第三章 28.クーアスティル・エルレミア①
少女は一人、深い森の中でうずくまっていた。
最早日は沈み、深い静寂が辺りを包む。
森は、いよいよ昼間の森の生き物たちの時間から、夜の魔物達の時間へと移り変わろうとしていた。
通常、こんな時間にこの森に分け入ることは自殺行為と言える。
どんなに屈強な戦士と言えど、夜の森とは恐ろしいものだ。
月の光すら届かない深い闇が、太古より人が培ってきた防衛本能――恐怖を呼び起こさせる。
よほどの腕が無い限りここでは、容赦なく自然の掟に従い淘汰されるであろう。
そんな場所に、少女が一人。
だが、魔物達はまるで避けるように少女の周囲には寄り付かない。
少女の周囲は、真冬のような冷気で満たされており、樹の幹の表面や地面に霜を降ろし、そして、近づくもの全ての体温を奪っていく。
魔物達は、近づけないのだ。
その光景は異様であった。
そして何より異様なのは、その冷気が少女自身から発せられている事であった。
少女は、寒さで震えていた。
彼女は頭からボロボロの毛布を被り、うずくまっている。
しかしながら、身体を温めるはずのその毛布にも、霜が降りて凍りついていた。
彼女の足元には、木の枝が集められ焚火の準備をしていた様子が見受けられる。
もし、火を起こす事が出来れば、この寒さを少しは凌ぐことが出来たであろうが、己から吹き出る冷気によってそれは叶わなかったのだろう。
毛布の中で、凍った木苺の実――彼女の触れたものは凍り付いてしまう――を口に含み、無理やり氷を割るように食べる。
強い酸味と少しの甘さ、そして、……少しだけ、血の味がした。
彼女は恐怖していた。
だがそれは夜の森への、もしくは魔物達への恐怖だけで怯えている訳ではなかった。
確かに少女にとって魔物は、己の生命を脅かす恐怖の対象である。
だが、少女が本当に恐怖していたのは孤独、そして、己自身へだった。
――それは、少女が『化け物』だからだ。
『氷の化け物』
これは、少女がこの姿になって初めて人に言われた言葉だ。
少女の名前は、クーアスティル・エルレミア。
闇族のエルフである。
闇族のエルフの特徴は、銀色の髪、長い耳、浅黒い肌、金色の瞳であるが、彼女は銀色の髪、長い耳以外の一族の特徴を持たない。
その代りに、まるでルビーのような瞳を持ち、雪のように白い肌をしていた。
彼女は、自身から流れる冷気を制御する術を持たない。
出来るのかも分からない。
抑えようと努力した事があったが、無駄であった。
そんなクーアスティルだが、幼い頃はごく普通の闇族のエルフであった。
彼女の運命が変わったのは9歳の頃だ。
9歳の初夏の白夜の日、クーアスティルは村はずれの湖に来ていた。
この湖は不思議な事に一年中氷が張っているのだが、一年の内この時期の数日だけ、なぜか湖の氷が溶ける。
この村では、言い伝えられたある掟が存在する。
『氷が溶けている時、白夜の日に湖に近づいてはならない』
これは、400年ほど前に生まれた掟で、何故行ってはいけないのか、村人全員が訳を知らなかった。
400年前からというと、数千年も生きる事の出来る闇族のエルフにとって比較的新しい規則であるが、この村には長く生きた闇族のエルフはほとんどいない。
故に知らなかった。
そんな訳で、理由の分からない規則を破る者もおり、子供たちの中でこの時期に、この湖を見に行くものは少数だがいたのだ。
娯楽の少ない村だ。
この種のスリルは、むしろ子供たちにとっては最高の遊びだった。
先日も、村の悪ガキの一人が湖へ行き湖の水を瓶に詰めて持ってきた。
これは、湖に言ってきたという証拠である。
だがこの水が、例え井戸水でも調べようがないので、厳密には証拠にはならないのだが、そこは子供のする事である。
子供たちは、大はしゃぎで湖の様子をその悪ガキから聞いている。
その様子をほほえましそうに影から見守る大人たち。
実は若い大人たちも、子供のころに同じような遊びをしていたので、あまり文句は言わないのだ。
ただ、子供たちがあまりに大声でその事を話していると体裁が悪いので「湖に行ってはダメだぞ」と叱るのだった。
そんな中、悪ガキがこんな事を言い出す。
「湖の水をすくう時に、少し遠くの方を見たら、水が赤く光り輝いたんだ。あれはきれいだったなぁ」
子供たちは「すげー、おれもみたいなぁ」なんて言いながら、友達同士集まって、今度はいつ湖に行くか計画を立てる。
それを聞いていたクーアスティルもたまらなくなった。
(赤くかがやく、きれいなけしき。みてみたいな)
今まで湖に、興味はなかったといえば嘘になる。
ただ、好奇心の強い性格ではあったが、約束は守らなくてはいけない。
やってはいけないことは、やってはいけない。
そういう部分では真面目な性格であったため、今までは我慢していた。
だが、今回ばかりは好奇心に勝てそうになかった。
周りの男の子たちに一緒に連れてってほしいとお願いしても、いい返事はもらえなかった。
友達の女の子は、あまり興味がないらしい。
それもそのはず、この遊びは男の子の遊び、と言うより度胸試しなのだ。
(こうなったら、一人でいこう!みんなもいったりしてるし、だいじょうぶだよね?)
こうしてクーアスティルは、親が寝ている隙にこっそり家を抜け出し、一人で湖まで来たのだった。
湖に着いたクーアスティルは、湖の美しさに息をのんだ。
辺りは静かで波ひとつ無い。
湖の水面に太陽が反射し、七色の光を発している。
そして、その光を囲むように山々が湖に映し出されていた。
「ほわぁ、きれいだなぁ」
クーアスティルは思わずつぶやいた。
そして時を忘れ、うっとりとその景色に見とれていた。
どのくらい、時間が経っただろう。
(……そろそろかえらないと、お父さんとお母さんにみつかっちゃうかもしれない。そういえば赤いひかりみえなかった。……もしかして、おひさまのことだったのかな)
もう少しこの景色を見ていたい気がしたが、また来ればいい。
そう思い、村へ向かった。
そうだ。
最後にもう一度、この景色をこの目に刻もう。
ふと、振り返って――
そして、赤い輝きを見た。
それは、クーアスティルが先ほどまでいた辺り、そこからすぐの湖の中。
(きれい。……ほうせきみたい!)
彼女は走る。
まるで宝物を見つけたように。
大好きな人に駆け出すように。
彼女は走る。
その胸は高鳴りもはや、自分を抑える事が出来ない。
それは、羽虫が光に飛び込むように。
彼女は迷わず湖に入っていった。
水深はちょうど彼女の膝くらいだろうか。
そして見つけたのだ。
いや、見つけてしまった。
それは『元始の海を枯らすモノ』の一部。
――『総ての中で一番美しい赤』
鮮血のように鮮やかな、それでいて透き通った赤色。
しかし、それは何より透き通っているにも関わらず、覗き込めばどこまでも深く、果てしなく、先が見えない。
彼女の手のひらほどの大きさで、仄かな光を発するキューブ。
――それが『総ての中で一番美しい赤』
クーアスティルは、水の中からそのキューブを拾い上げた。
彼女の愛らしい表情は、今や人形のように無機質なものとなり、ただじっとキューブを見つめ続ける。
その内にキューブの光は強くなり、光が彼女の瞳に吸い込まれる。
手のひらにあったキューブは消えてなくなり、何かが彼女の中に降りてきて
――そこから先を、彼女はあまり覚えていない。




