向井4
俺は今どこにいるのだろうか。そう思い、目を開けると雲ひとつない青空が見えた。どうやら、いつもの場所にいるらしい。太陽は徐々に沈み始めている。昼過ぎだろう。俺は起き上がると、ビニール袋からお茶のペットボトルを取り出し口に当てる。どのくらい寝ていたのだろうか。喉が渇いていた。顔に微かな鈍い痛みが残っていた。
「起きた?」
俺はせき込む。お茶が入ってはいけないところに入ってしまった。もう数学の個人レッスンは勘弁してくれ。
「ごめん、驚かせちゃったね。」
声の主が前に回り込む。まず俺の目に映ったのは鳶色の澄んだ眼、そして何に対しても無関心のような眼だった。
「私のこと覚えてる?」
そう言うと楓は自分の顔に人差し指を向けた。軽く顔を傾けているのは何かのポーズなのだろうか。
「昨日の今日だ。忘れるわけないだろう。」
俺は当たり前の反応をしたつもりだった。しかし、俺は楓の顔の筋肉が緩んだのを見逃さなかった。喜んでいるような、安堵したような、そんな表情だった。
「で、決めたのかな?」
俺は黙りこむしかない。理由は二つある。一つ、今だにお茶が気管支に入りかかっていて、言葉を発しようとするとせき込みそうになるから。二つ、楓が何を言っているのか飲み込めないからだ。
「その様子だと、まだみたいだね。」
楓は俺の隣に座り、空を見上げる。楓は不思議と制服が似合わなかった。制服が幼くなって見えるのだ。
ふと、屋上を吹く風が、生き生きしているように感じた。微かに桜のような花の香りが漂う。それは香水のような人工的な香りではなかった。俺一人のときはこんな香りはない。ということは、この香りの起源は楓ということになる。
「このままじゃ、かわいそうだよ。」
その声に感情はこもっていない。しかし、惰性で言うようなセリフとも思えない。
「俺がか?」
冗談半分に言ってみる。楓は静かに首を横に振る。楓は首を九十度回転させ、急にこちらを向く。以外に近くに顔があり、俺は多少退く。
「君も、武藤君たちも。」
武藤?そういえば、昨日からなんかゴチャゴチャしていたな。しかし、あいつらはゲームを楽しんでいる。面白くなるのはこれからだと思われるのに、かわいそうということもないだろう。
「かわいそうなのは、あいつらにいじめられている奴だけだ。俺は関係ない。」
「やっぱり、君は逃げるのかな。」
右腕に力が入るのを感じる。こいつと初めて会った時から感じていた。こいつは俺が心の奥深くに隠しているものを見事に指摘してくる。排除しなければならない。俺に接触し、俺を知り、弱みを握ろうとする奴は、全て。俺は、右腕を楓の細い首めがけて伸ばす。
「いたぁ。今度こそ、ちゃんと、教えて、もらうんだから。」
間の抜けた声が聞こえる。俺は動きを止める。楓は眉一つ動かさず、声のするほうを向く。タイミングの悪い奴だ。
「あっ。もしかして、いい雰囲気だった?ごめんねー。」
そう言いながらも、少女は例の辞書みたいな問題集を抱えてこちらに向かってくる。走ってきたのか、肩で息をしている。屋上に吹く風が強くなってきた。嵐の予感、というやつか。
「ちょっとそこ、どいてくれる?」
楓がうなずくのを確認する前に、少女は俺と楓の間に入り込んできた。なぜわざわざ間に入り込む?
「美夜さん、向井君に数学教えてもらっているの?」
どうやら、顔馴染みというわけではないらしい。美夜と呼ばれた少女が楓の顔をしばらく眺める顔は、不審者を観察し、警戒する警察顔負けの顔だった。
「いやー。正確にはまだなんだけどさ。教えてくれるって言うからさ、わざわざこうして出向いてるわけなのよ。」
敵ではないと判断したのか、それとも誰に対してもそうであるのか、美夜の表情は一変し、馴れ馴れしい言葉遣いと口調で応えた。
「正確にはまだ」とはどういう意味だ。朝から何度も教えてやっているだろう。しかも、「教えてやる」と言った記憶はない。いや、記憶にないだけで言ったかもしれないが。
「向井君の説明、分かりやすい?」
「全然。こいつろくに教えてくれないし、説明してくれたと思えば、言っていること訳分かんないし。向井は人に教える才能がないね。」
「正確にはまだ」というのが、「自分は納得していないから、教わっていないことと同じだ」ということを言っているのだな、と理解する。そうだとすると、俺はおまえに何も教えることはない。免許皆伝だ。さっさと消えてくれ。
美夜と話す楓の無表情な横顔を眺めていると、先程浮かび上がり沈んでいったものが徐々に俺の頭の中を支配し始めていた。
「でさ、邪魔して悪いんだけど、ここのところ―」
こっちを向くな。見るな。話しかけるな。俺にまとわりつくな。俺に興味を持つな。俺の世界に侵入するな。
―消えろ―
屋上に鈍い音が響く。右腕に衝撃が走る。俺はさっき力を込めた腕で辞書みたいな数学の問題集を弾き飛ばしていた。本の表紙と裏表紙が両側に開き、鳥のように空を舞った。しかし、着陸は上手くいかず、そのままコンクリートの地面の上に叩きつけられる。それと同時にチャイムが鳴る。右腕から伝わる振動と鼓膜を震わせる振動が同時に脳に伝わる。
俺は二人の顔を見ずに屋上を立ち去る。凍りつこうが、爆発しようが、勝手にしろ。
面倒なんだよ。