
ハンスは太い足でヴィクトリカの羽に触れた
ヴィクトリカはガクガク震えるばかりで、何も答えられない
しばらく黙って側にいたハンスは、そっと音もなく離れていった
どうしよう、どうしよう
ヴィクトリカは羽を動かしてみるけれど、上手にほどくことが出来ない
わあっなんだいっ
いきなり、ヴィクトリカは落下した
バランスが取れずに落ちてしまったらしい
羽に絡まった糸が、ぶらんぶらんとヴィクトリカを揺らす
痛いよぉ、痛いよぉ
羽が千切れそうな痛みに、ヴィクトリカは瞳に涙を溜めた
あれ
スルスルと、ヴィクトリカの体が引っ張り上げられた
そうして、再び糸でぐるぐるにされる
ハンスかい、ハンスが助けてくれたのかい
違う助けてない。お前は俺の飯だ
そうかい、そうかい
ヴィクトリカは嬉しくって首を回してハンスを探すけれど、何処にいるのだろう
ハンスやい、君は照れ屋なんだね
うるさいヴィクトリカ。蝶のヴィクトリカ
おや、何故僕を知っているんだい
ハンスは、ヴィクトリカの質問に答えなかった
日が沈み、森は一層寒くなった
ふるふると震えるヴィクトリカは、大声を響かせた
ハンス、ハンスやい、聞こえるかい
ヴィクトリカ、何の用だヴィクトリカ
寒いんだハンス
俺は寒くない
寂しいんだハンス
俺は寂しくない
一緒に居てくれないかい、ハンス
しばらく無言になったハンスは、結局返事をしなかった
ただ、静かにヴィクトリカのかたわらに寄り添った
おやすみハンス
ヴィクトリカは穏やかな寝息を立て始めた
月は白くなり、日は昇る
空は灰と青が混ざったような、不思議な色をしていた
起きろ、蝶のヴィクトリカ。起きろ
ハンスの声に、ヴィクトリカは目を覚ました
なんだいハンス、僕に用かいハンス
その時、朝日がヴィクトリカを照らした
暗い森が、一瞬明るく照らされる
わあ、すごいやぁ
木と木の間に張り巡らされた銀の糸が、朝露を纏ってキラキラと輝いている
きれいだね、きれいだねハンス
ヴィクトリカは首を捻ってハンスを見上げた
ああ、お前にコレを見せたかったんだ
ハンスは照れながら、ヴィクトリカを見下ろした
ヴィクトリカ、どうしたヴィクトリカ
ヴィクトリカはぐったりと項垂れていた。羽はグショグショに濡れていて、見るも無惨になっている
嗚呼、なんてことだヴィクトリカ
ハンスはヴィクトリカの亡骸を抱きながら、はらはらと泣いた
嗚呼、ヴィクトリカ。美しいヴィクトリカ、愛しいヴィクトリカ。お前は知らなかっただろうが、俺はお前を愛していたのだ。だが、羽を持たぬ俺は遠くからお前を見つめる事しか出来ない。何より、みにくい姿をお前に晒したくはなかったのだ。ヴィクトリカ、嗚呼ヴィクトリカ
ハンスの涙が朝日に煌めき、ヴィクトリカの羽を彩った
おわり